『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
11 狂王シャルル六世治下のフランス
――英仏百年戦争――
3 ブルゴーニュ侯、パリを制す
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「逃げろ! 甥のオルレアン侯よ、逃げろ! 殿はおまえを殺そうとしているぞ!」
こう呼びかけたブルゴーニュ侯と、呼びかけられたオルレアン候と、この両者が、やがては宿敵としてあい争うようになると、いったいフロワサールは予知していたのだろうか。
フロワサールの年代記は、一四〇〇年までで終わっている。
両候の対立が、ついに王国を内乱へと導くにいたるのは、フロワサールが筆を止めてからのちのことなのである。
王弟ルイは一三七二年の生まれ。
パリの北東、マルス川とオワーズ川にはさまれた肥沃な土地、バロワ伯領を親王領としてうけ、のちロワール川中流ツーレーヌ候領をもあわせうけた。
そして、この事件の直前、一三九二年六月、中部フランスの要地オルレアンを首都とするオルレアン侯領をも、親王領として、兄の国王から下賜(かし)されて、一時王領に吸収されていたオルレアン侯家を再興したのである。
オルレアン候は「諸事(かけごと)にうち興じ、娼婦を愛する」男、と当時の無名氏は報告し、数世代のちのトマ・バザンの筆はもっと辛辣(しんらつ)だ。
「種馬のように、きれいな女とみればあとを追いかけ、ヒンヒンいななく」。
中肉中背、端正な面立ち、爛熟(らんじゅく)したフランス宮廷の寵児(ちょうじ)、青年オルレアン候の評判はきわめて悪い。バリの民衆は彼を嫌った。のちに述べるジャン・プチは、そのブルゴーニュ侯弁論において、オルレアン候非難の論点を、彼の貪欲ということにおいた。オルレアン侯は遊び好きの貪欲な若者と、民衆の目には映じていたのである。
これに対して、ブルゴーニュ候フィリップは、尊大な顔つきの大男、下顎の大きなところはまさしくカペー家の血筋をあらわしていた。
若き日の彼は、ポワチエの戦いに、敗勢を知って戦場を雎脱した長兄シャルルをしりめに、最後まで父王ジャンを守り、豪勇というあだなをえた。
彼はいま五十歳の分別ざかり、経験の知恵とゆたかな資力が、その身にそなわっている。
一二六三年、彼はブルゴーニュ侯領を親王領としてうけた。
侯領下賜(かし)のことは、ポワチエの戦いでの勇武の振舞を賞(め)でて、父ジャン王の約束したことであったが、一二六一年、カベー家ブルゴーニュ侯家の家系が絶え、そのことが実現したのである。
やがて、彼はフランドル伯の相続女マルグリットと結婚した。
そして、この結婚によって、一三八四年、伯の死後、彼はフランドル伯領、ブルゴーニュ伯領、アルトワ伯領をえたのである。
さらに、一三九○年には、シャロレー伯領をアルマニャック伯から買収した。
だが、「目標を遠く未来におもい定めている」男とフロワサールに評されたほどのこの人物が、領地の経営だけで満足できるはずはなかった。
彼の視線は、ネーデルラントにそそがれていた。
彼は、フランス王家と共通の利害関係のうえに立って、ネーデルラントにブルゴーニュ候家の勢力をのばし、イギリスの脅威をしりぞけようと画策していたのである。
ヘルレ侯領の相続争いに介入し、これをきっかけにして一三九〇年、ブラバント侯領の譲渡をうけ、これを息子のアントワーヌにあたえたのも、その政策のあらわれであった。
また、フランス王シャルル六世とバイエルン侯女イサベラとの結婚を斡旋(あっせん)し、他方自分の息子のジャンと娘のマルグリットに、それぞれ、同じくバイエルン候家出身の配偶者を配したのも、当時、ネーデルラントのエノー、ホラント、セーラントをあわせ領していたバイエルン家と連繋(れんけい)して、対ネーデルラント政策を遂行しようという配慮からでたものであったと考えられるのである。
さて、この叔父と甥、両者間の対立に介在したのが、シャルル六世の妃で、バイエルンのビッテルスバハ家出身のイサベラ、フランスふうに呼んでイザボー・ド・パビエールであった。
彼女は小柄で栗毛、目鼻立ちはきつく、けっして愛くるしい女とはいえなかったが、どことはなしの魅力が「美の欠如を」じゅうぶんおぎなっていたと、ある無名の記録者は伝えている。
一三七〇年に生まれ、十五歳のときにフランス王家に輿(こし)入れした彼女は、夫が発狂した年には、まだ二十二歳の若さであって、宮廷での華やかな生活に夢中の年ごろであり、政治には興味をもたず、信頼するブルゴーニュ侯フィリップにすっかりたよりきっていた。
前述のように、ブルゴーニュ侯にとって、彼女は対ドイツ政策の道具のひとつであり、彼女はついに最後まで、たとえ、ときには、オルレアン候と仲よくすることはあったとしても、基本的には親ブルゴーニュの立場を変えなかった。
そのために、彼女は、後世、ひじょうに悪口をいわれることになる。
シャルル六世は、完全に気が狂ってしまったわけではなかった。
ときには明晰な意識をとりもどすこともあった。
だから、一二八九年に生まれたイサベルを頭に、一四〇三年までの十年あまりのあいだに、王妃は八人の子女を出産している。
うち三人は男子であったが、ルイとジャンは早世し、一四〇三年に生まれたシャルルのみが残り、やがて王位を継ぐことになる。
女子のうちイサベルはイギリス王リチャード二世に、ミシェルは、フィリップ豪勇侯の孫にあたるブルゴーニュ侯フィリップ善良侯に嫁ぐことになる。
カトリーヌは、イギリス王ヘンリー五世に嫁いで、フランス王位継承権をイギリス王家にあたえることになる。
