『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
5 五胡十六国
1 匈奴の侵入
洛陽の都は、魏から晋の時代にかけて、いつもにぎわっていた。
蜀の皇帝だった劉禅(りゅうぜん=後主)も、国がほろびてからは、ここで毎日をおくっていた。
その死去は、晋の泰始七年(二七一)のことである。泰始二年には倭の女王の使者も、ここをおとずれていた。
おなじころ、この洛陽の都に、身のたけ一メートル九〇センチあまりの、たけだけしい顔つきの青年がいた。
ひげも長い。胸には赤く長い毫毛(ごうもう)が三本はえている。
名だかい人相見(にんそうみ)たちは、いままで見たこともないほどの、すぐれた相をしている、と話しあっていた。
この青年は、名を劉淵(りょうえん)といった。しかし中国人ではない。
匈奴の単于(ぜんう=王)の直系の血をつたえる者であった。
むかし漢の高祖(劉邦)が匈奴をうって失敗し、その単于と兄弟の約をむすんで以来、劉の姓を名のっているのである。
劉淵はわかいときから、漢人の学者について古典をまなんだ。
そのうえ、血はあらそわれぬものである。力がつよく、弓を射るのにもたくみであった。
太原(たいげん)の王氏などは、かれに着目して、その力を呉の討伐など、晋のために利用しようとした。
もとより匈奴そのものには、往年の勢力はない。
一部は西方へ移動してしまったし、北アジアにのこっていたものは、後漢の時代にゆるされて、中国の内地(山西)に移住してきた。
山西の太原から出た王氏が、劉淵に目をつけたというのも、ふだんから接触があったためであろう。
ただし王氏の考えには、つよい反対もあった。
「むかしから、『わが族類にあらざれば、その心かならず異(こと)なる』というではないか。
匈奴の力をかりるなど危険であり、おそろしいことである。」
さらには、「劉淵を殺さねば、山西の地は平和にならない。」 とまで、いう人もあった。
劉淵は、なかば人質のようなかたちで洛陽にいて、漢民族の自分を見る目が、かならずしも好意的でないことを感じた。
あるとき劉淵は、したしい友人が山東に旅立つのを見送り、
「わたしは讒言(ざんげん)をこうむっている。いまわかれると二度とあなたと会えないだろう」と心の中をうちあけた。
また、劉淵は独立を決心したとき、匈奴の人びとにむかって、このようにも言った。
「われわれは、晋から奴隷のようにあつかわれている。」
永興元年(三〇四)八月、劉淵は匈奴の統一をついになしとげ、国号を「漢」と称した。
山東にいた石勒(せきろく)たちも、これに参加した。石氏は、匈奴の別種たる羯(けつ)族の出身である。
八王の乱(三〇〇)がおこると、諸王は、その軍隊を強化するために、しきりに異民族をむかえいれた。
異民族が中原にうつり住むことに、拍車がかけられた。
劉淵じしんも、八王のひとりから協力をもとめられ、戦争に参加している。
そして漢人の実力を知るとともに、漢人に対する怨みの心をかきたてられ、復讐をちかうようになった。
永嘉四年(三一〇)、劉淵は死んだが、その翌年、匈奴は洛陽にせめこんで、晋の懐帝(かいてい)をとらえた。
帝は皇后の羊(よう)氏ともども北につれさられ、匈奴の宮廷で給仕の役をつとめさせられた。
皇后は匈奴の王族の妻にされた。これを永嘉の乱という。
いっぼう晋では、懐帝の甥が長安で即位したが、匈奴はまもなく長安を占領した。
ここに晋(西晋)は、いったんほろんだ。ときに建興四年(三一六)であった。
こうして中国は、晋が呉をほろぼしてから三十年たらずにして、ふたたび分裂したわけである。
このとき長江の上流たる四川(しせん)には、チペット系の氐(てい)族が「成漢」国を、甘粛(かんしゅく)には漢人の李氏が「前涼(ぜんりょう)」国をそれぞれ建てていた。
