『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
13 内陸の王者
2 明との対決
ティムールは、その四十年にちかい征服戦争の結果、かってのモンゴル帝国のうち、西方の三汗国の領上を、ほぼ完全に手中におさめるために至った。
その生涯のおわりには、頭にいただいた王冠は二十七個に達していた。
サマルカンドに凱旋したティムールは、いまや安逸をむさぼろうとすれば、いくらでもむさぼることのできる環境にあった。
そのうえ、六十歳の坂をこえていた。じつはインドの遠征から帰った直後、ビビ・ハヌム寺院を建てたが(一三九九)、そのときすでに大王の健康は衰えていたのである。
もはや長く立っていることも、馬にのっていることもできず、輿(こし)で工事現場に運ばれて監督にあたったといわれる。
また一四〇四年、ティムールに拝謁したクラビホの伝えるところによれば、ティムールの「視力はもうあまりよくなく、病身老齢であって、まぶたは目の上に垂れさがり、物を見るのに、それをあけることがほとんどできぬ」老衰の人にすぎなかった。
このティムールの晩年をテーマにした小説『サマルカンドの星』のなかで、ソ連の作家ボロディンは、だいたいつぎのように書いている。
「ティムールは眼をさました。彼はやわらかい毛布に手をのばし、かたわらに眠りこけている若い女の太腿(ふともも)をかるくたたいた。
おきあがった彼女は、自分の帯にさわってみて、それが昨夜からいちども解かれていないことに驚いているようであった。
彼女は出てゆくよう、せきたてられたが、ティムールからやさしい言葉をかけられることを期待して、もじもじしていた。
「その日、一日中ティムールは不機嫌であった。不快なことの連続であった。
初めのうちはその理由がわからなかったが、夜になってすべてがはっきりした。
あのとき娘は、彼が一晩中彼女の帯を解かなかったことに驚いたのだ。
彼女は、なんと軽蔑したまなざしで彼をみつめ、部屋から走り去るとき、その裸足(はだし)は、なんと彼を小馬鹿にしたように見えたことか。
初めの不快感は、もしそれが、たんに軽蔑だけであったならば、これほど深刻な打撃を彼にあたえなかったであろう。しかし、ただそれだけのものではなかった。彼女は暗黙のうちに警告を発したのだ。
いわく、“世界征服者老いたり”と。
その日、一日中、彼の頭脳から去らなかったのは、
――世界をしっかりと手中ににぎるには多くの力が必要である。しかし自分の力はしだいに衰えてきた――
ただこの一事であった。」
しかし、あくまでとどまることを知らぬのは、英雄の不幸というものだろうか。
それともティムールは、すでに死期のせまったことを感じとっていたのだろうか。
その老残の身をひっさげて、東方への遠征に出ることになった。
すでに中国では、モンゴル人の元朝はたおれ、明朝の天下となっている。
ティムールがチンギス汗の偉業を継承しようと夢みていたとすれば、中国の地からモンゴル人を追い出した明(みん)が、いまの彼にのこされたただ一つの攻撃、そして征服の目標だったのは、当然であった。
ティムールは二十万の大軍をひきいて、天山の山なみをこえ、タクラマカンの流砂をわたって中国へ進撃することに決した。その先発部隊はサマルカンドから進軍を開始した。
イスラム商人と通じて、いちはやくこの報をキャッチした明の永楽(えいらく)帝は、辺境の防備をかためさせた。
ここに、西方の覇者たるティムールと、中華皇帝たる永楽帝とのあいだに、世紀の一戦がはじまるかに見えた。
しかし天は、明朝にさいわいした。
一四〇四年の末に、サマルカンドを出発し、シル川の堅氷をふんでオトラルについたとき、この一世の英雄は病におかされ、その多端な一生をおえた。
ときに一四〇五年二月十八日であった。
もしティムールに、いま数年の齢をあたえ、この両雄が干戈(かんか=戦)のうちにあいまみえていたならば、そののちのアジア史は、どのように展開したろうか。
