聖ネレオ、聖アキレオ兄弟、聖ドミチラおとめ、聖パンクラチオ殉教者 記念日 5月12日 Sts. Nereus, Achilleus, Domitilla et Pancratius M.M.
聖会は本日4人の聖なる殉教者を併せ記念する。その天国への凱旋の日は必ずしも同一ではないが、共にローマ帝国のキリスト教迫害の犠牲者たる点においては変わりがないからである。
ネレオ及びアキレオの聖兄弟は1世紀の中頃ローマの軍隊に入り、市内警備の任に当たっていたが、皇帝の命令により心にもない残酷な刑を行わねばならぬことがしばしばなので、嫌気がさし、軍籍を退いて皇帝の近親フラヴィオ家の姫君、ドミチラの侍従となった。そして時こそ定かではないが使徒聖ペトロから洗礼を受けたと伝えられている。
ドミチラはネレオ兄弟の影日向ない奉公ぶりに感心し、調べてみるとキリスト教信者である事がわかった。そうなると今度はかくも立派な行いに導く宗教が慕わしくなり、姫は二人に自分も信仰に入りたい旨を打ち明けたのである。この思いもかけぬ主人の言葉を耳にした兄弟の喜びは言うまでもない。早速姫を教皇の許に連れ行き、教理を研究させ、洗礼の恵みを受けしめたのであった。
ドミチラ姫はかねてよりアウレリアノという貴族の一青年と許嫁の間柄であったが、もちろん相手は異教徒でもあるので、これと結婚すれば或いは姫の救霊にも妨げが生ぜぬかと心配した兄弟は、誠意を披瀝して忠告を与えた。すると姫もその危険を悟り、アウレリアノとの婚約を破談とし、終生童貞を守る決心を立て、教皇クレメンスから童貞のヴェールを授かったのである。
一族の中から、またローマの名誉ある軍人の中から、禁制のキリスト教を奉ずる者が現れたと知った時の、ドミチアノ皇帝の驚きはどれほどであったろう!彼は早速ドミチラとネレオ兄弟とを呼び寄せ、棄教を命じたが、信仰堅固にしてその意を動かすことの出来ないと見てとると、之をポンザという島に流しものにすることにした。
栄耀栄華、何の不自由のない都の生活に慣れたドミチラにとって、この配流はどんなに淋しく味気ないことであったか解らない。しかし彼女は主と仰ぐキリストの御為に一切を耐え忍んだのであった。
その内にもキリスト教に対する迫害は、益々厳しさを加えて来た。ポンザ島には新たにミヌチオ・ルフォという者が来て信者の糾明を行ったが、もちろんドミチラ主従3人は決して初志を翻さない。ただ「聖教の為ならば、一命を献げても更に悔いる所がありません」と答えるばかりである。そこでネレオ兄弟は拷問でかけられたが、それでも棄教をしないので、遂にテラチナという島に送られ、そこで首を斬られて殉教した。
ドミチラ姫に対しては、先の婚約者アウレリアノが更に説得を試みる為にテオドラ及びオイフロシナという二婦人をローマから遣わし、種々甘言を以て誘わせたが、やはりどうしても意を翻さない。のみならず却って姫の方で二人を説きつけて信者にしてしまったからルフォは彼等3人をテラチナに送り、そこで一軒の家に閉じ込めたまま焼き殺したと伝えられている。
ドミチラ及びネレオ、アキレオ兄弟の遺骨は後にローマに移されてフラヴィオ家の墓地に埋葬され、聖会信者の崇敬の的となった。
聖パンクラチオはヂオクレチアノ皇帝の御代に、斬罪に処せられて殉教した少年である。彼は聖会において昔から特別に崇め尊ばれ、14人の救難聖人中に加えられており、ローマには今も彼に献げられた聖堂があって、枢機卿座の高い格式が与えられている。
聖パンクラチオは小アジアのフリジアに生まれた。両親に死に別れて孤児となってからは、伯父ヂオニジオに伴われてローマに赴き、そこでキリスト信者であった知り合いの紹介で教皇マルチェリノに謁見し、研究の後聖教の真理なる事を認めて受洗、熱心な信者となり、まだようよう14歳、花ならば蕾にも喩えるべき紅顔可憐の身を、勇ましく血を流して信仰を証したのであった。
教訓
聖ドミチラも聖パンクラチオも、その入信の始めは共に他の信者の導きによったものである。之を見てもいかに信者一人一人の熱心な信仰が、他人の救霊に役立つか解るであろう。されば我等も未信の人々に真理や永福の宝を与えたいと望むならば、すべからくわが信仰の火を燃やし、善徳の輝きを放って彼等を照らすように努めねばならないのである。
