このように、神の言葉は、それ自体真実のものであるにもかかわらず、それを人々は、正しく解せないことがしばしばあり得るのである。
判事の書(20・11)にも、次のようなことが記されている。ベンジャミン族の間でみながおかした悪を罰するため、イスラエル族が集合し戦いをしたことが書かれている。神は、イスラエル族のため、戦いの.司令官を指名されたくらいであるから、かれらは勝利を信じて疑わなかったのであるが、戦うに及んで敗北を喫し、二万二千人の死者を出したときには非常に驚いてしまった。勝利はかれらのものとばかり信じこんでいたため、この敗北の朔.由を知るよしもなく、終日神のみ前において泣き叫んだ。そこで、再び戦うべきかどうかを神に尋ねたとき、神は、往ってかれらと戦うべきであると答えたもうだ。
そこでかれらは、今度こそ、勝利は自分たちのものだと信じ、勇敢に出ていったのであるが、この二回目も敗北に終わり、一万八千人を失った。すっかり腰を折られてしまったかれらは、どうしてよいのか分からなくなってしまった。かれらは、神から戦うよう命ぜられているのに、常に敗北を喫し、しかも、数においても力においても、かれらははるかに敵を凌いでいたのである。ベンジャミン族は二万五千七百を越えることはなかったのに、かれらの兵力は四十万にも及んでいた。
その実、神のことばに欺隔があるわけはなく、かれらが、その解し方において象ちがっていたのである。というのは、神は、戦えと言われただけで、かれらが勝利を得るとは言われなかったのであるから。実際、神は、この敗北によって、かれらのうちにある怠惰と倣漫を罰し、へりくだらせようとお望みだったのである。後に、かれらが勝つであろうと答えたもうたとき、非常な困苦を伴ったのではあるが、とにかく、ことばどおり勝利を占めたのである。
このようなことや、その他、多くのことについて、神のお与えになったことばや啓示の意味を、余り文字どおり、表而的にとるために、まちがいを生ずることがある。
十字架の聖ヨハネ 『カルメル山登坂』pp.190-191
判事の書(20・11)にも、次のようなことが記されている。ベンジャミン族の間でみながおかした悪を罰するため、イスラエル族が集合し戦いをしたことが書かれている。神は、イスラエル族のため、戦いの.司令官を指名されたくらいであるから、かれらは勝利を信じて疑わなかったのであるが、戦うに及んで敗北を喫し、二万二千人の死者を出したときには非常に驚いてしまった。勝利はかれらのものとばかり信じこんでいたため、この敗北の朔.由を知るよしもなく、終日神のみ前において泣き叫んだ。そこで、再び戦うべきかどうかを神に尋ねたとき、神は、往ってかれらと戦うべきであると答えたもうだ。
そこでかれらは、今度こそ、勝利は自分たちのものだと信じ、勇敢に出ていったのであるが、この二回目も敗北に終わり、一万八千人を失った。すっかり腰を折られてしまったかれらは、どうしてよいのか分からなくなってしまった。かれらは、神から戦うよう命ぜられているのに、常に敗北を喫し、しかも、数においても力においても、かれらははるかに敵を凌いでいたのである。ベンジャミン族は二万五千七百を越えることはなかったのに、かれらの兵力は四十万にも及んでいた。
その実、神のことばに欺隔があるわけはなく、かれらが、その解し方において象ちがっていたのである。というのは、神は、戦えと言われただけで、かれらが勝利を得るとは言われなかったのであるから。実際、神は、この敗北によって、かれらのうちにある怠惰と倣漫を罰し、へりくだらせようとお望みだったのである。後に、かれらが勝つであろうと答えたもうたとき、非常な困苦を伴ったのではあるが、とにかく、ことばどおり勝利を占めたのである。
このようなことや、その他、多くのことについて、神のお与えになったことばや啓示の意味を、余り文字どおり、表而的にとるために、まちがいを生ずることがある。
十字架の聖ヨハネ 『カルメル山登坂』pp.190-191