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4-13-6 安史の乱

2023-03-04 21:15:31 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
13 開元と天宝
6 安史の乱

 安祿山が兵をあげてより一ヵ月、その軍は早くも東都の洛陽をおとしいれた。
 唐朝は、安西(あんせい)節度使の封常清を、范陽・平盧節度使(禄山が任ぜられていたもの)に任じ、六万の兵をもって対抗させようとしたが、にわか仕立ての軍隊では役にたたなかった。
 そこで唐朝は第二陣として、高仙芝(こうせんし)に五万の軍をあたえ、祿山の軍が長安へむかって侵入してくるのに備えさせた。
 高仙芝は高句麗の出身である。
 さきには西域へつかわされ、イスラムの軍とタラス川でたたかって敗れた。
 その高仙芝がまもっているところへ、封常清の軍が敗走してきた。
 両軍ともに潼関(どうかん=長安の東の関所)まで後退し、ここで祿山の軍をくいとめたが、敗戦の責任で二人はともに斬られた。
 そこで唐朝は第三陣として、隴右(ろうゆう)節度使の哥舒翰(かじょかん)を起用して、八万の兵をひきいさせ、滝関をまもらせた。
 哥舒翰は祿山とおなじく雑胡であったが、以前から禄山とは仲がわるかった。
 つまり夷(い)をもって夷を制しようとしたわけである。
 あくる天宝十五載正月、安祿山はみずから大燕皇帝と称し、年号を聖武とさだめた。
 ここに登場するのが、そのころ地方長官であった顔真卿(がんしんけい)である。
 顔氏は学者の家柄であった。
 五代の祖の顔之推(がんしすい)は『顏氏家訓』の百書で名だかく、四代の祖の兄の顔師古(しこ)は、唐の太宗の命をうけて、『五経正義(ごきょうせいぎ)』(五経とは、儒教の経典。詩・書・易・礼記・春秋)という注釈書の編集にあたった。
 また前の漢の歴史である『漢書(かんじょ)』の注釈者としても名だかい。
 顔真卿そのひとも教養が高く、進士に合格したうえ、あたらしい書道の開拓者として知られている。
 それが禄山の乱をきくや、義勇軍を募集して立ちあがったのであった。
 玄宗は「朕は顔真卿がどんな容貌をしているかも知らないのに、どうしてこのようにつくしてくれるのか」といって喜んだ。
 顔真卿が立つや、これに応ずる者があいつぐ。
 朔方(さくほう)節度使の郭子儀(かくしぎ)も、その部下たる契丹(きったん)人の李光弼(りこうひつ)とともに河東(山西省の方面)をおさえ、顔真卿の軍と呼応して、東へすすんだ。
 かくて祿山のもとの根拠地の范陽と、あたらしい拠点の洛陽との連絡を絶った。
 これらの奮戦にもかかわらず、潼関をまもる哥舒翰(かじょかん)と、楊国忠とが不和となる。
 しかも哥舒翰は、祿山がわの計略にかかって大敗し、滝関を占領された。
 みずからは部下のために、祿山がわにひきわたされた。天宝十五載(七五六)六月九日のことである。
 これをきいて玄宗をはじめ、長安の朝廷は色をうしなった。
 ところが楊国忠は、すでにこのことがあるのを予想して、じぶんが剣南節度使(蜀の地方)を兼ねていたところから、蜀に逃げる準備をしていた。
 いまや玄宗に蜀への行幸をすすめた。
 ついに六月十三日の未明、楊貴妃とその姉妹、太子や宰相以下をひきつれて蜀へむかう。長安は大混乱におちいった。
 しばらく行って昼になったが、食べるものがない。楊国忠が胡餅(こへい)を買ってきて差しあげた。
 それをみかねた民衆が、じぶんたちの食べている粗飯に麦や豆をまぜて献上すると、同行の皇孫たちは争って手で食べた。それもたちまちからになる。

 あくる十四日、馬嵬(ばかい)駅についた。同行の将士は飢えつかれ、おこりっぼくなっていた。
 楊国忠を殺せという者がある。このことを太子に告げたが、もちろん太子は決断しなかった。
 そこへ吐蕃(とばん=チペッ卜)の使者二十余人が、楊国忠の馬をさえぎって、食料を出せと言った。
 それを見た軍士たちは、「楊国忠が胡人と謀叛をするぞ」と叫んだ。
 ついに国忠を惨殺し、その首を槍のさきにつけて駅門にさらした。
 そのいきおいで楊貴妃も殺せと要求する。ついに宦官の高力士までが言った。
 「こうなっては、貴妃が陛下の左右におっては、おさまりますまい。」
 いまは玄宗もやむなく高力士に命じて、楊貴妃をかたわらの仏堂のなかで縊殺(いさつ)させた。
 その死体を見せると、兵士たちもようやく静まる。ときに楊貴妃は三十八歳であった。
 ふたたび行列は動きだした。
 しかし太子は土地の父老にさえぎられ、ついに決心して別行動をとり、郭子儀の根拠地である霊武(寧夏回族自治区)へむかった。
 霊武についた太子は、天宝十五載(七五六)七月十二日、群臣のすすめによって帝位につく。
 粛宗(しゅくそう)である。年号は至徳と改め、蜀にいる玄宗を上皇天帝とよぶこととした。
 さて潼関の陥落によって、安祿山のがわはすこぶる有利となった。
 黄河の北は、部将の史思明がほとんど占領した。
 しかし、このころから安祿山は失明と疸(そ=できもの)になやまされて、むちゃな行動をかさねる。
 ついに至徳二載(七五七)一月、その子の安慶緒(あんけいしょ)に殺された。
 そののち唐朝は、ウイグル(トルコ族)に援助をもとめた。
 これに応じた外人部隊十五万は、至徳二載九月に安慶緒の軍をやぶり、長安や洛陽をとりもどした。
 河北に勢力をはっていた史思明も、いったん唐朝に降伏する。
 しかし史思明はふたたび反旗をひるがえし、乾元二年(七五九)三月には大いに唐朝の軍を破ったうえ、安慶緒を殺して洛陽を占領した。
 その史思明も、安祿山とおなじ運命をたどった。
 上元二年(七六一)二月に、その子の史朝義によって殺されたのである。
 しかも安祿山の旧将たちは、史朝義につくのを望まない。軍は分裂した。ウイグルはふたたび唐朝に援兵をおくり、敗軍のなかで史朝義は死んだ。

 ときに粛宗の子の代宗が即位した年であった。
 広徳元年(七六三)一月、ここで九年におよぶ安史の大乱はようやく終わりをつげた。
 この大乱が鎮定されたのち、内地にも節度使が置かれることになる。
 節度使は民政と財政と軍事の大権を一手ににぎる地方勢力となり、いわゆる藩鎮跋扈(ばっこ)の時代となって、唐朝のもとにおける中央集権の体制はくずれさった。
 江南の地方は、この戦火にまきこまれなかったが、かえってこのために財政的に誅求されることになり、この方面でもいろいろ反乱がおこる。
 唐朝はふたたび律令体制をたてなおすことはできなくなった。


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