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『死者のための祈り- 聖ドン・ボスコの教え』アロイジオ・デルコル神父編、8

2020-09-22 21:55:40 | 煉獄
『死者のための祈り- 聖ドン・ボスコの教え』アロイジオ・デルコル神父編、8

◆3-3、煉獄についての聖ドン・ボスコの著書

牧師「同じ箇所に出る「この世においても、来世においても」ということばは、煉獄のことではありません。プロテスタントでは、この世とは、救い主が来られた時までの時代をあらわし、来世とは救い主の時代を表わしています。それで、この救い主の時代において、人々は簡単に罪のゆるしを受けることができます」と。

 ここで訳者であるわたしは、日本で発行された『新共同訳の新約聖書註解』(1990年発行)をしらべてみました。するとこの32節について、とんでもない解釈がしてありました。これによれば、この世とは、教会の時代を示すものであるといい、また、「許されることはない」とは、教会がイエズスのいわれる許しに「大きな制限を加えた」ものであって、31節と32節は、「こ様の伝承形に変化したと思われる」と書いてありました。

 この注解書は、1991年6月30日づけのカトリック新聞に、「聖嘗をさらに深く学ぶために」出来たものとして大きく宣伝されましたが、かえって、聖書を深く学ぶどころか聖書の解釈を混乱させるものであることが明白です。聖書の正しい解釈は、カトリックの教会にまかせられていて、これと異なる解釈をするものは、決して信用できません。

 では、ドン・ボスコの本に戻りましょう、この牧師の注意に対して、ドン・ボスコは次のように答えました。

ドン・ボスコ「あなたのおっしゃる解釈は、牧師バイエ師の風変わりな解釈によるものです。聖書のどの箇所でも、「この世」という言葉が出るたびに、文字どおりの意味を無視したくないなら、それを、「今の地上での生活」の意味に、また、「来世」という言葉を「死後にはじまる生活」という意味にとらねばなりまぜん。福音書のこの言葉について、いつの時代にも与えられていた解釈となぜ違った一むしろ反対している一まったく新しい意味をつけねばならないのでしよう? この言葉の文字通りの意味は、聖書の他の箇所に出てくる同じ言葉に矛盾するどころか、まったく一致しています。

 では、聖書の他の箇所でも説明されている文字どおりの意味からなぜ遠ざからねばならないのでしょうか? 部分的に、すでに過ぎ去っていて、まだ当時ながれていた時間を来世と呼ぶのはおかしいことではないでしょうか」。

牧師「では、この世とは、世の終わりまでのことで来世とは、その次に来る気とき"であると解釈できないでしょうか?」。

ドン・ボスコ「その解釈によりますと、煉獄は、まだ存在しないで、世の終わりのあとに存在しはじめるということになりますね。これでよろしいでしょうか」。

 それで牧師は、こう結論をくだしました。

牧師「やっぱり、煉獄が存在していると聖書によって証明できるのでしたら、煉獄の存在を認めるために、世の終わりまで待つ必要はありません」。

(続く)




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