これらのことについては、なおのちに述べる機会があろう。
ここで知っておいてもらいたいのは、フランス王家、ブルゴーニュ侯家およびイギリス王家が、それぞれ婚姻を通じて一体となろうとする政策が志向されていたという事実である。
そして、その政策を推進したのがブルゴーニュ侯であったということである。
一三九六年、七歳の少女イサベルとリチャード二世との婚姻の祝宴がカレーで催された。
これはまさしくブルゴーニュ侯の勝利であったのだ。
一四〇四年、フィリップ豪勇侯の死にいたるまでのあいた、ルイ・ドルレアンにはまったく歩(ぶ)がなかった。
有力諸侯の構成する国王顧問会議は、筆頭者の地位をブルゴーニュ侯にあたえた。
一四九三年に起きた「火の舞踏会」事件について、民衆は、ルイが兄の国王を暗殺しようとしたのだとうわさした。
ルイが王妃とともに主催したこの仮装舞踏会の最中、たまたまローソクの火が王の側近の者の野蛮人の仮装にもえうつり、多くの焼死者がでたが、ペリー侯妃の機転によつて、王は間一髪、危険を逃れたのであった。
さらに民衆は、ルイが魔法を使うとうわさしたという。
このうわさを利用されたかたちで、ルイの妻、バランティーヌは、魔女ではないかという疑いをかけられ、一三九六年、パリを離れなくてはならなくなったのである。
そのバランティーヌは、イタリアのミラノ侯女であった。
その関係で、ルイはイタリアに対する関心がふかく、対イタリア政策、ひいては当時「教会分裂」の渦中にあった教皇権の問題に関してイニシアティヴをとりたがる傾向が強かった。
「教会分裂」の問題は、一三九八年のフランス教会会議の席上でも、ついに解決の方向を見出しえなかったほど、国内の世論を分裂させていた問題であった。
この問題に関するルイの強引なやりくちは、ブルゴーニュ侯の反撥(はんぱつ)を誘い、けっきょく、これが両者の対立の表面化した最初の機会になったのである。
一四〇一年の暮れ、当時アラスにいたブルゴーニュ侯は、弓隊をひきいてパリに入り、オルレアン侯もまた、自派の市勢を集めた。
『サン・ドニの修道士の年代記』は、両軍の兵力を七千対五千と報告している。
けっきょく、この事件は、王妃の仲立ちによって解決し、両者が親愛を誓い合ってけりがついたのだが、翌年の春、またまた、もんちゃくが起きた。
ルイが、たまたま正気にもどったシャルル六世を利用して、イギリスとの戦争再開のために必要な軍資金調達という名目での、特別御用金徴収の最高責任者の指名をうけたのである。
フィリップ豪勇候は、この機会を逆に利用した。
特別御用金の徴収に反対し、都市民の、とくにルイが最大の財源とみこんだ聖職者たちの支持を獲得することに成功したのである。
このことがあってのち、ルイ・ドルレアンは国庫に寄生して私腹を肥やそうとする人だというイメージが、民衆の心中に固定した。
逆に、ブルゴーニュ侯は、自分たちの擁護(ようご)者と民衆の目に映じたのである。
このイメージは、一四〇四年四月フィリップが没し、代がかわってその息子ジャンがブルゴーニュ侯を襲ってからのちも、なお民衆の心に生きつづけた。
フィリップの死後、ルイは時をうつさず反攻にでた。
その年のうちに、イギリス・リチャード二世と死別したイザベル・ド・フランスを、息子のアングーレーム伯シャルルにめあわせ、王家の子女との婚姻関係を独占していたブルゴーニュ候家に対し一矢をむくいた。
さらに「教会分裂」問題に関しては、彼自身の支持する教皇ベネディクツス十三世をシャルル六世に承認させているで王妃イザボーも、いまはまったくこの義弟の意向に従うようになり、民衆はふたりの危険な関係をうわさした。
王妃にしてみれば、無怖侯とあだなされた、目つきするどく、冷酷そのものの新ブルゴーニュ侯ジャンの存在が、けむたかったのかもしれない。
当時三十代の女盛りの王妃が、ほんとうにその義弟と危険な関係にあったかどうか、それはわからない。
そのことについては、確実な史料はなにも残っていない。
王妃と国土顧問会議をおさえたルイは、年来の計画である対英戦争再開政策を断行しようとした。
一四〇五年春、「イギリス王を称するランカスター家のヘンリーの企図に対抗するために」新たな一般賦課分課税が布告された。
このとき、それまで沈黙を守っていたジャン無怖侯が発言した。
年代記家モンストルレは、簡潔にこう記している。
「また、このころ、フランス王国の全国民に対する巨額のタイユ賦課のことが、国王とその大顧問会議の名において、パリで布告された。
この課税に、ブルゴーニュ侯は賛同しようとはしなかった。
侯は、国民一般をこよなく愛し、彼らのことをいつも気にかけていたからである」。
とにかく、ブルゴーニュおよびフランドルの民衆への課税はぜったいにみとめない。
王国の名誉のため、軍隊が必要だというのなら、よろしい、わたし個人が調達しよう。
ジャン無怖侯は、そうおおみえをきったという。
ルイ・ドルレアンの計画は重大な障害にぶつかった。
タイユ徴収は十分な成果をあげえなかったのである、
その直後、ジャンは、国王顧問会議に対しカレーのイギリス軍を攻囲する許可をもとめ、軍勢を要求した。
顧問会議としては、財政上の理由からこれを拒否せざるをえなかった。
当時、アラスにいたジャンはこれを好機とし、オルレアン侯と王妃およびその影響下にある国王顧問会議に対し圧力をかけようと、一四〇五年八月、五千の槍隊をひきいてパリに向かった。
ルイと王妃は、狂気の王を残して、パリを逃げだし、ムランにおもむいた。
バリはブルゴーニュ侯を迎えて歓呼した。
