『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
2 太陽王のある一日
ベルサイユの宮殿と庭園の工事には、当時の美術家たちが動員された。
宮殿中央の主館を設計したのはル・ボー(一六一二~七〇)であり、マンサール(一五九八~一六六六)はこれをうけつぐとともに、有名な「鏡の間」や礼拝堂を建造した。
この「鏡の間」の装飾にあたったループルン(一六一九~九〇)は、画家としてよりも装飾家として天才的であり、かずかずの絵とともに、宮殿のため椅子、テーブル、じゅうたん、銀細工、鍵穴までデザインした。造園を担当したル・ノートル(一六一三~一七〇〇)は個人的にも王に親しかった。
そしてこの雄大、豪華なベルサイユ宮殿は、当時のバロック美術を代表するものであった。
そしてルイ十四世はベルサイユに熱心であっただけに、またものごとを統(す)べる才に長じていただけに、宮殿から庭園と細部にいたるまで、最後の決を下すのは王自身であった。
王はしばしばル・ノートルをともなって何時間も逍遙(しょうよう)し、ちょうど将軍たちと軍事について論ずるように、樹木や泉水の配置などにかんして意見をのべるのであった。
一六八二年五月、ルイはその新しい宮殿にうつったが、そのときはまだ万を数える人びとや数千の馬が働いていたという。
主要なものは完成していたが、全体的な造営や改修は王の治世を通じてつづく。宮殿の二階、昇ってゆく朝日に面して、公私にわたる王の部屋が位置している。王妃、王族の居室のほかに、廷臣の用に供すべき多くの部屋が準備されてある。
いまや「王座の飾りもの」となった貴族たちは、主の寵愛をうるために、出世の機会をつかむために、領地を離れてベルサイユに集まってきた。
「暦と時計さえあれば、遠く離れていても、王がいまなにをなさっているかを推測できる。」
それほど、ベルサイユにおける王の日常生活はわずらわしいまでに、整然と時間を定めてとり行なわれた。
ある記録をたどってみると、だいたい、つぎのようなぐあいである。
とくに命じた時間に起きる場合を別として、八時が告げられると、部屋係が王のベッドに近づいて、言上する。
「陛下、八時でございます。」
王の部屋の寝台がある部分は、柵をもって他(ほか)としきられている。
寝室へはいれるのは、王族や廷臣たちの大きな特権であり、四つほどのグループに分けられ、順を追って出仕する。王が目ざめると、王弟や王子たちが入室してあいさつする。
八時十五分、幼時の王に授乳した乳母がやってきて接吻する。
王は医者たちの軽い診断をうけたのち、アルコールで手をあらい、その日に必要なかつらをえらぶ。
かつらをつけるのは当時の貴紳の風習であり、ルイ十四世はそのために自慢のブロンドの頭髪をそらせてしまったという。
それから王は上靴をはき、夜着のうえにガウンをまとう。
肘かけ椅子に腰かけ、一朝おきにひげをそる。終わると、かつらをつけ、こうして「起床」の次第がはじまる。
百人ばかりの廷臣たちがこれに列席し、王の着がえを見まもるわけだ。
まず靴下、つづいて半ズボン、靴と、身仕度はととのえられる。
しかしまだガウンのままで、王は白パン、水などの軽い朝食をとるが、紅茶、コーヒー、チョコレートの類は好まなかったらしい。
朝食後、王は夜着をぬぎ、下着をきるが、寒いときにはそれは温められている。
このときは二人の召使がガウンをかかげて、人目をさえぎる。
つぎに王は剣や装身具などをつけ、ネクタイやハンカチーフは自分でえらぶ。
王が上着をきると、帽子、手袋などをわたされるが、これらの品々は一つ一つ、廷臣か、召使によって王にさしだされる。
下着を手わたすのは最高の特権であり、王太子か、王族がこれに当たるのが通例である。
夜着をぬがせるなどの作法も、正確に定められていた。
起床の次第が終わると、王はミサのまえに政務の間へはいり、その日のいろいろな命令をあたえたりする。
ミサのあとは、謁見がある木曜日と聴罪司祭に告白する金曜日をのぞき、王は政務の間で国務会議をひらく。
昼食は一時に一人でとる。
食事は、銃を持つ三人の兵をふくむ十人の護衛に守られて運ばれるが、その行列にぶつかると、廷臣は帽をぬぎ、礼をし、低い声でいわねばならぬ。
「王さまの召しあがりもの。」
すべての食物、酒類が毒味されていることはいうまでもない。
ところで食事といえば、毎日ではないにしても、ルイ十四世は死のまえの週まで公開で食事をとったと記録されている。
王のナイフをあつかう手つきのあざやかさに、見物の人びとは感心したという。
「太陽王」「大王」といわれたルイ十四世であるが、当時のしきたりとして、一般国民の見物の対象となったものとみえる。
これは王および王族は、国民のものという考え方からでたものと思われ、この点、わが国とはかなり違っている。
とくに王宮がパリにあったころには、朝から晩まで市民たちがおしかけ、盛り場同然の騒ぎだったというから、日本の皇居のありかたとも違っていた。
さて昼食後、王は軽い狩りをしたり、運動のため、あるいはつづけられている造営作業を見まわるため、散歩するが、この散歩には多くの廷臣たちが同行するならわしであった。
帰ってくると、王は政務の間で少しのあいだ執務する。
晩餐はおそくなる。
このときは王族も食卓につき、男女の貴族たちも同席するが、なかには立っている者もいる。
王は間食をほとんどとらないので、ひじょうに空腹であるうえに、元来たいへんな大食漢であった。
したがって盛りだくさんの料理だったらしい。
食後には歸踏会、音楽会、トランプ遊び、天気がよければ庭園での集(つど)いが行なわれたり、あるいは王は王族との語らいにすごすのが習わしであった。
王が就寝のときには、またその礼式がとり行なわれる。
朝、身につけた場合と同様に、こんどはぬいでゆくが、やはり廷臣たちの立ち会いのもとである。
王がからだを洗ったりするころには、同席の人数も少なくなる。
ローソクを持つ役目は、特別の名誉である。
おつきの者と小姓たちが最後に残り、王は犬たちに食糧をあたえたり、これらとたわむれたのちべッドにはいる。
小姓たちは明かりを消し、おつきはベッドのカーテンをとざして退去する。
絶対君主はこうして眠りにつき、ベルサイユの夜はふけてゆく……。