『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
10 大モンゴル
8 グユクとモンゲ
つぎの大汗としてオゴタイが期待していたのは、孫にあたるシラムンと、そしてモンゲであった。
しかしオゴタイの死後は、その皇后(ドレゲネ)が監国(かんこく)となって、政務をみる。
彼女にとってみれば、みずからの子であるグユクを位につけたがった。
(グユク 中華ドラマ「フビライ・ハン」より)
もちろん、それにはクリルタイをひらいて、承認してもらわねばならない。
ところがグユクは かねてからバツと仲たがいしていた。
したがってバツは、グユクを大汗に推すことには、まっこうから反対している。
クリルタイをひらこうとしても、ロシアにとどまっていて、出席しようとはしない。
むなしく二年、三年とすぎていった。
バツは、ヨーロッパへの遠征を中止したものの、そのままロシアにとどまったのである。
カスピ海にそそぐボルガの河口、サライを本拠として、父なるジュチの遺領に、みずから征服した広大なロシアの平原をくわえ、その支配をかためることに専念していた。
その本拠となったところの名をとって、キプチャク汗国とよばれる。
こうしてオゴタイが死んでから五年後(一二四六)、ついにクリルタイは、バツの出席をみないまま、グユクを大汗にえらんだ。
バツは、その即位の式にもおもむこうとはしない。
まさしく反抗の姿勢であった。
モンゴル大帝国には、はやくも分裂のきざしがあらわれた。
しかしグユクは、在位二年たらずで病死する。
グユタとバツとの衝突は避けられたが、つぎの大汗をだれにするかで、またも争いがむしかえされた。
バツと、ツルイ家の人々は、今度こそモンゲを立てようとした。
オゴタイ家の人々は、もちろんこれに反対である。
ときにモンゴル帝国の中心に立っていたのは、グユクの皇后(ウグル・ガイミシ)である。
しかし彼女は、政務をみる力に欠けていた。
不正が横行し、混乱はかさなるばかりであった。
そこでバツは、一二五一年、みずからの手でクリルタイをひらき、強引にモンゲを大汗に選出してしまった。
今度は、オゴタイ家やチャガタイ家の人々が参加しない。
いわば違法のクリルタイであった。
オゴタイ家の人々は憤慨した。モンゲを襲おうとした。
これをツルイ冢の人々が、むかえうった。
(モンケ 中華ドラマ「フビライ・ハン」より)
そしてオゴタイ家の首謀者たちをとらえ、グユクの二子とシラムンを流刑に処してしまった。
オゴタイの遺領(オゴタイ汗国)も、分割して、その一族のものにわけられた。
ここにオゴタイ家は、まったく勢力を失ったのである。
あらたに大汗となったモンゲは、年まさに四十四歳。
いくさに強く、狩猟をこのみ、質素な生活にあまんずる、まさにモンゴル武人の典型であった。
オゴタイの死から十年に及ぶ間、ゆるんでいた帝国の紀綱も、モンゲのもとでふたたび引きしめられた。
まず国都のカラコルムには、腹心の部下を総督に任命した。
属領への統制をかためるために、燕京(いまの北京)をはじめ、中央アジア(ピシュバリク)と西アジア(アム川)に、それぞれ支庁をもうけた。
そうして、その上でおこなったことが、二方面への大遠征であった。
弟のフビライは、漠南漠地大総督に任ぜられ、華北の地をおさめるとともに、さらに南方の地の経略にあたった。
いうまでもなく、南宋を北と南から包囲しようとするものである。
つぎの弟のプラグは、西方大総督に任ぜられ、イラン地方の径略にあたった。
フビライとプラグとは、一三九二年七月、それぞれ大軍をひきいて、いっせいに進入した。
フビライの軍は、南宋の領内たる四川(蜀)の地を突破して、雲南(うんなん)にいたり、そこにあった大理国をほろぼした。さらに一軍は北ベトナムにまで進入している。
西へむかったプラグの軍は、イランに攻めいり、一二五八年にはイスラム政権の本拠たるバクダードをおとしいれた。
かくて五百年余りつづいたアッパース朝も、ついに滅亡するにいたる。
さらにプラグは、あくる年シリアに軍を進め、その一部を占領して、エジプトのカイロ政権(マムルク朝)と境を接するにおよんだ。
こうしてイランから小アジアにかけて建国したのが、イル汗国である。
イル汗とは、トルコ語で「国の王」という意味であった。
モンゴルの勢いは、ここにいたっていよいよ強大となった。
フビライによる漢地の経営もすすんでいる。
モンゲは、南宋への親征にふみきった。一二五八年二月、大汗みずから軍を南方に進める。
黄河をわたり、オルドスをこえ、本営を甘粛の六盤山(ろくばんざん)にかまえた。
そこはチンギス汗の最期の地でもある。
いっぽうフビライのひきいる軍は、東方から南下した。
別軍は、かねてから雲南の地にあったが、北上して背後をつく。
三方面からの包囲作戦であった。
しかるに一二五九年の七月、おりからの猛暑にくわえて、伝染病が軍中にひろがる。
四川(しせん)の地まで南下した大汗モンゲも、病のおかすところとなった。
そして五十二歳の働きざかりの身が陣中にたおれたのである。
