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7-14-5 「庭訓」(ドモストロイ)

2023-11-23 02:08:32 | 世界史


『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
14 イワン雷帝 
5 「庭訓」(ドモストロイ)

 この時代の神権的な専制思想は、中流市民の家庭生活にもしみこんでいった。
 その一例が、イワン雷帝の側近であった、司教シリベストルの作と推定される「庭訓(ドモストロイ)」である。
 それは、「百ヵ条」や「教会いろは」とともに、善良なロシア人の日常生活の指針とされていた。
 その内容は、信仰、家庭内の秩序、家事経済の実務の三部からなり、要するに、神を信じ、宗教上の儀礼をまもり、ツァーリや貴族を敬い、家にあっては父祖の教えに、また妻は夫に、したがう、というにつきている。
 たとえば子弟の教育については、
 「なんじの息子を幼いうちから訓戒せよ、そうすれば老後において魂の平穏がえられる。
 なんじが息子をなぐったからといって、息子は弱くはならない、棒で打っても死にはしない。かえって強くなろう……」
 「子供を若いうちに甘やかすな、肋骨の一本ぐらいはへし折るぐらいでよい。
 さもないと、大きくなって凶暴となり、なんじに従わなくなり、なんじの魂に不満と病患を、家庭には損失を、財産には破滅を、隣人からは非難を、敵からは嘲笑を、おかみからは叱責と罰金をもたらすことになる……」
 また妻としての道についても、
 「妻と神と夫につかえ、家をととのえ、すべてにおいて夫に従え……」
 とのべ、夫は時におうじてその妻を折檻(せっかん)せよとして、
 「ただし耳や眼を打つな。心臓の下を拳や足や杖などでついたりするな。
 鉄や木でなぐるな。
 怒りにまかせて、また悲嘆のあまりにそんな打ちかたをすれば、めくらやつんぼにさせ、手足や指を折ることになり、また、頭痛や歯痛をおこさせる。
 訓戒に鞭(むち)を用いるときには、心して打て」と。

 まったく驚きいったしだいであるが、そのころのロシアを旅行した外国人の記述にも、これを裏書きするものがある。
 たとえば、オーストリア公使シュタイン伯は、国際結婚をしたモスクワ女性が、その外国人の夫が彼女をなぐらないのは愛が足りない証拠ではないかと、心配したと書いている。
 当時のロシア婦人はベールをかぶり、夫以外の男性には顔を見せてはならないとされていた。
 皇妃も例外ではなく、外国の使臣たちが拝謁(はいえつ)を願い出ても、「妃殿下はご病気」ということでいつも許可にはならなかった。
 また、この国を訪れたイギリス人フレッチャーは、「モスクワ国家の土地の三分の一を修道僧が所有している」と驚いているが、そのころのロシアの上流社会では、老年になると剃髪(ていはつ)して、修道院にはいり余生をおくることが流行し、そのさい広大な土地や巨額の財宝を修道院に寄進したものである。
 このビザンティン式な修道主義の影響をうけて、トランプ、チェス、音楽、歌舞などの西欧的な娯楽は、いっさいご法度となった。
 すなわち、「庭訓」によると、
 「テーブルを囲んでいかがわしい雑談にふけり、竪琴(パヤン)やバラライカを鳴らしたり、踊ったり跳ねたり、手拍子を打ったりすれば、煙が蜜蜂を追いはらうように、天使はテーブルからとび去って、そのかわりに悪魔がやってくる……」

 そのころのロシア人は、悪魔や妖術を本気で恐れていた。
 イワン三世の侍医は息子の死の責任を負って処刑されたが、それは妖術の疑いをかけられたためであった。
 高貴の女性を診断する医師は、じかにその肌にふれることを許されず、モスリンの布の上から脈をとったという。
 しかし、ロシア人の大好物のアルコールだけは、天下ご免で、老いも若きも、金持ちも貧乏人も、ときには女や子供までが、酔いつぶれて街頭にころがっていてもだれも文句をいわなかった。
 司祭までが説教をやる前に一杯ひっかけたというが、大貴族の招宴では、全員が酔いつぶれないと盛会とはいえなかった。

 イワン雷帝は生涯に七回も結婚し、四人の男子があったが、長子ジミートリーは夭折(ようせつ)した。
 彼が望みをかけた次子イワンは、成年にたっして妻をめとったが、前述したように、父の逆鱗(げきりん)にふれて殺された。
 しかも、三男のフョードルは、父の眼から見てもまったく頼りにならない児であった。
 「なんじはツァーリの子よりも、寺男の子にふさわしい」――と父はこの息子を罵(ののし)ったが、教会に行って鐘を鳴らすことだけが、この不肖の子の楽しみであったらしい。
 もっとも、A・トルストイ作(一八一七~七五)の史劇『皇帝フョードル』(これはモシクワ芸術座の得意とするレパートリーであった)によると、この若いツァーリは権力争いのはげしい乱世にあって、ひたすらに平和を祈念する聖者として描かれている。
 いずれにせよ、雷帝の死後に帝位についたフョードルには、国家を統治する意志も能力もなく、政治の実権は皇妃イリーナの兄でタタール貴族のボリス・ゴズノフ(一五五一~一六〇五)の手に移った。
 そのうえフョードルには男児がなかったので、その弟のジミートリー(雷帝の末子)があとをつぐはずであった。
 ところが、ここに奇怪な事件がおこり、まだ九歳の少年であったこの息子が、ある日、突如として謎の死をとげた。
 のちに「動乱」に尾をひくこの事件の顛末(てんまつ)は、ほぼ次のとおりである。
 これより先、皇子ジミートリーは、宮廷の陰謀から身をまもるために、母とともに、モスクワを遠くはなれたウグリチの離宮で、ひっそりと暮らしていたが、ポリス・ゴズノフ一派からこの少年が危険人物視されているという噂が流れだした。
 すると、これと符合するかのように、一五九一年の五月末、ウグリチからモスクワに重大なニュースがはいった。
 息子が白昼斬殺され、犯人はその場に集まった群衆によってなぐり殺されたというのである。
 ところがモスクワから急派された「調査団」(その長はポリス・ゴズノフの政敵シュイスキー公)の報告によると、息子は殺されたのではなく、他の子供たちと遊んでいるうちにテンカンの発作がおこり、地面に倒れたひょうしに持っていたナイフでのどを突いて死んだというのであった。
 しかし、巷間には、皇子はボリス・ゴズノフの放った刺客によって暗殺されたという風評がひろがった。
 どちらが真実であるか、いまだに解けがたい謎である(シュヒスキー公もしばしば前言をひるがえしている)。
 いずれにせよ、それから七年後(一五九八)にツァーリ・フョードルが死ぬと皇嗣がたえ、イワンの王朝(ルユーリク朝)はここに断絶し、「成り上がりもの」のボリス・ゴズノフが、ゼムスキー・ソボールの推戴によってツァーリとなる。
 そして歴史家は、このときからロシア史の「動乱」時代が開幕するとしている。




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