『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
4 ノルマン侵入でのバリの戦い
4 孤立のパリ、ひとり立つ
以上、アボンは、王の来援にいたるまで、ところどころ脱線、転倒はあったものの、一応、時の経過にそって叙述してきた。
ところが、このあたりから、叙述にまとまりがなくなってくる。
なにか、アボンの「バリの戦い」に対する情熱が、不意にうすれてしまったかのようなのだ。
王は、バリ司教座に、サン・シャルマン・ドーセール修道院長をつけた。
ついで、デーン勢と協定をむすび、「サンス地方」に進出することを彼らに許し、翌年の三月までに故国へひきあげることを条件に、七百リーブル金の支払いを約したのである。
「時は十一月、万物が凍える寒気にかじかんでいた」。
おそらく十一月初旬のことと思われる。
なぜなら王は、十二日にはメス方面に移動していたことが知られているのだから。
アポンは、この王の処断に対し、ぜんぜん批評を加えていない。
ふつう、このような優柔不断の態度ゆえに、シャルル肥満王は支持を失い、逆にバリ伯ウードの人気が高まって、やがて八八八年一月シャルルの死後、まもなく、二月、ウードがサンス大司教から西フランク国王の冠をうけたのだとされている。
だが、アボンの文章に、シャルルを非難する言葉をみつけることはできない。
むしろアボンは、「サンス地方」、すなわち「戦いに無関心なブルゴーニュ」を非難することに専念している。なお、サンスは、厳密にいうと、ブルゴーニュ地方には属さない。
だいたいが、この「ブルゴーニュ」という概念はたいへんに複雑で、一個の政治領域としてこれを説明することはきわめて困難なのである。
八四三年、シャルルマーニュの王国が、その三子に分割された時、旧ブルグンド王国領にあたる部分は、イタリアとともに長子ロタールにあたえられ、「ロタールの国(ロタリンギア)」と呼ばれた。やがて八七〇年のメルセン条約によって、この地域のほぼローヌ川以北が、東西フランクに分割された。
その西フランクに属した部分が、ここにいう「ブルゴーニュ」と考えてよいのだが、しかし、この時期に、なんらかの統一的な権力がそこに成立していたと考えることはできないのである。
まさしく、この時期に、この地域に侵入したノルマン人に対する抵抗の動きをきっかけとして、オータンの伯であった旧ブルグント王族の一員、リシャール・ル・ジュスティシェ(裁定者)が、「ブルゴーニュ候領」を建設するにいたるのである。
だから、アポンが「サンス地方」をブルゴーニュと呼んでいるのもふしぎではない。サンス司教領は、まさしくブルゴーニュの入口に位置し、事実、一時、ブルゴーニュ候領の一部に編入されたこともあった。
アボンは、西フランク王国を、フランキア、ネウストリア、ブルグンディア、アキタニアの四つに分けて考えている。
フランキアはセーヌ以北、ネウストリアはセーヌとロワールのあいだ、アキタニアはロワール以南、そして、ブルグンディア、すなわちブルゴーニュは、セーヌおよびロワール、ならびにローヌ川の上流地帯である。
そのていどの意味での「ブルゴーニュ」と考えてよい。
その「ブルゴーニュ」の豪族たちは、パリに援軍を送らなかった。
アボンの表現をかりれば、この「バリの戦い」は「ネウストリアの戦い」であり、「ブルグンディアの戦い」ではなかったということなのだろうか。
だから、アボンは、「ブルグンディアの戦い」については、たとえば、このとき、パリを越えてセーヌを遡行し、十一月の末から翌年にかけてサンスの町を攻囲したデーン勢のことについては、なにも言及していないのだろうか。
つまり、フランスはひとつではなかったということなのではないだろうか。
国王シャルルは一個のシンボルであるにすぎず、とうていノルマンの侵冦に対して有効な防衛策を統一的に構じうる権力も、威信も、もってはいなかった。
「パリの戦い」はパリの人々のものであり、「サンスの戦い」はサンスの人々のものでしかなかった。
パリは孤立していた。
同様に、サンスもまた孤立していた。
それが、ノルマン侵冦にさいしてのフランク王国の実情だったのである。
シャルル肥満王を非難してもなんの意味もない。
パリの人々は、パリ伯ウード、司教ゴズラン、あるいは勇敢な修道院長エーブルの指導のもと、聖ジェルマンの威光をいただいて戦う。
ザクセンのハインリヒや、国王シャルルが助けにきてはくれた。だが、
それも所詮(しょせん)はエピソードにすぎぬ。パリはひとり立っていた。
「恐怖の渦(うず)のただなかに、恐れず、笑って立つ」、とアボンはパリを讃(たた)えた。
この讃辞は、しかし、ただパリにのみあてられるべきものではない。
ルーアンもボルドーもサンスも、また名も知れぬ農村も、こう讃えられてしかるべきなのだ。
それぞれの土地のそれぞれの住民たちが、自己保身のために立ちあがった。
各地の司教が、有力な豪族がこれを指導した。
公権力の体系は、事実上、崩壊していた。
ノルマンの侵冦に対する防災は、城塞を核とする小単位でなされた。
そこに成立する新しい地方権力と生活共同体が、中世封建社会の基本単位となった。
孤立するパリの運命は、解体するフランク王国の姿を映していた。
