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8-13-1 清朝の権力と富の行方

2024-02-17 03:38:27 | 世界史


『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
13 清朝の権力と富の行方
1 宦官・和珅の大罪

 在位六十年にして、帝位を去ったとはいえ、乾隆(かんりゅう)帝は上皇として、なお実権をにぎりつづけた。
 しかし老齢の身は、いかんともすることができない。八十九歳をもって、その生涯を終えた。
 ときに世情は不安をまし、白蓮教徒の動乱は、なお各地に吹きあれていた。
 帝は、大清のゆくすえを案じつつ世を去ったという。嘉慶四年(一七九九)正月のことである。
 嘉慶の親政は、ようやくにして軌道に乗せるべきときをむかえた。
 しかし乾隆後半の弊政はすでに根ぶかく、根本からの建てなおしは望めなかった。
 帝がまず手がけたのは、和珅(わしん)の弾劾である。
 和珅(わしん)こそは、乾隆帝の寵をほしいままにし、下級旗人(満州人)から軍機大臣にまで昇進して、治政を思いのままにみだし、中国史上で最大の私財をたくわえた怪物である。
 中国の王朝史上、前例のない皇帝の在位記録をうみ、五族の大帝国を樹立した大清は、権臣の私財蓄積額においても、それまでにない記録をつくりだしたのであった。
 和珅(わしん)にたいする乾隆帝の盲目的信任がいかに大きかったかは、帝のむすめを和珅の息子とめあわせていることからも、推察される。帝が和珅を寵愛した理由としては、つぎのような伝えもあった。

 乾隆帝が即位するまえの、青年時代のことである。ある日、用があって後宮におもむいた。
 一室を過ぎようとしたとき、雍正帝の妃の一人が、鏡にむかって髪をほぐしていた。
 わかい乾隆帝は、いたずら気をだして妃のうしろから、両手で妃の両眼をおさえた。
 おどろいた妃は、乾隆帝とも知らず、手にした梳(くし)で、うしろの人物を打った。
 運わるく、梳は帝のひたいにあたった。あくる日、母后に謁見したとき、ひたいの傷が、后の目にとまった。
 母后に問いつめられ、かくしていた乾隆帝もついに白状した。母后の怒りは、妃を死においやった。
 これを聞いた乾隆帝はおどろいて、妃の無実をうったえようと思ったが、結局しりごみしてしまった。
 なやみぬいた帝は、指を赤くそめ、息たえた妃のそばによって、妃の頸(くび)に赤くそまった指で印をおした。
 傷心の皇子は、涙ながらに呼びかけた。
 「われは、なんじを死に至らしめてしまった。もし霊魂ありて、わが願いを聞きとどけてくれるならば、二十年の歳月をへたのち、ふたたびわれとあいまみえたし。」
 それから数十年の歳月がながれた。
 乾隆帝は、すでに若き日の心の痛手をわすれていた。
 ある日のこと、駕(かご)に乗って出かけようとしたが、皇帝用の黄蓋(こうがい=黄色の日よけがさ)が見あたらない。
 「だれの責任か」、帝は怒ってさけんだ。
 「典守(係の者)の責任でございます」と、即座にこたえた者があった。
 帝は、こたえた者に目をむけ、いぶかった。「どこかで見たことがある。」
 気にかかりながらも、思い出せないままに、帝は宮廷にかえってきた。
 自室におちついたとき、帝はわかき日のあやまちから、死においやった妃を思いおこした。
 「似ている。たしかに妃にそっくりだ。」
 帝は、ひそかに、その人物を呼びにやらせた。
 そばちかくに召して、その頸(くび)をみると、妃の死にのぞんで帝みずからが、指でおした印と同じ指痕(ゆびあと)が、はっきりとみえた。
 帝は、かれを亡き妃の後身とかんがえ、他人に倍する寵をそそいだ。
 この人物こそ、ほかならぬ和珅であったという。

 帝権を背景に、専権の限りをつくす和珅の行為には、目にあまるものがあった。
 私生活は君主きどりで豪奢をきわめ、密室にはいっては、帝の御用服を身につけ、鏡にうつして悦にいり、策をめぐらしていたという。
 不遜(ふそん)な言動は、乾隆帝の後を継いだ嘉慶帝のにくむところであったが、時機をまつほかはなかった。
 嘉慶はじめの四年間は、乾隆帝の側近と嘉慶帝の側近の両派による二重構造の治世であり、嘉慶帝をないがしろにする和珅の行動を弾劾することは、かなわなかったのである。
 いまや、和珅に鉄槌(てっつい)をくだすときがきた。
 帝はただちに和珅をとらえ、罪状の調査にのりだした。
 列挙された罪状は二十ヵ条、条項の多くは、不敬・僭越・専権・蓄財にかかわる。
 刑は八つ裂きの極刑と断ぜられたが、帝は、和珅に自決の道をとらせた。権臣の末路に、かわりはない。
 和珅の財は、評価分が二億二千四百万両、未評価分が八億両、あわせて十億数千万両にのぽり、その額は国庫歳入の十数倍にあたったという。
 収入源は、高官の役得と化したワイロに加える、多角経営の商売であった。
 金融業あり、質屋あり、古美術店あり。
 乾隆帝の豪奢な生活は、後世にのこる遺品がこれを裏書きし、和珅の豪奢は、断罪が暴露し、記録がこれを伝える。この帝にして、この権臣ありというべきであろうか。
 興味あることは、前者が皇帝たるゆえに許容され、後者は権臣なるがゆえに不当とされた風潮であろう。
 これが王朝国家の矛盾であるというには、現代社会にも似た現象があまりにも多すぎるようである。
 「和珅が弾劾されて嘉慶は満腹する。」
 和珅が断罪された後の民間では、このような言葉がささやかれたという。
 いったい、没収された和珅の巨大な私産はどこに消えたのか。
 民衆の困窮と社会不安をよそに、没収された私財は、宮中の奥ふかく、その姿を消してしまった。
 巷間(こうかん)のささやきも、またありうべきことであろう。
 乾隆の後半から、国庫が欠乏してきたことを史書は記し、徴税が停滞したことを告げる。
 それは嘉慶の記録においても変わりなく、むしろ深刻さを思わせる。
 和珅のもとに、国庫歳入の十数倍にのぽる私財があったとすれば、その没収によって、数年の免税もまた可能といえよう。
 しかし史書は、それを明らかには残してくれない。私財の没収と国庫の収入は別の会計であるのか。

 専制王朝の財政をめぐる複雑なからくりは、後世の史家にとって解くすべもない謎といえよう。
 繁栄といわれる清朝のゆくてに待ちうけるものは、歴代王朝の末期と大差ない。
 すべてのしわよせは、おおむね貧しい人びとの身におよぶ。生死の岐路は、まずそこにもたらされる。



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