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8-14-3 洋暦と典礼

2024-02-26 07:40:27 | 世界史

(挿絵はマッテオ・リッチと徐光啓)

『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
14 西から寄せる波
3 洋暦と典礼

 『崇禎暦書』は、ヨーロッパの天文暦数を紹介しつつ、その学問的成果を導入し、かつ北京での実測をくわえて集成したものである。
 まさに中国式の洋暦というふさわしい。
 日蝕は、暦の正誤をだれにでもわからせるために、もっとも適切な材料である。
 明朝も末に近い万暦三十八年(一六一〇)十一月の日蝕は、暦官の誤りを暴露し、暦の改修が相談された。
 そのときの暦としては、「大統暦」が使用されていた。
 これは元の郭守敬が実測によって作成した「授時暦」を、部分的に改めたものである。
 改修の議に対して、宣教師が暦書にくわしく、中国では未見の書をもっているから、これを漢訳した上で参考にしては、という意見がでた。
 すでに明初の洪武のときに、イスラム暦を研究した例があり、祖法にならうものとしてこの意見は採用された。
 崇禎二年(一六二九)、夏の日蝕の日に、大統暦とイスラム暦と洋暦との精度がためされた。
 結果は洋暦の優秀さが証明された。
 『崇禎暦書』は、その後まもなく、四年の歳月をかけて編集されたのである。
 背後に、崇禎帝の信をうけた礼部尚書の徐光啓の努力があったことはいうまでもない。
 皮肉にも『崇禎暦書』が採用されたのは、清朝になってからのことであった。
 「時憲暦」の名でよばれるものが、これである。
 清朝では、順治帝の代に宣教師をそのまま重用し、天文暦法をあつかう欽天監という機関の監正(天文台長)に、アダム・シャールが任命されるほどであった。
 シャールは、そのころ正式の官吏に任命された最初のヨーロッパ人である。
 満州民族たる大清王朝の性格を反映したものといえよう。
 キリスト教の宣教師を任用したことは、漢人の暦法家やイスラム暦法家の反感をうみ、さらに満漢高官の対立がからんで、一つの政治問題へと発展した。
 それは康煕帝の親政への転機のころである。
 問題は康煕帝が即位してまもなく、四大臣が輔政のときに表面化した。
 漢人の暦法家たる楊光先が、シャールら宣教師に野心がある、と告発したことが発端となり、シャールらの断罪へとすすんだ。
 しかし天変地異の続発が、刑の変更をもたらし、順治帝の母らの努力もあってシャールらは釈放された。
 ただ欽天監の監正や監副は、楊光先やイスラム暦法家たる呉明烜(ごめいけん)らの手に帰した。
 すでに洋暦の優秀さは、明末から順治の代に実証ずみである。かわった楊光先や呉明烜(ごめいけん)らの暦法が、これにまさることはできなかった。
 不正確さは事実となってあらわれた。
 親政に入った康煕帝は、洋暦の正確さを実証する三回の実験を、群臣の面前でおこなわせることにした。
 日蝕にかわり、衆人がわかる実験として、宣教師のもちだしたものは、正午の時期における影の長さの計算と、実際との一致をしめすことであった。
 三回の実験は、影の先端の到達を予測する線と、正午の影の先端との一致をしめした。
 洋暦の勝利は、皇帝親政への道に大きな光明をもたらしたと学者は指摘している。
 こうして宣教師は、清初の中国においても布教への足場をかためた。しかし、その地歩をゆるがしたものも、また宣教師じしんであった。

 活動する宣教師には、いろいろな派があった。
 初期の宣教師はイエズス会士であったが、のちには他派の宣教師も、ぞくぞくと中国にきて、布教にあたりだした。
 ところがイエズス会士以外の宣教師の布教活動は、思わしくない。
 中国の知識人にとって思想の支えである儒教や、古来の風習を温存しつつ布教するイエズス会上の布教法が、効果をしめしていることに他派の宣教師はねたみをもち、布教法が邪道であるとローマ教皇に訴えた。
 もとよりイエズス会士も負けてはいない。
 布教の正当性を教皇に説き、康煕帝の上諭までもちだして反論を展開した。
 カトリック教会の大論争となった布教問題は、曲折ののち、ついにイエズス会士の布教法を否とする断定をもって、教皇の方針とした。
 康煕帝は、教皇の決定に対し、烈火のごとくに怒ったという。
 儒教を否定してまでキリスト教の布教をみとめることは、絶対にゆるされない。
 ことに儒学に対して、まれにみる熱意をもっていた康煕帝である。
 ただちにイエズス会士以外の宣教師を追放するという、断固たる処置がとられた。
 教皇の特使はマカオから一歩も入ることはできなかった。
 この宣教師たちの争いに端を発した事件は、典礼問題といわれる。
 それは、さらにイエズス会の解散という問題とからみ、中国におけるキリスト教の布教を禁止するところまで進んだ。
 イエズス会が解散となれば、当然招来される結果である。
 布教の禁止は貿易制限とともに、世界の進展から清朝をとりのこす因となったが。





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