だが、同時にそれは、新しい秩序の形成を未来に投影していたのである。
4 ノルマン侵入でのバリの戦い
4 孤立のパリ、ひとり立つ
以上、アボンは、王の来援にいたるまで、ところどころ脱線、転倒はあったものの、一応、時の経過にそって叙述してきた。
ところが、このあたりから、叙述にまとまりがなくなってくる。
なにか、アボンの「バリの戦い」に対する情熱が、不意にうすれてしまったかのようなのだ。
王は、バリ司教座に、サン・シャルマン・ドーセール修道院長をつけた。
ついで、デーン勢と協定をむすび、「サンス地方」に進出することを彼らに許し、翌年の三月までに故国へひきあげることを条件に、七百リーブル金の支払いを約したのである。
「時は十一月、万物が凍える寒気にかじかんでいた」。
おそらく十一月初旬のことと思われる。
なぜなら王は、十二日にはメス方面に移動していたことが知られているのだから。
アポンは、この王の処断に対し、ぜんぜん批評を加えていない。
ふつう、このような優柔不断の態度ゆえに、シャルル肥満王は支持を失い、逆にバリ伯ウードの人気が高まって、やがて八八八年一月シャルルの死後、まもなく、二月、ウードがサンス大司教から西フランク国王の冠をうけたのだとされている。
だが、アボンの文章に、シャルルを非難する言葉をみつけることはできない。
むしろアボンは、「サンス地方」、すなわち「戦いに無関心なブルゴーニュ」を非難することに専念している。なお、サンスは、厳密にいうと、ブルゴーニュ地方には属さない。
だいたいが、この「ブルゴーニュ」という概念はたいへんに複雑で、一個の政治領域としてこれを説明することはきわめて困難なのである。
八四三年、シャルルマーニュの王国が、その三子に分割された時、旧ブルグンド王国領にあたる部分は、イタリアとともに長子ロタールにあたえられ、「ロタールの国(ロタリンギア)」と呼ばれた。やがて八七〇年のメルセン条約によって、この地域のほぼローヌ川以北が、東西フランクに分割された。
その西フランクに属した部分が、ここにいう「ブルゴーニュ」と考えてよいのだが、しかし、この時期に、なんらかの統一的な権力がそこに成立していたと考えることはできないのである。
まさしく、この時期に、この地域に侵入したノルマン人に対する抵抗の動きをきっかけとして、オータンの伯であった旧ブルグント王族の一員、リシャール・ル・ジュスティシェ(裁定者)が、「ブルゴーニュ候領」を建設するにいたるのである。
だから、アポンが「サンス地方」をブルゴーニュと呼んでいるのもふしぎではない。サンス司教領は、まさしくブルゴーニュの入口に位置し、事実、一時、ブルゴーニュ候領の一部に編入されたこともあった。
アボンは、西フランク王国を、フランキア、ネウストリア、ブルグンディア、アキタニアの四つに分けて考えている。
フランキアはセーヌ以北、ネウストリアはセーヌとロワールのあいだ、アキタニアはロワール以南、そして、ブルグンディア、すなわちブルゴーニュは、セーヌおよびロワール、ならびにローヌ川の上流地帯である。
そのていどの意味での「ブルゴーニュ」と考えてよい。
その「ブルゴーニュ」の豪族たちは、パリに援軍を送らなかった。
アボンの表現をかりれば、この「バリの戦い」は「ネウストリアの戦い」であり、「ブルグンディアの戦い」ではなかったということなのだろうか。
だから、アボンは、「ブルグンディアの戦い」については、たとえば、このとき、パリを越えてセーヌを遡行し、十一月の末から翌年にかけてサンスの町を攻囲したデーン勢のことについては、なにも言及していないのだろうか。
つまり、フランスはひとつではなかったということなのではないだろうか。
国王シャルルは一個のシンボルであるにすぎず、とうていノルマンの侵冦に対して有効な防衛策を統一的に構じうる権力も、威信も、もってはいなかった。
「パリの戦い」はパリの人々のものであり、「サンスの戦い」はサンスの人々のものでしかなかった。
パリは孤立していた。
同様に、サンスもまた孤立していた。
それが、ノルマン侵冦にさいしてのフランク王国の実情だったのである。
シャルル肥満王を非難してもなんの意味もない。
パリの人々は、パリ伯ウード、司教ゴズラン、あるいは勇敢な修道院長エーブルの指導のもと、聖ジェルマンの威光をいただいて戦う。
ザクセンのハインリヒや、国王シャルルが助けにきてはくれた。だが、
それも所詮(しょせん)はエピソードにすぎぬ。パリはひとり立っていた。
「恐怖の渦(うず)のただなかに、恐れず、笑って立つ」、とアボンはパリを讃(たた)えた。
この讃辞は、しかし、ただパリにのみあてられるべきものではない。
ルーアンもボルドーもサンスも、また名も知れぬ農村も、こう讃えられてしかるべきなのだ。
それぞれの土地のそれぞれの住民たちが、自己保身のために立ちあがった。
各地の司教が、有力な豪族がこれを指導した。
公権力の体系は、事実上、崩壊していた。
ノルマンの侵冦に対する防災は、城塞を核とする小単位でなされた。
そこに成立する新しい地方権力と生活共同体が、中世封建社会の基本単位となった。
孤立するパリの運命は、解体するフランク王国の姿を映していた。
だが、同時にそれは、新しい秩序の形成を未来に投影していたのである。