『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年
8 黄土文明のあけぽの
2 ヤンシャオ遺跡
さて、リサンたちがオルドスにおいて、旧石器時代の遺跡をしらべていたのと、ちょうど同じ時期に、黄河の中流域(河南省)を調査していたスウェーデンの学者があった。
その人こそ、シナントロプスの発見に大きな貢献をなしたアンダーソンである。
彼は当時、すでに周口店の洞穴に着目し、その発掘は同僚のツダンスキーによって進められていた。
それと並行して、アンダーソンは河南省の方面にも化石や石器時代の遺物をもとめて調査の手をのばし、さっそく洛陽の西方で、脊椎(せきつい)動物の化石を発見したのである。
そこでアンダーソンは、一九二〇年の秋、中国人の助手をその方面に送りこんだが、その助手は早くも十二月に、澠池(めんち)県のヤンシャオ(仰韶)村から、数百個にのぼる石器類をあつめてきた。
農民たちが、田畑をたがやすときに見つけたものだということであった。
それらの出土地が石器時代の遺跡であることは、もはや疑いなかった。
そこで、あくる二一年の春、アンダーソンはみずからヤンシャオに向かった。
そこは洛陽と西安(むかしの長安)とをむすぶ古代の大街道にそっていた。
村のまわり一帯は、黄土におおわれた台地をなしており、その台地をぬって谷川が走っている。
谷はふかくえぐられ、崖には古い土層が露出している。底のほうは、赤い第三紀の粘土層であった。
その上に、灰や土器のかけらをたくさんふくんだ層が、かさなっている。
これこそ、石器時代の遺物を出土した層にちがいない。
そう直感して、アンダーソンは注意ぶかく谷川の崖を見ていった。
そして発見したのが、美しくみがきあげた表面に、黒く彩色をほどこした赤色の土器であった。
この種の土器は、のちに彩文(さいもん)土器、または彩陶(さいとう)とよばれるようになる。
まさに、見事としか言いようのない土器であった。
しかし石器時代にこのような土器がつくられたのであろうか。
地質学が本職のアンダーソンには、とうてい考えられないことであった。謎であった。
それでもアンダーソンは、なお幾日かヤンシャオ村にとどまって、調査をつづけた。
自分でも石器を見つけたし、村の子供たちに金をあたえて、石器をあつめさせた。
そして、ついに彩文土器が出土するところと同じ層のなかから、立派な石斧(せきふ)をさがしあてた。
新石器時代の磨製(ませい)の斧(おの)であった。とすれば、彩文土器も新石器時代の製作ということになる。
北京に帰ってからアンダーソンは、図書館におもむいていろいろと考古学の発掘報告書をしらべた。
するとカスピ海の東方、ロシア領トルキスタンの地から、二十世紀のはじめに、ヤンシャオの土器とよく似た彩文土器が発見されていることを知った。
その土器は、金属時代の初期のものと説明されている。
そうすれば新石器時代の後期に、彩文土器がつくられたとしてもふしぎではない。
しかも中国の新石器文化は、彩文土器をもちいていたということで、あるいは西アジアの文化の影響をうけていたのかも知れないのである。
アンダーソンは、いさみ立った。その年の秋から、ヤンシャオ村において大規模な発掘にとりかかった。
のちに周口店で大きな成果をあげたツダンスキーや、ブラックも、発掘に協力した。
そして土器や石器ばかりではない。中国の先史考古学のうえで、驚くべき大発見が次々になされたのであった。
まず、おびただしい住居のあとが見つかった。
それは直径が二~三メートルの円形の竪穴(たてあな)である。
深さは五〇センチのものから、二メートルのものまで、各種にわたっていた。
これをアンダーソンは、食物などの貯蔵穴と考えたが、まちがいで、竪穴住居のあとであった。
そうして住居のあとは、南北六〇〇メートル、東西五〇〇メートルの範囲にわたっている。
それだけの広さの「村」を形成していたのであった。
新石器時代の集落としては、中国のみならず、世界においても最大の規模をもったものといえよう。
彩文土器も、たくさん発見された。
その美しさには、いよいよ驚かされたが、さらにアンダーソンは西アジアにおける彩文土器との連関について、いっそう確信をふかめたのであった。
もちろん彩文土器のほかに、もっと粗雑なつくりで、灰色をした無彩の土器もあった。
皿や鉢や壺の形をしている。それらと並んで、注目すべき形のものがあった。
それは、「鬲(れき)」とよばれる三足の土器である。
おなじく三足土器に「鼎(てい)」(かなえ)があるが、これは中国のほか、さまざまの地域でつくられた。
しかし、鬲は中国にしか存在しない特異な形の土器である。