聖会は本日4人の聖なる殉教者を併せ記念する。その天国への凱旋の日は必ずしも同一ではないが、共にローマ帝国のキリスト教迫害の犠牲者たる点においては変わりがないからである。
ネレオ及びアキレオの聖兄弟は1世紀の中頃ローマの軍隊に入り、市内警備の任に当たっていたが、皇帝の命令により心にもない残酷な刑を行わねばならぬことがしばしばなので、嫌気がさし、軍籍を退いて皇帝の近親フラヴィオ家の姫君、ドミチラの侍従となった。そして時こそ定かではないが使徒聖ペトロから洗礼を受けたと伝えられている。
ドミチラはネレオ兄弟の影日向ない奉公ぶりに感心し、調べてみるとキリスト教信者である事がわかった。そうなると今度はかくも立派な行いに導く宗教が慕わしくなり、姫は二人に自分も信仰に入りたい旨を打ち明けたのである。この思いもかけぬ主人の言葉を耳にした兄弟の喜びは言うまでもない。早速姫を教皇の許に連れ行き、教理を研究させ、洗礼の恵みを受けしめたのであった。
ドミチラ姫はかねてよりアウレリアノという貴族の一青年と許嫁の間柄であったが、もちろん相手は異教徒でもあるので、これと結婚すれば或いは姫の救霊にも妨げが生ぜぬかと心配した兄弟は、誠意を披瀝して忠告を与えた。すると姫もその危険を悟り、アウレリアノとの婚約を破談とし、終生童貞を守る決心を立て、教皇クレメンスから童貞のヴェールを授かったのである。
一族の中から、またローマの名誉ある軍人の中から、禁制のキリスト教を奉ずる者が現れたと知った時の、ドミチアノ皇帝の驚きはどれほどであったろう!彼は早速ドミチラとネレオ兄弟とを呼び寄せ、棄教を命じたが、信仰堅固にしてその意を動かすことの出来ないと見てとると、之をポンザという島に流しものにすることにした。
栄耀栄華、何の不自由のない都の生活に慣れたドミチラにとって、この配流はどんなに淋しく味気ないことであったか解らない。しかし彼女は主と仰ぐキリストの御為に一切を耐え忍んだのであった。
その内にもキリスト教に対する迫害は、益々厳しさを加えて来た。ポンザ島には新たにミヌチオ・ルフォという者が来て信者の糾明を行ったが、もちろんドミチラ主従3人は決して初志を翻さない。ただ「聖教の為ならば、一命を献げても更に悔いる所がありません」と答えるばかりである。そこでネレオ兄弟は拷問でかけられたが、それでも棄教をしないので、遂にテラチナという島に送られ、そこで首を斬られて殉教した。
ドミチラ姫に対しては、先の婚約者アウレリアノが更に説得を試みる為にテオドラ及びオイフロシナという二婦人をローマから遣わし、種々甘言を以て誘わせたが、やはりどうしても意を翻さない。のみならず却って姫の方で二人を説きつけて信者にしてしまったからルフォは彼等3人をテラチナに送り、そこで一軒の家に閉じ込めたまま焼き殺したと伝えられている。
ドミチラ及びネレオ、アキレオ兄弟の遺骨は後にローマに移されてフラヴィオ家の墓地に埋葬され、聖会信者の崇敬の的となった。
聖パンクラチオはヂオクレチアノ皇帝の御代に、斬罪に処せられて殉教した少年である。彼は聖会において昔から特別に崇め尊ばれ、14人の救難聖人中に加えられており、ローマには今も彼に献げられた聖堂があって、枢機卿座の高い格式が与えられている。
聖パンクラチオは小アジアのフリジアに生まれた。両親に死に別れて孤児となってからは、伯父ヂオニジオに伴われてローマに赴き、そこでキリスト信者であった知り合いの紹介で教皇マルチェリノに謁見し、研究の後聖教の真理なる事を認めて受洗、熱心な信者となり、まだようよう14歳、花ならば蕾にも喩えるべき紅顔可憐の身を、勇ましく血を流して信仰を証したのであった。
教訓
聖ドミチラも聖パンクラチオも、その入信の始めは共に他の信者の導きによったものである。之を見てもいかに信者一人一人の熱心な信仰が、他人の救霊に役立つか解るであろう。されば我等も未信の人々に真理や永福の宝を与えたいと望むならば、すべからくわが信仰の火を燃やし、善徳の輝きを放って彼等を照らすように努めねばならないのである。