パリ高等法院、パリ大学、ノートル・ダム聖堂参事会、またバリの市民たち、パリは全市をあげて侯に好意を示した、ジャンは、それに応えて、一三八二年以来剥奪(はくだつ)されていたパリ市民の特権、路上に鎖をはるという権利を彼らに返したのである。
これはパリ市の自治権の象徴であり、ジャンのこの処置は、パリの自治権を尊重するジェスチュアーであった。
ジャンは、高等法院、王室財務庁、パリ大学に対し、王国の政治の改革案を提示した。
オルレアン侯と王妃の恣意(しい)私欲に走っての専横が、いかに王国の政治をゆがめたか、対英戦争の遂行にあたっていかに多くの誤りが犯されたかを指摘した。
ムランのオルレアン侯はこれに反論し、両派は武力抗争の用意をととのえた。
だが、ブルボン侯をはじめ諸侯が調停に動き、両者の和解がなって、危機は避けられた。
十月の末、王妃は諸候に守られてパリにもどった。
ジャンとルイは、その夜、食事をともにし、同じ宿舎に眠った。
だが、王弟である自分こそ、顧問会議における筆頭者であると自負するルイと、その同年の従兄弟、一三九六年、トルコのスルタン・パヤジットの大軍とニコポリスで戦ったおりの勇武の振舞から、怖れを知らぬもの、「無怖侯」というあだなをえたブルゴーニュ侯の両者が、互いに協調しあってやっていけるはずはなかった。
党派争いの様相がますます濃くなってきた。
しかし、別に、はっきりした政策上の対立があったわけではない。ブルゴーニュ、オルレアン両派の対立を、社会経済史の側面から解明しようとしても、むだな努力に終わるだけである。
前者は北フランス、フランドルおよびネーデルラントの都市市尺層の代弁者であり、後者は中部および南フランスの土地貴族である封建領主層のそれ、とよく説明されるが、それ入ってみれば、この党派対立の結果なのであって、原因なのではない。
たしかに、都市と封建領主層と、この二元対立が当時の政治の世界にあったと仮定することはできる。
だが、王権をも含め、当時の政治権力のすべてが、この二元対立のうえに立っていたのであって、たまたまブルゴーニュ侯がフランドルを封地として得たために、都市という要素が侯の政策に集中的にあらわれ、王権は、オルレアン派にひきずられた結果、一時的に都市の支持を失ったということなのである。
だが、このことは、なおのちに考えることとして、さらに事件の推移をたどることにしよう。
ジャンはバリに腰をすえた。
オルレアン派は、ルイの標識と標語、節くれだった杖(つえ)と「私は睹金をつりあげる」、つまり「挑戦するぞ」を飾り紋様とし、ブルゴーニュ派は、これに対抗して、かんな紋様と「ひきうけた」という標語をもって応じた。
「かんな」とは愉快ではないか。
節くれだった杖なんかけずってしまうぞという意味なのだ。
表面は親密をとりつくろっての権力争いの二年間がすぎた。
叔父のペリー侯とルイ、そして王妃イザボーの連合は強く、事態はなかなかジャンのおもうとおりにはならなかった。
ジャンは、ついに非常手段をとった。ルイを暗殺したのである。
一四〇七年十一月二十五日の夜のことである。
ビエイユ・デュ・タンプル街の暗闇にまぎれて、十五人ほどの人影がみられた。
なかまのひとりが、その夜、バルペット館に王妃を訪れているはずのオルレアン侯を誘いだしてくることになっていた。 「王が会いたかっている」そう伝えれば、ルイはただちに王のいるサン・ポル館に向かうだろう。
それには必ずここを通る、そこを襲おう、これが殺し屋どもの計画であった。
侯の従者たちのかかげる松明(たいまつ)のゆらぐ炎が近づいてきた。護衛は手薄だった。
殺し屋どもは、無言のうちに侯の一行をとりかこんだ。
一本の腕が、侯の乗るロバの口輪をつかんだ。
めったづきにされた侯のからだが、どさっと泥土の上に落ちた。従者たちは、松明を放りだして逃げた。
ただひとり、小姓のヤーコプ・ファン・メルケレンという若者だけはふみとどまっていたが、彼もまた候の死体の上にくずおれた。
殺し屋どものひろいあげた松明のあかりに、ふたつの死体があかあかと照らしだされた。
面(おもて)を緋(ひ)色の頭巾につつみ、身をかがめて死体を検分していた隊長とおぼしき男が、やがてなにごとかを短くつぶやいた。
それが合図だった。彼らは夜の闇に消えていった。こうして、杖はかんなをかけられたのである。
オルレアン侯暗殺の報をうけたパリの代官ギョーム・ド・ティノンビルは、ただちに全市門を閉鎖し、探索を開始した。
暗殺者の一団の逃走経路を検討した代官は、ブルゴーニュ侯のアルトワ館の壁の内側に秘密がひそんでいると考えた。
だが、そのブルゴーニュ候は、事件の報に接して、「この王国に、かくも極悪の、かくも陰険な殺人の犯されたためしはなかった」と所感を述べたという。
そこで、代官は、その翌々日、国王顧問会議に出席し、ペリー侯の質問に答えて、捜査の現況について報告し、諸侯の館への立ち入り調査の許可をもとめた。
ある年代記の伝えるところによれば、代官は、殺害者の一団の頭目の名まであげ、しかもそのものがアルトワ館にひそんでいるとまで言明したという。
ともあれブルゴーニュ侯は、公(おおやけ)の席上、窮地に立った。
彼は、叔父ベリー候とシチリア王をかたわらに呼び、「悪魔に魅(み)入られて」やってしまったと告白したという。
しかし、顧問会議もまた窮地に立ったのである。
ブルゴーニュ侯を犯罪者と弾劾するには、内乱の誘発を覚悟しなければならなかったからである。
けっきょく、会議は判断を保留せざるをえなかった。
しかし、こうなっては、ジャン無怖侯もパリにはいられない。
オルレアン侯を暗殺したジャン無怖候
彼は腹心のもの数名と、いそいでパリを離れ、馬をいそがせて、十二月二日にはリールに入った。