5 五胡十六国
1 匈奴の侵入
洛陽の都は、魏から晋の時代にかけて、いつもにぎわっていた。
蜀の皇帝だった劉禅(りゅうぜん=後主)も、国がほろびてからは、ここで毎日をおくっていた。
その死去は、晋の泰始七年(二七一)のことである。泰始二年には倭の女王の使者も、ここをおとずれていた。
おなじころ、この洛陽の都に、身のたけ一メートル九〇センチあまりの、たけだけしい顔つきの青年がいた。
ひげも長い。胸には赤く長い毫毛(ごうもう)が三本はえている。
名だかい人相見(にんそうみ)たちは、いままで見たこともないほどの、すぐれた相をしている、と話しあっていた。
この青年は、名を劉淵(りょうえん)といった。しかし中国人ではない。
匈奴の単于(ぜんう=王)の直系の血をつたえる者であった。
むかし漢の高祖(劉邦)が匈奴をうって失敗し、その単于と兄弟の約をむすんで以来、劉の姓を名のっているのである。
劉淵はわかいときから、漢人の学者について古典をまなんだ。
そのうえ、血はあらそわれぬものである。力がつよく、弓を射るのにもたくみであった。
太原(たいげん)の王氏などは、かれに着目して、その力を呉の討伐など、晋のために利用しようとした。
もとより匈奴そのものには、往年の勢力はない。
一部は西方へ移動してしまったし、北アジアにのこっていたものは、後漢の時代にゆるされて、中国の内地(山西)に移住してきた。
山西の太原から出た王氏が、劉淵に目をつけたというのも、ふだんから接触があったためであろう。
ただし王氏の考えには、つよい反対もあった。
「むかしから、『わが族類にあらざれば、その心かならず異(こと)なる』というではないか。
匈奴の力をかりるなど危険であり、おそろしいことである。」
さらには、「劉淵を殺さねば、山西の地は平和にならない。」 とまで、いう人もあった。
劉淵は、なかば人質のようなかたちで洛陽にいて、漢民族の自分を見る目が、かならずしも好意的でないことを感じた。
あるとき劉淵は、したしい友人が山東に旅立つのを見送り、
「わたしは讒言(ざんげん)をこうむっている。いまわかれると二度とあなたと会えないだろう」と心の中をうちあけた。
また、劉淵は独立を決心したとき、匈奴の人びとにむかって、このようにも言った。
「われわれは、晋から奴隷のようにあつかわれている。」
永興元年(三〇四)八月、劉淵は匈奴の統一をついになしとげ、国号を「漢」と称した。
山東にいた石勒(せきろく)たちも、これに参加した。石氏は、匈奴の別種たる羯(けつ)族の出身である。
八王の乱(三〇〇)がおこると、諸王は、その軍隊を強化するために、しきりに異民族をむかえいれた。
異民族が中原にうつり住むことに、拍車がかけられた。
劉淵じしんも、八王のひとりから協力をもとめられ、戦争に参加している。
そして漢人の実力を知るとともに、漢人に対する怨みの心をかきたてられ、復讐をちかうようになった。
永嘉四年(三一〇)、劉淵は死んだが、その翌年、匈奴は洛陽にせめこんで、晋の懐帝(かいてい)をとらえた。
帝は皇后の羊(よう)氏ともども北につれさられ、匈奴の宮廷で給仕の役をつとめさせられた。
皇后は匈奴の王族の妻にされた。これを永嘉の乱という。
いっぼう晋では、懐帝の甥が長安で即位したが、匈奴はまもなく長安を占領した。
ここに晋(西晋)は、いったんほろんだ。ときに建興四年(三一六)であった。
こうして中国は、晋が呉をほろぼしてから三十年たらずにして、ふたたび分裂したわけである。
このとき長江の上流たる四川(しせん)には、チペット系の氐(てい)族が「成漢」国を、甘粛(かんしゅく)には漢人の李氏が「前涼(ぜんりょう)」国をそれぞれ建てていた。