不慮の事態によって、さしもの壮図もいったん頓挫(とんざ)した。
10 大モンゴル
8 グユクとモンゲ
つぎの大汗としてオゴタイが期待していたのは、孫にあたるシラムンと、そしてモンゲであった。
しかしオゴタイの死後は、その皇后(ドレゲネ)が監国(かんこく)となって、政務をみる。
彼女にとってみれば、みずからの子であるグユクを位につけたがった。
(グユク 中華ドラマ「フビライ・ハン」より)
もちろん、それにはクリルタイをひらいて、承認してもらわねばならない。
ところがグユクは かねてからバツと仲たがいしていた。
したがってバツは、グユクを大汗に推すことには、まっこうから反対している。
クリルタイをひらこうとしても、ロシアにとどまっていて、出席しようとはしない。
むなしく二年、三年とすぎていった。
バツは、ヨーロッパへの遠征を中止したものの、そのままロシアにとどまったのである。
カスピ海にそそぐボルガの河口、サライを本拠として、父なるジュチの遺領に、みずから征服した広大なロシアの平原をくわえ、その支配をかためることに専念していた。
その本拠となったところの名をとって、キプチャク汗国とよばれる。
こうしてオゴタイが死んでから五年後(一二四六)、ついにクリルタイは、バツの出席をみないまま、グユクを大汗にえらんだ。
バツは、その即位の式にもおもむこうとはしない。
まさしく反抗の姿勢であった。
モンゴル大帝国には、はやくも分裂のきざしがあらわれた。
しかしグユクは、在位二年たらずで病死する。
グユタとバツとの衝突は避けられたが、つぎの大汗をだれにするかで、またも争いがむしかえされた。
バツと、ツルイ家の人々は、今度こそモンゲを立てようとした。
オゴタイ家の人々は、もちろんこれに反対である。
ときにモンゴル帝国の中心に立っていたのは、グユクの皇后(ウグル・ガイミシ)である。
しかし彼女は、政務をみる力に欠けていた。
不正が横行し、混乱はかさなるばかりであった。
そこでバツは、一二五一年、みずからの手でクリルタイをひらき、強引にモンゲを大汗に選出してしまった。
今度は、オゴタイ家やチャガタイ家の人々が参加しない。
いわば違法のクリルタイであった。
オゴタイ家の人々は憤慨した。モンゲを襲おうとした。
これをツルイ冢の人々が、むかえうった。
(モンケ 中華ドラマ「フビライ・ハン」より)
そしてオゴタイ家の首謀者たちをとらえ、グユクの二子とシラムンを流刑に処してしまった。
オゴタイの遺領(オゴタイ汗国)も、分割して、その一族のものにわけられた。
ここにオゴタイ家は、まったく勢力を失ったのである。
あらたに大汗となったモンゲは、年まさに四十四歳。
いくさに強く、狩猟をこのみ、質素な生活にあまんずる、まさにモンゴル武人の典型であった。
オゴタイの死から十年に及ぶ間、ゆるんでいた帝国の紀綱も、モンゲのもとでふたたび引きしめられた。
まず国都のカラコルムには、腹心の部下を総督に任命した。
属領への統制をかためるために、燕京(いまの北京)をはじめ、中央アジア(ピシュバリク)と西アジア(アム川)に、それぞれ支庁をもうけた。
そうして、その上でおこなったことが、二方面への大遠征であった。
弟のフビライは、漠南漠地大総督に任ぜられ、華北の地をおさめるとともに、さらに南方の地の経略にあたった。
いうまでもなく、南宋を北と南から包囲しようとするものである。
つぎの弟のプラグは、西方大総督に任ぜられ、イラン地方の径略にあたった。
フビライとプラグとは、一三九二年七月、それぞれ大軍をひきいて、いっせいに進入した。
フビライの軍は、南宋の領内たる四川(蜀)の地を突破して、雲南(うんなん)にいたり、そこにあった大理国をほろぼした。さらに一軍は北ベトナムにまで進入している。
西へむかったプラグの軍は、イランに攻めいり、一二五八年にはイスラム政権の本拠たるバクダードをおとしいれた。
かくて五百年余りつづいたアッパース朝も、ついに滅亡するにいたる。
さらにプラグは、あくる年シリアに軍を進め、その一部を占領して、エジプトのカイロ政権(マムルク朝)と境を接するにおよんだ。
こうしてイランから小アジアにかけて建国したのが、イル汗国である。
イル汗とは、トルコ語で「国の王」という意味であった。
モンゴルの勢いは、ここにいたっていよいよ強大となった。
フビライによる漢地の経営もすすんでいる。
モンゲは、南宋への親征にふみきった。一二五八年二月、大汗みずから軍を南方に進める。
黄河をわたり、オルドスをこえ、本営を甘粛の六盤山(ろくばんざん)にかまえた。
そこはチンギス汗の最期の地でもある。
いっぽうフビライのひきいる軍は、東方から南下した。
別軍は、かねてから雲南の地にあったが、北上して背後をつく。
三方面からの包囲作戦であった。
しかるに一二五九年の七月、おりからの猛暑にくわえて、伝染病が軍中にひろがる。
四川(しせん)の地まで南下した大汗モンゲも、病のおかすところとなった。
そして五十二歳の働きざかりの身が陣中にたおれたのである。
不慮の事態によって、さしもの壮図もいったん頓挫(とんざ)した。