ブルゴーニュの軍勢も、主君のあとを追い、パリを脱出した。
翌年の一月、アミアンで行なわれた商議は、あくまで強気のブルゴーニュ候のイニシアティブにつらぬかれた。
なにが話しあわれたかは、記録に残されていないのだが、ともかくベリー侯とシチリア王は、二月のはじめに、むなしくパリにひきあげ、そのあとを追うように、その月の終わり、ジャン無怖侯は、軍勢をひきいてパリに帰ってきたのである。
パリの市民たちは大喜びで彼を迎えた。この民衆の支持のまえに、諸侯はなすところを知らなかった。
三月に入り、ジャン無怖侯は、パリのサン・ポル館に弁明の論陣を張った。
王太子以下、シチリア王、ペリー、ブルターニュ、ギュイエンヌの諸侯をはじめ、王国の貴顕貴女、パリ大学の関係者、バリの代官とその配下の役人たち、高等法院の法官たち等々が整然といならぶサン・ポル館の大広間に、悠然(ゆうぜん)と現われたジャン無怖候は、ビロード地の朱色の上衣に金の葉模様をちらし、その衣の合わせめには鎖鎧(くさりよろい)の冷たい輝きがときおりちらつくという、じつに堂々たる役者ぶりだった。
扉の外には精鋭の戦士の一隊が搾えていた。館の外では、集まった民衆が、ブルゴーニュ侯万歳と叫んでいた。
弁論に立ったジャン・プチは、パリ大学の神学者であり、詩人でもあった男だが、「教会分裂」の問題を議する一四〇六年のフランス教会会議の席上で、雄弁の才を認められ、ブルゴーニュ侯の顧問団の一員に加えられたという経歴の持ち主であった。
「裏切りものであり潜主であるものを殺すことは適法の行為であり、称賛に価する。
オルレアン侯は裏切りものであり潜主であった。
ゆえにブルゴーニュ侯は、オルレアン候を殺させることによって、法にかなった称えられるべき仕事をなしたのである」
という三段論法が弁論の骨子であった。
これだけのことをジャン・プチは聖書からひき、史実を駆使して延々四時間の長広舌(ちょうこうぜつ)に飾り立てたのである。
オルレアン侯は、兄のシャルル六世殺害を計画したのではないか、とジャン・プチはしきりにほのめかした。
若年のころから候につきまとっていた古い嫌疑のかずかずが、かつぎだされた。
前述の「火の舞踏会」事件もそのひとつであり、またオルレアン侯が、当時「魔法使い」とうわさされていたフィリップ・ド・メジエールと親しかったことは、侯が魔法を使って兄の殺害をはかったのではないかとほのめかすのに絶好の材料を提供したのである。
ジャン・プチは、ブルゴーニュ侯ジャンに対する嫌疑の数々をたくみにそらせて、侯こそはフランス王家の血統の擁護者であるとのイメージを、聴衆の脳裡にきざみつけようとおおわらわになっている。
彼が口をつぐむと、ジャン無怖候はひとこと、「けっこうである」といったという。
ブルゴーニュ候は勝利をおさめた。彼は王の赦免状を手に入れた。いまや彼はバリの主人であった。
パリの代官は、もちろん更迭された。王妃イザボーは、王太子とともにムランに逃げだした。
オルレアン派の諸候がこれに従った。諸侯は圧倒的なブルゴーニュ候の人気のまえに沈黙した。
七月に入り、情勢がすこし変化した ジャン無怖侯がバリを離れ、ネーデルラントにおもむいたのである。
オルレアン派の策動が再開された。
ブルゴーニュ侯に下付された赦免状の無効が、王の名において宣せられた。
王妃と王太子はパリにもどり、オルレアン侯妃と、ルイを継いだ、まだ少年のオルレアン侯シャルルの姿も、また、パリの町にみられた。
九月、こんどはオルレアン派による演説会が、ルーブル宮で開かれた。
出席者の顔ぶれは、サン・ポル館に集まったものたちからジャン無怖候をのぞき、かわりに王妃とブルボン侯を加えたというていどの変更があっただけといってよい。
セリジ師という男が演説したのだが、これはジャン・プチの演説のスタイルをそのまま借りて、ブルゴーニュ侯の貪欲と裏切りを論難するといったぐあいで、まったくの二番煎じに終わった。
亜流は、古来、軽んぜられる。セリジの演説は、ジャン・プチの弁論ほどに著名ではないのである。
ブルゴーニュ侯(ジャン無怖候)は悠然とかまえていた。
彼は、リエージュを中心とする諸都市の反乱に苦しむリエージュ司教を助けにいったのだった。
リエージュ司教領は、ブルゴーニュ侯のネーデルラントにおける勢力圏を東西に連結する重要な地域であり、ここに統制権を確保するかどうかは、ブルゴーニュ侯にとってひじょうに重大な問題であった。
オルレアン派のお祭りさわぎなどに、かまってはいられなかったのである。
九月二十三日、トングル近郊オテーの合戦に、ジャン無怖侯はリエージュ市民軍を破り、ようやく反乱を鎮圧しえた。
このオテーの勝利は、ほぼ二十五年前、父侯フィリップがフランドルへの統制権を確保しようと、ガンの市民軍を相手に戦ったローゼペクの戦いに、じゅうぶん匹敵する意義をもっていたといえる。
十月の末、ジャン無怖候は、ふたたび視線をパリに向けた。
「ブルゴーニュ侯パリに向かう」の報に、パリの諸侯は一種のパニックにおちいった。
ジャン無怖侯に対し、軍勢をパリに入れることを禁ずる勅令を発してはみたものの、「侯は候がよしと思われたやりかたで、バリに向かうであろう」と、木で鼻をくくったような返答をうけとるという始末だった。
ついに、王家は狂気の王もろともパリを逃げだして、ロワール川の南にうつった。
諸侯はパリをみすて、北フランスをブルゴーニュ侯に明け渡した。
ジャン無怖侯は、サンリス、サン・ドニと、通いなれた道をたどり、ゆっくりとパリに向かった。
十一月二十八日、彼は、民衆の「万歳! 万歳!」の叫びに迎えられて、首都に入った。
