『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
11 項羽と劉邦
1 陳勝と呉広
ある日のこと、のどかな昼のひとときであった。
それまで畑をたがやしていた男が、手をやすめて腰をおろし、しばらく物思いにふけっていたが、やがて雇い主に話しかけた。
「もし富貴の身になっても、たがいに忘れないようにしましょうや」。
雇い主は笑って、「お前、ひとに雇われて耕作している身が、どうして富貴の身になれるものかい」と答えた。
すると男は、ため息をついていった。
「ああ、燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」(ツバメやスズメのような小さな鳥に、どうしてオオトリやクグイのような大きな鳥の志がわかるか)。
この男が、陳勝(ちんしょう)であった。わかいころから、気持だけは大きかった。
秦の二世皇帝の元年(前二〇九)、大きな徴発があり、遠く北のかた、長城のまもりにつかされることになった。
陳勝もこれに加えられ、一隊をひきいた。別の隊に、呉広がいた。
ところが途中で大雨にあい、道がとおれなくなった。このままでは期限におくれる。
そうすれば、秦の法律によって、みな斬罪である。陳勝と呉広は、話しあった。
「いま逃げても殺されよう。謀叛(むほん)をおこしても殺されよう。おなじ死ぬのなら、国を建てて死のうじゃないか」。
そこで引率の司令官を殺し、全員をあつめてつげた。
「君たちは期限におくれた。みな斬罪だ。たとえ処刑されなくとも、辺境の守備では十人のうち六、七人は死んでしまう。
ともあれ男子として、どうせ死ぬなら大きな名声をあげて死のうではないか。
王候将相(おう・こう・しょう・しょう=王も諸侯も、将軍も大臣も)いずくんぞ種(しゅ)あらんや(どうして血筋の別があろうか)」。
全員こぞって、命令にしたがうことを誓った。兵をあげるといっても、武器らしい武器はもっていない。
しかし近隣のものが、つぎつぎに加わって、ゆくゆく陳(ちん)についたころには、何万という大軍にふくれあがっていた。
かくて陳に入城し、ここを根拠地と定めた。陳こそは、かつて楚の国が秦にほろぼされる前、都としていたところである。
土地の有力者たちは、楚の国が回復したといって喜び、陳勝に王たらんことをすすめた。
ついに陳勝は、国号を「楚」と称し、みずから王となった。
あちこちの郡県では、いずれもその長官を殺して、陳勝に呼応した。いまや意気、大いにあがる。
総勢は数十万人に達し、その一軍は函谷関(かんこくかん)をやぶって、都の咸陽のちかくにせまり、秦の朝廷をおどろかせた。
しかし陳勝の軍も、やはり烏合(うごう)の衆にすぎなかった。
秦が本腰をいれて反撃をはじめると、たちまちにして敗れ去った。
秦軍はいよいよすすむ。いったん敗れた軍のなかは、動揺するばかりであった。呉広も、軍中で殺された。
はじめ反乱にくわわった将軍たちも、もはや陳勝をみかぎって、つぎつぎに自立する。
こうして趙(ちょう)も、魏(ぎ)も、斉(せい)も、燕(えん)も、それぞれ王をたてて独立した。
まさに戦国の再来であった。やがて秦軍は、陳勝の本拠たる陳にせまる。
救いにおもむく軍もなく、陳勝は乱軍のなかに死んだ。
王位にあること、およそ六ヵ月、鴻鵠(こうこく)の夢も、はかなく消えた。
陳勝は事が成らずして死んだ。しかし陳勝の挙兵は最初の農民蜂起(ほうき)であった。
そして陳勝と呉広の主唱によって、反秦の軍は各地におこり、秦をほろぼすにいたったのである。
11 項羽と劉邦
1 陳勝と呉広
ある日のこと、のどかな昼のひとときであった。
それまで畑をたがやしていた男が、手をやすめて腰をおろし、しばらく物思いにふけっていたが、やがて雇い主に話しかけた。
「もし富貴の身になっても、たがいに忘れないようにしましょうや」。
雇い主は笑って、「お前、ひとに雇われて耕作している身が、どうして富貴の身になれるものかい」と答えた。
すると男は、ため息をついていった。
「ああ、燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」(ツバメやスズメのような小さな鳥に、どうしてオオトリやクグイのような大きな鳥の志がわかるか)。
この男が、陳勝(ちんしょう)であった。わかいころから、気持だけは大きかった。
秦の二世皇帝の元年(前二〇九)、大きな徴発があり、遠く北のかた、長城のまもりにつかされることになった。
陳勝もこれに加えられ、一隊をひきいた。別の隊に、呉広がいた。
ところが途中で大雨にあい、道がとおれなくなった。このままでは期限におくれる。
そうすれば、秦の法律によって、みな斬罪である。陳勝と呉広は、話しあった。
「いま逃げても殺されよう。謀叛(むほん)をおこしても殺されよう。おなじ死ぬのなら、国を建てて死のうじゃないか」。
そこで引率の司令官を殺し、全員をあつめてつげた。
「君たちは期限におくれた。みな斬罪だ。たとえ処刑されなくとも、辺境の守備では十人のうち六、七人は死んでしまう。
ともあれ男子として、どうせ死ぬなら大きな名声をあげて死のうではないか。
王候将相(おう・こう・しょう・しょう=王も諸侯も、将軍も大臣も)いずくんぞ種(しゅ)あらんや(どうして血筋の別があろうか)」。
全員こぞって、命令にしたがうことを誓った。兵をあげるといっても、武器らしい武器はもっていない。
しかし近隣のものが、つぎつぎに加わって、ゆくゆく陳(ちん)についたころには、何万という大軍にふくれあがっていた。
かくて陳に入城し、ここを根拠地と定めた。陳こそは、かつて楚の国が秦にほろぼされる前、都としていたところである。
土地の有力者たちは、楚の国が回復したといって喜び、陳勝に王たらんことをすすめた。
ついに陳勝は、国号を「楚」と称し、みずから王となった。
あちこちの郡県では、いずれもその長官を殺して、陳勝に呼応した。いまや意気、大いにあがる。
総勢は数十万人に達し、その一軍は函谷関(かんこくかん)をやぶって、都の咸陽のちかくにせまり、秦の朝廷をおどろかせた。
しかし陳勝の軍も、やはり烏合(うごう)の衆にすぎなかった。
秦が本腰をいれて反撃をはじめると、たちまちにして敗れ去った。
秦軍はいよいよすすむ。いったん敗れた軍のなかは、動揺するばかりであった。呉広も、軍中で殺された。
はじめ反乱にくわわった将軍たちも、もはや陳勝をみかぎって、つぎつぎに自立する。
こうして趙(ちょう)も、魏(ぎ)も、斉(せい)も、燕(えん)も、それぞれ王をたてて独立した。
まさに戦国の再来であった。やがて秦軍は、陳勝の本拠たる陳にせまる。
救いにおもむく軍もなく、陳勝は乱軍のなかに死んだ。
王位にあること、およそ六ヵ月、鴻鵠(こうこく)の夢も、はかなく消えた。
陳勝は事が成らずして死んだ。しかし陳勝の挙兵は最初の農民蜂起(ほうき)であった。
そして陳勝と呉広の主唱によって、反秦の軍は各地におこり、秦をほろぼすにいたったのである。