鬲(れき)の三足は、尖底(せんてい)土器(底のとがった土器)を三つ組み合わせ、安定さぜるとともに、煮沸(しゃふつ)の効力を大きくしたものであった。
つまり尖底土器ならば、さまざまの地域でつくられており、珍しくないが、尖底のものは、きわめて安定がわるいし、煮たきも不便である。
それを三つ組み合わせることによって、新石器時代の中国人は、見事に難問を解決したのであった。
ヤンシャオで発見された鬲は、すでに高度の発達をとげた段階のものであった。
もっと以前に鬲は発明されていたのである。それだけではない。
ヤンシャオからは、鬲(れき)の形をしていて、しかも口縁の部分が反(そ)っており、ほかの器を上にのせられるようになっているものも、発見された。
その上に、どのようなものをのせたのか。
やはりヤンシャオで、底にいくつかの穴があけられ、しかも底部がわずかに円筒形をした土器が見つかった。
これは「甑」(そう=こしき)とよばれる。
さきの鬲型の土器の上には、この甑をのせ、上に食物を、下に水を入れて、一種の蒸し器をつくりあげたのであった。
こうした上下を組みあわせた土器は「甗(げん)」とよばれる。
そして鬲も甗(げん)も、のちには青銅器につくられ、宗廟(そうびょう=みたまや)の祭器の役割を果たしたのである。
このような土器の存在、そして石器にも斧とか、庖丁とかの形のものがあるところから、ヤンシャオの人々は、すでに農耕をいとなんでいたことも推定された。
さらに、一つの粗末な土器の破片には、植物の種のあとが無数についていた。
これを植物学者にしらべてもらうと、水稲のモミガラのあとであるという。
じつに新石器時代のヤンシャオでは、水田耕作までおこなわれていたことが、わかったのであった。
これは、驚嘆すべき事実である。
というのは現在のヤンシャオにおいては、気候が乾燥してしまったために谷川の水位がさがり、米をつくることはできない。
しかし新石器時代には、米作が可能であったのだ。
いまよりも暖かく、この一帯をうるおす川は、浅く、ゆるやかな流れをなしていたのであろう。
それにしても、稲は熱帯性の植物である。中国の北部(や日本)では、栽培しなければ育たない。
ヤンシャオの人々は、稲を栽培する技術を習得していたのである。
それゆえにこそ、あのような大きな集落をつくりあげることができたのではなかったか。
8 黄土文明のあけぽの
2 ヤンシャオ遺跡
さて、リサンたちがオルドスにおいて、旧石器時代の遺跡をしらべていたのと、ちょうど同じ時期に、黄河の中流域(河南省)を調査していたスウェーデンの学者があった。
その人こそ、シナントロプスの発見に大きな貢献をなしたアンダーソンである。
彼は当時、すでに周口店の洞穴に着目し、その発掘は同僚のツダンスキーによって進められていた。
それと並行して、アンダーソンは河南省の方面にも化石や石器時代の遺物をもとめて調査の手をのばし、さっそく洛陽の西方で、脊椎(せきつい)動物の化石を発見したのである。
そこでアンダーソンは、一九二〇年の秋、中国人の助手をその方面に送りこんだが、その助手は早くも十二月に、澠池(めんち)県のヤンシャオ(仰韶)村から、数百個にのぼる石器類をあつめてきた。
農民たちが、田畑をたがやすときに見つけたものだということであった。
それらの出土地が石器時代の遺跡であることは、もはや疑いなかった。
そこで、あくる二一年の春、アンダーソンはみずからヤンシャオに向かった。
そこは洛陽と西安(むかしの長安)とをむすぶ古代の大街道にそっていた。
村のまわり一帯は、黄土におおわれた台地をなしており、その台地をぬって谷川が走っている。
谷はふかくえぐられ、崖には古い土層が露出している。底のほうは、赤い第三紀の粘土層であった。
その上に、灰や土器のかけらをたくさんふくんだ層が、かさなっている。
これこそ、石器時代の遺物を出土した層にちがいない。
そう直感して、アンダーソンは注意ぶかく谷川の崖を見ていった。
そして発見したのが、美しくみがきあげた表面に、黒く彩色をほどこした赤色の土器であった。
この種の土器は、のちに彩文(さいもん)土器、または彩陶(さいとう)とよばれるようになる。
まさに、見事としか言いようのない土器であった。
しかし石器時代にこのような土器がつくられたのであろうか。
地質学が本職のアンダーソンには、とうてい考えられないことであった。謎であった。
それでもアンダーソンは、なお幾日かヤンシャオ村にとどまって、調査をつづけた。
自分でも石器を見つけたし、村の子供たちに金をあたえて、石器をあつめさせた。