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――英仏百年戦争――
3 ブルゴーニュ侯、パリを制す
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「逃げろ! 甥のオルレアン侯よ、逃げろ! 殿はおまえを殺そうとしているぞ!」
こう呼びかけたブルゴーニュ侯と、呼びかけられたオルレアン候と、この両者が、やがては宿敵としてあい争うようになると、いったいフロワサールは予知していたのだろうか。
フロワサールの年代記は、一四〇〇年までで終わっている。
両候の対立が、ついに王国を内乱へと導くにいたるのは、フロワサールが筆を止めてからのちのことなのである。
王弟ルイは一三七二年の生まれ。
パリの北東、マルス川とオワーズ川にはさまれた肥沃な土地、バロワ伯領を親王領としてうけ、のちロワール川中流ツーレーヌ候領をもあわせうけた。
そして、この事件の直前、一三九二年六月、中部フランスの要地オルレアンを首都とするオルレアン侯領をも、親王領として、兄の国王から下賜(かし)されて、一時王領に吸収されていたオルレアン侯家を再興したのである。
オルレアン候は「諸事(かけごと)にうち興じ、娼婦を愛する」男、と当時の無名氏は報告し、数世代のちのトマ・バザンの筆はもっと辛辣(しんらつ)だ。
「種馬のように、きれいな女とみればあとを追いかけ、ヒンヒンいななく」。
中肉中背、端正な面立ち、爛熟(らんじゅく)したフランス宮廷の寵児(ちょうじ)、青年オルレアン候の評判はきわめて悪い。バリの民衆は彼を嫌った。のちに述べるジャン・プチは、そのブルゴーニュ侯弁論において、オルレアン候非難の論点を、彼の貪欲ということにおいた。オルレアン侯は遊び好きの貪欲な若者と、民衆の目には映じていたのである。
これに対して、ブルゴーニュ候フィリップは、尊大な顔つきの大男、下顎の大きなところはまさしくカペー家の血筋をあらわしていた。
若き日の彼は、ポワチエの戦いに、敗勢を知って戦場を雎脱した長兄シャルルをしりめに、最後まで父王ジャンを守り、豪勇というあだなをえた。
彼はいま五十歳の分別ざかり、経験の知恵とゆたかな資力が、その身にそなわっている。
一二六三年、彼はブルゴーニュ侯領を親王領としてうけた。
侯領下賜(かし)のことは、ポワチエの戦いでの勇武の振舞を賞(め)でて、父ジャン王の約束したことであったが、一二六一年、カベー家ブルゴーニュ侯家の家系が絶え、そのことが実現したのである。
やがて、彼はフランドル伯の相続女マルグリットと結婚した。
そして、この結婚によって、一三八四年、伯の死後、彼はフランドル伯領、ブルゴーニュ伯領、アルトワ伯領をえたのである。
さらに、一三九○年には、シャロレー伯領をアルマニャック伯から買収した。
だが、「目標を遠く未来におもい定めている」男とフロワサールに評されたほどのこの人物が、領地の経営だけで満足できるはずはなかった。
彼の視線は、ネーデルラントにそそがれていた。
彼は、フランス王家と共通の利害関係のうえに立って、ネーデルラントにブルゴーニュ候家の勢力をのばし、イギリスの脅威をしりぞけようと画策していたのである。
ヘルレ侯領の相続争いに介入し、これをきっかけにして一三九〇年、ブラバント侯領の譲渡をうけ、これを息子のアントワーヌにあたえたのも、その政策のあらわれであった。
また、フランス王シャルル六世とバイエルン侯女イサベラとの結婚を斡旋(あっせん)し、他方自分の息子のジャンと娘のマルグリットに、それぞれ、同じくバイエルン候家出身の配偶者を配したのも、当時、ネーデルラントのエノー、ホラント、セーラントをあわせ領していたバイエルン家と連繋(れんけい)して、対ネーデルラント政策を遂行しようという配慮からでたものであったと考えられるのである。
さて、この叔父と甥、両者間の対立に介在したのが、シャルル六世の妃で、バイエルンのビッテルスバハ家出身のイサベラ、フランスふうに呼んでイザボー・ド・パビエールであった。
彼女は小柄で栗毛、目鼻立ちはきつく、けっして愛くるしい女とはいえなかったが、どことはなしの魅力が「美の欠如を」じゅうぶんおぎなっていたと、ある無名の記録者は伝えている。
一三七〇年に生まれ、十五歳のときにフランス王家に輿(こし)入れした彼女は、夫が発狂した年には、まだ二十二歳の若さであって、宮廷での華やかな生活に夢中の年ごろであり、政治には興味をもたず、信頼するブルゴーニュ侯フィリップにすっかりたよりきっていた。
前述のように、ブルゴーニュ侯にとって、彼女は対ドイツ政策の道具のひとつであり、彼女はついに最後まで、たとえ、ときには、オルレアン候と仲よくすることはあったとしても、基本的には親ブルゴーニュの立場を変えなかった。
そのために、彼女は、後世、ひじょうに悪口をいわれることになる。
シャルル六世は、完全に気が狂ってしまったわけではなかった。
ときには明晰な意識をとりもどすこともあった。
だから、一二八九年に生まれたイサベルを頭に、一四〇三年までの十年あまりのあいだに、王妃は八人の子女を出産している。
うち三人は男子であったが、ルイとジャンは早世し、一四〇三年に生まれたシャルルのみが残り、やがて王位を継ぐことになる。
女子のうちイサベルはイギリス王リチャード二世に、ミシェルは、フィリップ豪勇侯の孫にあたるブルゴーニュ侯フィリップ善良侯に嫁ぐことになる。
カトリーヌは、イギリス王ヘンリー五世に嫁いで、フランス王位継承権をイギリス王家にあたえることになる。
これらのことについては、なおのちに述べる機会があろう。