13 内陸の王者
2 明との対決
ティムールは、その四十年にちかい征服戦争の結果、かってのモンゴル帝国のうち、西方の三汗国の領上を、ほぼ完全に手中におさめるために至った。
その生涯のおわりには、頭にいただいた王冠は二十七個に達していた。
サマルカンドに凱旋したティムールは、いまや安逸をむさぼろうとすれば、いくらでもむさぼることのできる環境にあった。
そのうえ、六十歳の坂をこえていた。じつはインドの遠征から帰った直後、ビビ・ハヌム寺院を建てたが(一三九九)、そのときすでに大王の健康は衰えていたのである。
もはや長く立っていることも、馬にのっていることもできず、輿(こし)で工事現場に運ばれて監督にあたったといわれる。
また一四〇四年、ティムールに拝謁したクラビホの伝えるところによれば、ティムールの「視力はもうあまりよくなく、病身老齢であって、まぶたは目の上に垂れさがり、物を見るのに、それをあけることがほとんどできぬ」老衰の人にすぎなかった。
このティムールの晩年をテーマにした小説『サマルカンドの星』のなかで、ソ連の作家ボロディンは、だいたいつぎのように書いている。
「ティムールは眼をさました。彼はやわらかい毛布に手をのばし、かたわらに眠りこけている若い女の太腿(ふともも)をかるくたたいた。
おきあがった彼女は、自分の帯にさわってみて、それが昨夜からいちども解かれていないことに驚いているようであった。
彼女は出てゆくよう、せきたてられたが、ティムールからやさしい言葉をかけられることを期待して、もじもじしていた。
「その日、一日中ティムールは不機嫌であった。不快なことの連続であった。
初めのうちはその理由がわからなかったが、夜になってすべてがはっきりした。
あのとき娘は、彼が一晩中彼女の帯を解かなかったことに驚いたのだ。
彼女は、なんと軽蔑したまなざしで彼をみつめ、部屋から走り去るとき、その裸足(はだし)は、なんと彼を小馬鹿にしたように見えたことか。
初めの不快感は、もしそれが、たんに軽蔑だけであったならば、これほど深刻な打撃を彼にあたえなかったであろう。しかし、ただそれだけのものではなかった。彼女は暗黙のうちに警告を発したのだ。
いわく、“世界征服者老いたり”と。
その日、一日中、彼の頭脳から去らなかったのは、
――世界をしっかりと手中ににぎるには多くの力が必要である。しかし自分の力はしだいに衰えてきた――
ただこの一事であった。」
しかし、あくまでとどまることを知らぬのは、英雄の不幸というものだろうか。
それともティムールは、すでに死期のせまったことを感じとっていたのだろうか。
その老残の身をひっさげて、東方への遠征に出ることになった。
すでに中国では、モンゴル人の元朝はたおれ、明朝の天下となっている。
ティムールがチンギス汗の偉業を継承しようと夢みていたとすれば、中国の地からモンゴル人を追い出した明(みん)が、いまの彼にのこされたただ一つの攻撃、そして征服の目標だったのは、当然であった。
ティムールは二十万の大軍をひきいて、天山の山なみをこえ、タクラマカンの流砂をわたって中国へ進撃することに決した。その先発部隊はサマルカンドから進軍を開始した。
イスラム商人と通じて、いちはやくこの報をキャッチした明の永楽(えいらく)帝は、辺境の防備をかためさせた。
ここに、西方の覇者たるティムールと、中華皇帝たる永楽帝とのあいだに、世紀の一戦がはじまるかに見えた。
しかし天は、明朝にさいわいした。
一四〇四年の末に、サマルカンドを出発し、シル川の堅氷をふんでオトラルについたとき、この一世の英雄は病におかされ、その多端な一生をおえた。
ときに一四〇五年二月十八日であった。
もしティムールに、いま数年の齢をあたえ、この両雄が干戈(かんか=戦)のうちにあいまみえていたならば、そののちのアジア史は、どのように展開したろうか。