『ウゴ・ラッタンツィ神父 教会の忠実なしもべ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、24
◆4、教皇パウロ6世への手紙
本書の37ページに書いてあるように、第二次ヴァティカン公会議では、教皇の首位権と、司教たちの権利について、大変な議論がありました。
教会憲章の第三章の試案では、司教たちの権利を必要以上に主張するあまり、教皇の首位権に関する伝統的な教義がくらまされていました。その結果、教皇の不可謬権に対する第一次ヴァティカン公会議の信仰箇条までも、とり消したほうがいい、という意見が強くうち出されていました。
ラッタンツィ神父は、自分の委員会仲間と相談して、公会議に参加する教父たちによびかけるだけでなく、教皇ご自身にも手紙を送って注意をうながしました。その手紙のなかから、おもな所だけを抜粋しましょう。
試案の第三章21節には、司教団の統治職をペトロの統治職と混同する誤った聖書の解釈と、次の仮説が述べられていました。この仮説によれば、「司教の叙階式は、司教に聖化職を与えるとともに、教導職と統治職(支配権)を同時に与える」とうたっていました。これに対して、ラッタンツィ神父は、次のように述べています。
1)聖書解釈のまちがい
使徒たちはみな教会の「いしずえ、または、「土台」(エフェゾ2・20、黙示録21・14)であるといわれています。その「いしずえ、は、確実に福音の教え、または、福音の宣教をさしています(とくに、エフェゾ20による)。このことは、12使徒に共通の特長です。それでこれをイエズスが、「教会の岩」にされた聖ぺトロに固有な特長と混同してはなりません。
キリストご自身、これを明らかに区別しておられます。「岩の上にいしずえを置いて、家を建てる人iのたとえ(ルカ6・48)で明白なように、「岩」は、「いしずえ」と同じもの、同程度のものでなく、「いしずえ」を支えるものであることがわかります。
2)教皇ピオ11世は、教会に関する回章のなかで、使徒たちと、そのあとをつぐ司教たちが、福音宣教の点でみな同程度だといっておられますが、教会支配の点では、同程度でないと注意しておられます。
しかし、この案の支持者たちは、この教義を混同してしまったことを、ウゴ神父は指摘しています。
3)14名の歴代の教皇たちは、荘厳な文書と、他の文書のなかで、教会における支配権の直接の泉は、教皇であって、教皇は、司教たちにそれを分配するものであることを明らかに教えています。
数えきれないほどの教父、教会博士、神学者は、歴代の教皇たちの教えを支持しています。しかし、これらの人々の文献が、ちがった意味に解釈されたこともまた、残念に思いますと、こう、ラッタンツィ神父は述べています。
また、こうもいっています。るまり、この試案によれば、支配権の直接の泉は、教皇ひとりにあるのではなく、司教団にもあるということになると。
ラッタンツィ神父は、さらに進んで、この案では、教皇を司教団のかしらト認めているものの教皇は、司教団の賛成がなければ権利がないということになります。この説は、キリストから定められた教会の制度を覆していると述べています。
◆4、教皇パウロ6世への手紙
本書の37ページに書いてあるように、第二次ヴァティカン公会議では、教皇の首位権と、司教たちの権利について、大変な議論がありました。
教会憲章の第三章の試案では、司教たちの権利を必要以上に主張するあまり、教皇の首位権に関する伝統的な教義がくらまされていました。その結果、教皇の不可謬権に対する第一次ヴァティカン公会議の信仰箇条までも、とり消したほうがいい、という意見が強くうち出されていました。
ラッタンツィ神父は、自分の委員会仲間と相談して、公会議に参加する教父たちによびかけるだけでなく、教皇ご自身にも手紙を送って注意をうながしました。その手紙のなかから、おもな所だけを抜粋しましょう。
試案の第三章21節には、司教団の統治職をペトロの統治職と混同する誤った聖書の解釈と、次の仮説が述べられていました。この仮説によれば、「司教の叙階式は、司教に聖化職を与えるとともに、教導職と統治職(支配権)を同時に与える」とうたっていました。これに対して、ラッタンツィ神父は、次のように述べています。
1)聖書解釈のまちがい
使徒たちはみな教会の「いしずえ、または、「土台」(エフェゾ2・20、黙示録21・14)であるといわれています。その「いしずえ、は、確実に福音の教え、または、福音の宣教をさしています(とくに、エフェゾ20による)。このことは、12使徒に共通の特長です。それでこれをイエズスが、「教会の岩」にされた聖ぺトロに固有な特長と混同してはなりません。
キリストご自身、これを明らかに区別しておられます。「岩の上にいしずえを置いて、家を建てる人iのたとえ(ルカ6・48)で明白なように、「岩」は、「いしずえ」と同じもの、同程度のものでなく、「いしずえ」を支えるものであることがわかります。
2)教皇ピオ11世は、教会に関する回章のなかで、使徒たちと、そのあとをつぐ司教たちが、福音宣教の点でみな同程度だといっておられますが、教会支配の点では、同程度でないと注意しておられます。
しかし、この案の支持者たちは、この教義を混同してしまったことを、ウゴ神父は指摘しています。
3)14名の歴代の教皇たちは、荘厳な文書と、他の文書のなかで、教会における支配権の直接の泉は、教皇であって、教皇は、司教たちにそれを分配するものであることを明らかに教えています。
数えきれないほどの教父、教会博士、神学者は、歴代の教皇たちの教えを支持しています。しかし、これらの人々の文献が、ちがった意味に解釈されたこともまた、残念に思いますと、こう、ラッタンツィ神父は述べています。
また、こうもいっています。るまり、この試案によれば、支配権の直接の泉は、教皇ひとりにあるのではなく、司教団にもあるということになると。
ラッタンツィ神父は、さらに進んで、この案では、教皇を司教団のかしらト認めているものの教皇は、司教団の賛成がなければ権利がないということになります。この説は、キリストから定められた教会の制度を覆していると述べています。