ここで知っておいてもらいたいのは、フランス王家、ブルゴーニュ侯家およびイギリス王家が、それぞれ婚姻を通じて一体となろうとする政策が志向されていたという事実である。
そして、その政策を推進したのがブルゴーニュ侯であったということである。
一三九六年、七歳の少女イサベルとリチャード二世との婚姻の祝宴がカレーで催された。
これはまさしくブルゴーニュ侯の勝利であったのだ。
一四〇四年、フィリップ豪勇侯の死にいたるまでのあいた、ルイ・ドルレアンにはまったく歩(ぶ)がなかった。
有力諸侯の構成する国王顧問会議は、筆頭者の地位をブルゴーニュ侯にあたえた。
一四九三年に起きた「火の舞踏会」事件について、民衆は、ルイが兄の国王を暗殺しようとしたのだとうわさした。
ルイが王妃とともに主催したこの仮装舞踏会の最中、たまたまローソクの火が王の側近の者の野蛮人の仮装にもえうつり、多くの焼死者がでたが、ペリー侯妃の機転によつて、王は間一髪、危険を逃れたのであった。
さらに民衆は、ルイが魔法を使うとうわさしたという。
このうわさを利用されたかたちで、ルイの妻、バランティーヌは、魔女ではないかという疑いをかけられ、一三九六年、パリを離れなくてはならなくなったのである。
そのバランティーヌは、イタリアのミラノ侯女であった。
その関係で、ルイはイタリアに対する関心がふかく、対イタリア政策、ひいては当時「教会分裂」の渦中にあった教皇権の問題に関してイニシアティヴをとりたがる傾向が強かった。
「教会分裂」の問題は、一三九八年のフランス教会会議の席上でも、ついに解決の方向を見出しえなかったほど、国内の世論を分裂させていた問題であった。
この問題に関するルイの強引なやりくちは、ブルゴーニュ侯の反撥(はんぱつ)を誘い、けっきょく、これが両者の対立の表面化した最初の機会になったのである。
一四〇一年の暮れ、当時アラスにいたブルゴーニュ侯は、弓隊をひきいてパリに入り、オルレアン侯もまた、自派の市勢を集めた。
『サン・ドニの修道士の年代記』は、両軍の兵力を七千対五千と報告している。
けっきょく、この事件は、王妃の仲立ちによって解決し、両者が親愛を誓い合ってけりがついたのだが、翌年の春、またまた、もんちゃくが起きた。
ルイが、たまたま正気にもどったシャルル六世を利用して、イギリスとの戦争再開のために必要な軍資金調達という名目での、特別御用金徴収の最高責任者の指名をうけたのである。
フィリップ豪勇候は、この機会を逆に利用した。
特別御用金の徴収に反対し、都市民の、とくにルイが最大の財源とみこんだ聖職者たちの支持を獲得することに成功したのである。
このことがあってのち、ルイ・ドルレアンは国庫に寄生して私腹を肥やそうとする人だというイメージが、民衆の心中に固定した。
逆に、ブルゴーニュ侯は、自分たちの擁護(ようご)者と民衆の目に映じたのである。
このイメージは、一四〇四年四月フィリップが没し、代がかわってその息子ジャンがブルゴーニュ侯を襲ってからのちも、なお民衆の心に生きつづけた。
フィリップの死後、ルイは時をうつさず反攻にでた。
その年のうちに、イギリス・リチャード二世と死別したイザベル・ド・フランスを、息子のアングーレーム伯シャルルにめあわせ、王家の子女との婚姻関係を独占していたブルゴーニュ候家に対し一矢をむくいた。
さらに「教会分裂」問題に関しては、彼自身の支持する教皇ベネディクツス十三世をシャルル六世に承認させているで王妃イザボーも、いまはまったくこの義弟の意向に従うようになり、民衆はふたりの危険な関係をうわさした。
王妃にしてみれば、無怖侯とあだなされた、目つきするどく、冷酷そのものの新ブルゴーニュ侯ジャンの存在が、けむたかったのかもしれない。
当時三十代の女盛りの王妃が、ほんとうにその義弟と危険な関係にあったかどうか、それはわからない。
そのことについては、確実な史料はなにも残っていない。
王妃と国土顧問会議をおさえたルイは、年来の計画である対英戦争再開政策を断行しようとした。
一四〇五年春、「イギリス王を称するランカスター家のヘンリーの企図に対抗するために」新たな一般賦課分課税が布告された。
このとき、それまで沈黙を守っていたジャン無怖侯が発言した。
年代記家モンストルレは、簡潔にこう記している。
「また、このころ、フランス王国の全国民に対する巨額のタイユ賦課のことが、国王とその大顧問会議の名において、パリで布告された。
この課税に、ブルゴーニュ侯は賛同しようとはしなかった。
侯は、国民一般をこよなく愛し、彼らのことをいつも気にかけていたからである」。
とにかく、ブルゴーニュおよびフランドルの民衆への課税はぜったいにみとめない。
王国の名誉のため、軍隊が必要だというのなら、よろしい、わたし個人が調達しよう。
ジャン無怖侯は、そうおおみえをきったという。
ルイ・ドルレアンの計画は重大な障害にぶつかった。
タイユ徴収は十分な成果をあげえなかったのである、
その直後、ジャンは、国王顧問会議に対しカレーのイギリス軍を攻囲する許可をもとめ、軍勢を要求した。
顧問会議としては、財政上の理由からこれを拒否せざるをえなかった。
当時、アラスにいたジャンはこれを好機とし、オルレアン侯と王妃およびその影響下にある国王顧問会議に対し圧力をかけようと、一四〇五年八月、五千の槍隊をひきいてパリに向かった。
ルイと王妃は、狂気の王を残して、パリを逃げだし、ムランにおもむいた。
バリはブルゴーニュ侯を迎えて歓呼した。
パリ高等法院、パリ大学、ノートル・ダム聖堂参事会、またバリの市民たち、パリは全市をあげて侯に好意を示した、ジャンは、それに応えて、一三八二年以来剥奪(はくだつ)されていたパリ市民の特権、路上に鎖をはるという権利を彼らに返したのである。
