『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
8 ヒューマニストの運命
7 ある終末
トマス・モアが大法官となった前後から、ヘンリー八世は彼に対して、「わが重大事」について考慮してくれるように、「まず神を仰ぎみて、つぎに余を仰げ」といいながらも、「されどわが大事については再考せよ」と、たびたび要求していた。
しかしモアは王のキャサリンとの離婚を認めず、認めた場合には、世俗的な名誉や利益をもって報いようという王の申し入れに対しても、まったく応じなかった。
王にしてみれば、国論を統一してローマに対決しなければならぬとき、大法官という重要な地位につくような人物の支持こそ、まずもって必要だったのであろう。
こうした大問題の進行中、こうした要職についたことは、モア生涯の大失敗であったという見解もみられる。
しかし宮仕えの身とすれば、選択の余地はなかったのであろうし、また当時はヘンリーはなお個人の意見の自由を許しており、事実、大法官在職中、彼の意向を知っている王は、モアを離婚問題の件に関係させることをしなかった。
それにしても、「宗教改革議会」がローマからの分離を用意していくにつれて、彼は職にとどまっておれば、自分の良心に反して行動しなければならないか、改革に反対すれば、王の不興をこうむるか、いずれかになることを知り、ついに辞職にふみきったものと思われる。
モアはヘンリー八世の宗教政策をどうしても認めることはできなかった。
なぜなら彼は現在のカトリック教会の政策に不足を感じつつも、カトリック世界の統一を乱すことに、専制王を中心とする国家主義が宗教の分野に介入することに、反対だったからである。
モアは退官後、学問と著述とに没頭して静穏な日々を送っていたが、イギリス宗教改革の進展は、こうした生活がつづくことを許さなかった。
すなわち一五三四年四月、モアは「王位継承法」に宣誓することを要求される。
これはこの年、「国王至上法」に先だって制定されたもので、王位継承をヘンリー八世と新しい王妃アン・ブリンの子孫に認めるものであり、また継承法を守ることを全国民が宣誓するように定めてあった。
そしてモアのような人物の不同意は、だれの反対よりも王には痛手であろう。
しかもモアは教皇の権威否定を意味することどなる宣誓を、最後まで拒否したのである。
絶対君主は自分の意に従わない者を許してはおかなかった。
それでもなんとか妥協点を見出そうという努力もはらわれたが、寵臣トマス・クロムウェル、それから王妃アンは強硬であった。
こうしてモアを待ちうけていたのは、まずロンドン塔への投獄である。
そこへ面会にくることを許された妻のアリスは、夫にうったえた。
「これまでほんとうに賢いおかたでしたのに、なぜネズミたちといっしょにこんなところにいらっしゃるのです。
早く自由の身になって、王さまのお気にいるようにしてくださいませ。」
元来、モアが大法官をやめたことに反対だったアリスは――なぜなら、「大法官の奥方」は誇り高い地位であったから――彼の考えかたを理解できなかったのだ。
およそ一年ほど、モアはこのロンドン塔で著述の筆をとってすごしたのち、しばらくのあいだきびしい尋問をうけた。
一五三五年七月モアは起訴され、有罪となったが、適用されたのはやはり前年に成立していた「反逆罪法」などである。
彼の気持ちはつぎのようであった。
「すべてのキリスト者は教会の共同性を守るように義務づけられているが、あなたがたの法はこの統一を破壊しようとしている。
私はカトリック教に対する信仰のために、不倫な結婚に同意をこばむものである……』
まさにモアにとって、「王の臣下ではあるが、神こそがなにものにもまさる存在」であったのだ。
刑の宣告は「五体引き裂き」による死刑であった。
しかし王の特赦によって斬首刑とされた。
モアは一五三五年七月六日、ロンドン郊外のタワー・ヒルで処刑された。
五十七歳。長い幽閉のため、すっかり痩せ衰えたモアが刑場に行く途中、ひとりの婦人が進みよって葡萄酒をすすめたが、彼はこれを辞退した。
この女性はモアの身内の者ではなかったかとも、推測されている。
この大ヒューマニストの死は、「法の名のもとで行なわれたイギリスでもっとも暗い犯罪」であった。
なお一九三五年、四世紀後モアは聖者と認められた。
もうひとりの大ヒューマニストがこの友の死をスイスのバーゼルで知ったとき、過労と失意と病気とによって疲れはてていた。
彼はある友人に書き送った。
「モアが死んで、私は自分が死んだような気がします。私たちの魂は一つだったのです。」
それからエラスムスの健康は急速に衰えてゆき、一年の後、一五三六年七月、モアのあとを追うように世を去った。
そしてそのすこしまえ、同年三月バーゼルで、シャン・カルバンの『キリスト教綱要』が発表され、プロテスタントの運動はまた新しく強力な人物を迎えたのである――。