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5-12-2 ジャンヌ裁判

2023-05-25 05:30:49 | 世界史
『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
12 聖女ジャンヌ・ダルク
2 ジャンヌ裁判

 ジャンヌの身柄は、イギリス軍が買いとった。イギリス軍は、彼女を教会の手にゆだね、ボーベの司教ピエール・コーションを司宰者とする教会の法廷が、異端の罪で彼女を裁くことになった。
 翌年二月二十一日を第一日として、ルーアンで行なわれた宗教裁判は、五月二十四日、ジャンヌが信仰の迷いを認める宣誓書に署名したとき、一応終了した。
 ジャンヌは、審問のひとつの焦点となった「男装」の件についてみずから非を認め、以後、男装はしないと誓い、法廷は、パンと水だけをあたえられる終身禁固の判決をいい渡したのである。
 だが、数日後の二十八日に、どういうわけだか、獄中で男装しているジャンヌが発見された。ジャンヌが身につけていた衣服はとりあげられていたはずなのに、いつのまにか、それが彼女の手もとにもどされていたのだ。
 翌二十九日、ピエール・コーションは法廷を再開した。ジャンヌは、ふたたび異端の誤りにおちいった者、「もどり異端」として断罪され、翌三十日、俗権、すなわちイギリス軍に引き渡され、火刑台上に若い生命を散らせたのである。
 いったい、どういう理由でジャンヌは、その信仰に誤りがあると裁定されたのだろうか。
 法廷は、パリ大学神学部に意見をもとめている。そのさいに作製された法廷の意見書「十二箇条」というのが史料に残されているが、その要旨を紹介してみよう。
 一、天使、聖女らを幻視したと主張したこと。
 二、大天使ミカエルから王冠をあたえられたと主張したこと。
 三、キリストへの信仰と同等に、天使、聖女を信仰すること。
 四、未来を予見しえ、いまだみぬ人をみわけられると主張したこと。
 五、男装、男髪のこと。ならびに、その姿態で聖体を拝受したこと。
 六、手紙にイエス、マリア、十字の印を記し、これに従わざるものは、うんぬんと記述したこと。
 七、父母をみすて、シャルルに王国の再建を約束したこと。
 八、塔からとびおりて、死を企てたこと。
 九、処女性を保つならば大国が約束されると、聖女カトリーヌ、聖女マルクリートが語ったと主張したこと。
 十、両聖女はイギリス側ではないから英語を話さないと主張したこと。また、ブルゴーニュ派を嫌ったこと。
 十一、聖職者の仲介なく信仰すること。
 十二、教会を認めぬこと。

 以上の諸点について、ジャンヌの信仰には誤りがあると裁定されたのであった。

 さて、ここで、また、『パリ一市民の日記』をのぞいてみよう。
 一四三一年五月三十日の記事を一市民は、こう書きだしている。
 「この年の聖体秘蹟の日の前日、一四三一年五月三十日、この日、ルーアンで説教が行なわれた。
 コンピエーニュの前で捕えられた、娘とひとの呼ぶジャンヌ殿は処刑台の上にあり、だれしもがはっきりと男の衣装をつけた彼女の姿をみることができた。
 そして、キリスト教界、とくにフランス王国に彼女ゆえに生じたものと知られる大いなる災いのかずかずが、彼女に説き示された」。

 一市民は、みずからルーアンにおもむいて、ジャンヌ処刑を目撃したわけではない。
 これはパリでの伝聞の記録である。
 だが、それにしては、以下、一市民の紹介している「説教」の内容はきわめて正確である。
 「説教」とは、この場合、処刑の前にジャンヌに読みきかせた罪状告発文や処刑を見物に集った民衆に対する説教のことなのだが、一市民の伝えるその内容は、前述の「十二箇条」を、わかりやすい言葉にうつし直したものにほかならないのである。
 ジャンヌに関する教会の対民衆キャンペーンは、十分その効果をあげていたといえるだろう。
 一市民がしきりに強調しているのはジャンヌが男装していたという点である。
 「髪は短く刈りつめて、縁に切りこみの入った帽子をつけ、胴衣に、たくさん飾り紐をつけた朱色の股引きをはいたまま」と、彼は娘ジャンヌの服装をていねいに描写してくれている。
 処刑台上の柱に細い鎖で縛りつけられたジャンプの身体を炎がつつみ、衣服がすっかり焼けうせてしまったころをみはからって、いったん火がとおざけられ、観衆は、彼女が女であることをはっきり確認できたという。
 この処置を、ただ残酷なことだととがめだてする前に、いったいなぜジャンヌの男装ということが、それほど問題であったのかをよく考えてみなければならないと思う。
 なぜなら、この処置は、彼女が女であることを民衆に納得させるためのものであったのだから。
 さらに、一市民が強調しているのは、彼女が「もどり異端」であったという点である。
 偏見なしに史料を読むかぎり、ピエール・コーションとその法廷は、ジャンヌを救おうと、ぎりぎりの線まで努力したと認めてよいと思う。
 ジャンヌを火刑台上へ導いたのは、ジャンヌ自身であった。
 ジャンヌ自身の純な信仰が、教会の分別を拒否したのである。
 そのようなジャンヌは、教会の目には傲慢(ごうまん)とうつる。
 中世における異端は、信仰の否定からでるものではなかった。
 あまりにも純な信仰が異端を生んだのである。
 法廷は、ジャンヌを、教会の統制にしたがわせることに成功しかけた。
 だが、ジャンヌの純な心は、彼女自身の信仰へとたちもどったのである。
 一市民は、ジャンヌ処刑を報ずる記事を、つぎのようにしめくくっている。
 「あちらこちらに、彼女は殉教者であった、まさしく主のために死んだのだという者もあり、また、他の者は、いやそうではない、彼女を自分たちの味方としていた連中は誤りを犯していたのだともいっている。
 だが、いかなる悪行あるいは善行をなしたとしても、ともかく彼女は、この日、焼かれてしまったのだ。」

 いたずらにジャンヌ裁判の「政治性」をいい、ピエール・コーションをはじめとする裁判官たちをごろつき呼ばわりし、火刑台上のジャンヌに枝を組んで作った十字架を与えたというイギリス人兵士、あるいは大きな行列用の十字架を、炎にやかれる彼女の眼前にささげもってやっていたという一僧侶だけが、ただひとり、まともな人間であったかのように喧伝する前に、この人間性にみちあふれたパリの一市民の言葉によく耳をかたむけるがいい。
 ここには娘ジャンヌが生きている。
 ジャンヌを聖人化する動きは、一四五〇年代に、シャルル七世の命によって行なわれたジャンヌの裁判やり直し、いわゆる「復権訴訟」にはじまり、シャルル七世を継いだルイ十一世に仕えた、バロワ王権の代弁人トマ・バザンの『シャルル七世史』によって、一応のまとまりを得た。
 ジャンヌは、神命をうけてフランス王国の危機を救った聖処女であるというイメージが作られたのである。
 したがって、「復権訴訟」以後、娘ジャンヌの歴史は消えた。聖女ジャンヌの歴史がはじまったのである。






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