これはパリ市の自治権の象徴であり、ジャンのこの処置は、パリの自治権を尊重するジェスチュアーであった。
ジャンは、高等法院、王室財務庁、パリ大学に対し、王国の政治の改革案を提示した。
オルレアン侯と王妃の恣意(しい)私欲に走っての専横が、いかに王国の政治をゆがめたか、対英戦争の遂行にあたっていかに多くの誤りが犯されたかを指摘した。
ムランのオルレアン侯はこれに反論し、両派は武力抗争の用意をととのえた。
だが、ブルボン侯をはじめ諸侯が調停に動き、両者の和解がなって、危機は避けられた。
十月の末、王妃は諸候に守られてパリにもどった。
ジャンとルイは、その夜、食事をともにし、同じ宿舎に眠った。
だが、王弟である自分こそ、顧問会議における筆頭者であると自負するルイと、その同年の従兄弟、一三九六年、トルコのスルタン・パヤジットの大軍とニコポリスで戦ったおりの勇武の振舞から、怖れを知らぬもの、「無怖侯」というあだなをえたブルゴーニュ侯の両者が、互いに協調しあってやっていけるはずはなかった。
党派争いの様相がますます濃くなってきた。
しかし、別に、はっきりした政策上の対立があったわけではない。ブルゴーニュ、オルレアン両派の対立を、社会経済史の側面から解明しようとしても、むだな努力に終わるだけである。
前者は北フランス、フランドルおよびネーデルラントの都市市尺層の代弁者であり、後者は中部および南フランスの土地貴族である封建領主層のそれ、とよく説明されるが、それ入ってみれば、この党派対立の結果なのであって、原因なのではない。
たしかに、都市と封建領主層と、この二元対立が当時の政治の世界にあったと仮定することはできる。
だが、王権をも含め、当時の政治権力のすべてが、この二元対立のうえに立っていたのであって、たまたまブルゴーニュ侯がフランドルを封地として得たために、都市という要素が侯の政策に集中的にあらわれ、王権は、オルレアン派にひきずられた結果、一時的に都市の支持を失ったということなのである。
だが、このことは、なおのちに考えることとして、さらに事件の推移をたどることにしよう。
ジャンはバリに腰をすえた。
オルレアン派は、ルイの標識と標語、節くれだった杖(つえ)と「私は睹金をつりあげる」、つまり「挑戦するぞ」を飾り紋様とし、ブルゴーニュ派は、これに対抗して、かんな紋様と「ひきうけた」という標語をもって応じた。
「かんな」とは愉快ではないか。
節くれだった杖なんかけずってしまうぞという意味なのだ。
表面は親密をとりつくろっての権力争いの二年間がすぎた。
叔父のペリー侯とルイ、そして王妃イザボーの連合は強く、事態はなかなかジャンのおもうとおりにはならなかった。
ジャンは、ついに非常手段をとった。ルイを暗殺したのである。
一四〇七年十一月二十五日の夜のことである。
ビエイユ・デュ・タンプル街の暗闇にまぎれて、十五人ほどの人影がみられた。
なかまのひとりが、その夜、バルペット館に王妃を訪れているはずのオルレアン侯を誘いだしてくることになっていた。 「王が会いたかっている」そう伝えれば、ルイはただちに王のいるサン・ポル館に向かうだろう。
それには必ずここを通る、そこを襲おう、これが殺し屋どもの計画であった。
侯の従者たちのかかげる松明(たいまつ)のゆらぐ炎が近づいてきた。護衛は手薄だった。
殺し屋どもは、無言のうちに侯の一行をとりかこんだ。
一本の腕が、侯の乗るロバの口輪をつかんだ。
めったづきにされた侯のからだが、どさっと泥土の上に落ちた。従者たちは、松明を放りだして逃げた。
ただひとり、小姓のヤーコプ・ファン・メルケレンという若者だけはふみとどまっていたが、彼もまた候の死体の上にくずおれた。
殺し屋どものひろいあげた松明のあかりに、ふたつの死体があかあかと照らしだされた。
面(おもて)を緋(ひ)色の頭巾につつみ、身をかがめて死体を検分していた隊長とおぼしき男が、やがてなにごとかを短くつぶやいた。
それが合図だった。彼らは夜の闇に消えていった。こうして、杖はかんなをかけられたのである。
オルレアン侯暗殺の報をうけたパリの代官ギョーム・ド・ティノンビルは、ただちに全市門を閉鎖し、探索を開始した。
暗殺者の一団の逃走経路を検討した代官は、ブルゴーニュ侯のアルトワ館の壁の内側に秘密がひそんでいると考えた。
だが、そのブルゴーニュ候は、事件の報に接して、「この王国に、かくも極悪の、かくも陰険な殺人の犯されたためしはなかった」と所感を述べたという。
そこで、代官は、その翌々日、国王顧問会議に出席し、ペリー侯の質問に答えて、捜査の現況について報告し、諸侯の館への立ち入り調査の許可をもとめた。
ある年代記の伝えるところによれば、代官は、殺害者の一団の頭目の名まであげ、しかもそのものがアルトワ館にひそんでいるとまで言明したという。
ともあれブルゴーニュ侯は、公(おおやけ)の席上、窮地に立った。
彼は、叔父ベリー候とシチリア王をかたわらに呼び、「悪魔に魅(み)入られて」やってしまったと告白したという。
しかし、顧問会議もまた窮地に立ったのである。
ブルゴーニュ侯を犯罪者と弾劾するには、内乱の誘発を覚悟しなければならなかったからである。
けっきょく、会議は判断を保留せざるをえなかった。
しかし、こうなっては、ジャン無怖侯もパリにはいられない。
オルレアン侯を暗殺したジャン無怖候
彼は腹心のもの数名と、いそいでパリを離れ、馬をいそがせて、十二月二日にはリールに入った。
ブルゴーニュの軍勢も、主君のあとを追い、パリを脱出した。