そして、ついに彩文土器が出土するところと同じ層のなかから、立派な石斧(せきふ)をさがしあてた。
新石器時代の磨製(ませい)の斧(おの)であった。とすれば、彩文土器も新石器時代の製作ということになる。
北京に帰ってからアンダーソンは、図書館におもむいていろいろと考古学の発掘報告書をしらべた。
するとカスピ海の東方、ロシア領トルキスタンの地から、二十世紀のはじめに、ヤンシャオの土器とよく似た彩文土器が発見されていることを知った。
その土器は、金属時代の初期のものと説明されている。
そうすれば新石器時代の後期に、彩文土器がつくられたとしてもふしぎではない。
しかも中国の新石器文化は、彩文土器をもちいていたということで、あるいは西アジアの文化の影響をうけていたのかも知れないのである。
アンダーソンは、いさみ立った。その年の秋から、ヤンシャオ村において大規模な発掘にとりかかった。
のちに周口店で大きな成果をあげたツダンスキーや、ブラックも、発掘に協力した。
そして土器や石器ばかりではない。中国の先史考古学のうえで、驚くべき大発見が次々になされたのであった。
まず、おびただしい住居のあとが見つかった。
それは直径が二~三メートルの円形の竪穴(たてあな)である。
深さは五〇センチのものから、二メートルのものまで、各種にわたっていた。
これをアンダーソンは、食物などの貯蔵穴と考えたが、まちがいで、竪穴住居のあとであった。
そうして住居のあとは、南北六〇〇メートル、東西五〇〇メートルの範囲にわたっている。
それだけの広さの「村」を形成していたのであった。
新石器時代の集落としては、中国のみならず、世界においても最大の規模をもったものといえよう。
彩文土器も、たくさん発見された。
その美しさには、いよいよ驚かされたが、さらにアンダーソンは西アジアにおける彩文土器との連関について、いっそう確信をふかめたのであった。
もちろん彩文土器のほかに、もっと粗雑なつくりで、灰色をした無彩の土器もあった。
皿や鉢や壺の形をしている。それらと並んで、注目すべき形のものがあった。
それは、「鬲(れき)」とよばれる三足の土器である。
おなじく三足土器に「鼎(てい)」(かなえ)があるが、これは中国のほか、さまざまの地域でつくられた。
しかし、鬲は中国にしか存在しない特異な形の土器である。
鬲(れき)の三足は、尖底(せんてい)土器(底のとがった土器)を三つ組み合わせ、安定さぜるとともに、煮沸(しゃふつ)の効力を大きくしたものであった。
つまり尖底土器ならば、さまざまの地域でつくられており、珍しくないが、尖底のものは、きわめて安定がわるいし、煮たきも不便である。
それを三つ組み合わせることによって、新石器時代の中国人は、見事に難問を解決したのであった。
ヤンシャオで発見された鬲は、すでに高度の発達をとげた段階のものであった。
もっと以前に鬲は発明されていたのである。それだけではない。
ヤンシャオからは、鬲(れき)の形をしていて、しかも口縁の部分が反(そ)っており、ほかの器を上にのせられるようになっているものも、発見された。
その上に、どのようなものをのせたのか。
やはりヤンシャオで、底にいくつかの穴があけられ、しかも底部がわずかに円筒形をした土器が見つかった。
これは「甑」(そう=こしき)とよばれる。
さきの鬲型の土器の上には、この甑をのせ、上に食物を、下に水を入れて、一種の蒸し器をつくりあげたのであった。
こうした上下を組みあわせた土器は「甗(げん)」とよばれる。
そして鬲も甗(げん)も、のちには青銅器につくられ、宗廟(そうびょう=みたまや)の祭器の役割を果たしたのである。
このような土器の存在、そして石器にも斧とか、庖丁とかの形のものがあるところから、ヤンシャオの人々は、すでに農耕をいとなんでいたことも推定された。
さらに、一つの粗末な土器の破片には、植物の種のあとが無数についていた。
これを植物学者にしらべてもらうと、水稲のモミガラのあとであるという。
じつに新石器時代のヤンシャオでは、水田耕作までおこなわれていたことが、わかったのであった。
これは、驚嘆すべき事実である。
というのは現在のヤンシャオにおいては、気候が乾燥してしまったために谷川の水位がさがり、米をつくることはできない。
しかし新石器時代には、米作が可能であったのだ。
いまよりも暖かく、この一帯をうるおす川は、浅く、ゆるやかな流れをなしていたのであろう。
それにしても、稲は熱帯性の植物である。中国の北部(や日本)では、栽培しなければ育たない。
ヤンシャオの人々は、稲を栽培する技術を習得していたのである。
それゆえにこそ、あのような大きな集落をつくりあげることができたのではなかったか。