翌年の一月、アミアンで行なわれた商議は、あくまで強気のブルゴーニュ候のイニシアティブにつらぬかれた。
なにが話しあわれたかは、記録に残されていないのだが、ともかくベリー侯とシチリア王は、二月のはじめに、むなしくパリにひきあげ、そのあとを追うように、その月の終わり、ジャン無怖侯は、軍勢をひきいてパリに帰ってきたのである。
パリの市民たちは大喜びで彼を迎えた。この民衆の支持のまえに、諸侯はなすところを知らなかった。
三月に入り、ジャン無怖侯は、パリのサン・ポル館に弁明の論陣を張った。
王太子以下、シチリア王、ペリー、ブルターニュ、ギュイエンヌの諸侯をはじめ、王国の貴顕貴女、パリ大学の関係者、バリの代官とその配下の役人たち、高等法院の法官たち等々が整然といならぶサン・ポル館の大広間に、悠然(ゆうぜん)と現われたジャン無怖候は、ビロード地の朱色の上衣に金の葉模様をちらし、その衣の合わせめには鎖鎧(くさりよろい)の冷たい輝きがときおりちらつくという、じつに堂々たる役者ぶりだった。
扉の外には精鋭の戦士の一隊が搾えていた。館の外では、集まった民衆が、ブルゴーニュ侯万歳と叫んでいた。
弁論に立ったジャン・プチは、パリ大学の神学者であり、詩人でもあった男だが、「教会分裂」の問題を議する一四〇六年のフランス教会会議の席上で、雄弁の才を認められ、ブルゴーニュ侯の顧問団の一員に加えられたという経歴の持ち主であった。
「裏切りものであり潜主であるものを殺すことは適法の行為であり、称賛に価する。
オルレアン侯は裏切りものであり潜主であった。
ゆえにブルゴーニュ侯は、オルレアン候を殺させることによって、法にかなった称えられるべき仕事をなしたのである」
という三段論法が弁論の骨子であった。
これだけのことをジャン・プチは聖書からひき、史実を駆使して延々四時間の長広舌(ちょうこうぜつ)に飾り立てたのである。
オルレアン侯は、兄のシャルル六世殺害を計画したのではないか、とジャン・プチはしきりにほのめかした。
若年のころから候につきまとっていた古い嫌疑のかずかずが、かつぎだされた。
前述の「火の舞踏会」事件もそのひとつであり、またオルレアン侯が、当時「魔法使い」とうわさされていたフィリップ・ド・メジエールと親しかったことは、侯が魔法を使って兄の殺害をはかったのではないかとほのめかすのに絶好の材料を提供したのである。
ジャン・プチは、ブルゴーニュ侯ジャンに対する嫌疑の数々をたくみにそらせて、侯こそはフランス王家の血統の擁護者であるとのイメージを、聴衆の脳裡にきざみつけようとおおわらわになっている。
彼が口をつぐむと、ジャン無怖候はひとこと、「けっこうである」といったという。
ブルゴーニュ候は勝利をおさめた。彼は王の赦免状を手に入れた。いまや彼はバリの主人であった。
パリの代官は、もちろん更迭された。王妃イザボーは、王太子とともにムランに逃げだした。
オルレアン派の諸候がこれに従った。諸侯は圧倒的なブルゴーニュ候の人気のまえに沈黙した。
七月に入り、情勢がすこし変化した ジャン無怖侯がバリを離れ、ネーデルラントにおもむいたのである。
オルレアン派の策動が再開された。
ブルゴーニュ侯に下付された赦免状の無効が、王の名において宣せられた。
王妃と王太子はパリにもどり、オルレアン侯妃と、ルイを継いだ、まだ少年のオルレアン侯シャルルの姿も、また、パリの町にみられた。
九月、こんどはオルレアン派による演説会が、ルーブル宮で開かれた。
出席者の顔ぶれは、サン・ポル館に集まったものたちからジャン無怖候をのぞき、かわりに王妃とブルボン侯を加えたというていどの変更があっただけといってよい。
セリジ師という男が演説したのだが、これはジャン・プチの演説のスタイルをそのまま借りて、ブルゴーニュ侯の貪欲と裏切りを論難するといったぐあいで、まったくの二番煎じに終わった。
亜流は、古来、軽んぜられる。セリジの演説は、ジャン・プチの弁論ほどに著名ではないのである。
ブルゴーニュ侯(ジャン無怖候)は悠然とかまえていた。
彼は、リエージュを中心とする諸都市の反乱に苦しむリエージュ司教を助けにいったのだった。
リエージュ司教領は、ブルゴーニュ侯のネーデルラントにおける勢力圏を東西に連結する重要な地域であり、ここに統制権を確保するかどうかは、ブルゴーニュ侯にとってひじょうに重大な問題であった。
オルレアン派のお祭りさわぎなどに、かまってはいられなかったのである。
九月二十三日、トングル近郊オテーの合戦に、ジャン無怖侯はリエージュ市民軍を破り、ようやく反乱を鎮圧しえた。
このオテーの勝利は、ほぼ二十五年前、父侯フィリップがフランドルへの統制権を確保しようと、ガンの市民軍を相手に戦ったローゼペクの戦いに、じゅうぶん匹敵する意義をもっていたといえる。
十月の末、ジャン無怖候は、ふたたび視線をパリに向けた。
「ブルゴーニュ侯パリに向かう」の報に、パリの諸侯は一種のパニックにおちいった。
ジャン無怖侯に対し、軍勢をパリに入れることを禁ずる勅令を発してはみたものの、「侯は候がよしと思われたやりかたで、バリに向かうであろう」と、木で鼻をくくったような返答をうけとるという始末だった。
ついに、王家は狂気の王もろともパリを逃げだして、ロワール川の南にうつった。
諸侯はパリをみすて、北フランスをブルゴーニュ侯に明け渡した。
ジャン無怖侯は、サンリス、サン・ドニと、通いなれた道をたどり、ゆっくりとパリに向かった。
十一月二十八日、彼は、民衆の「万歳! 万歳!」の叫びに迎えられて、首都に入った。
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