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『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
13 開元と天宝
4 楊貴妃(ようきひ)
玄宗には即位の前から王氏という妃(きさき)があり、即位とともにそれが王皇后となった。
しかし子供がなく、玄宗の愛情は武氏一族の武恵妃(ぶけいひ)にそそがれる。
その間に生まれたのが寿王瑁(じゅおうぼう)であった。
やがて開元十二年(七二四)、王皇后は子供ほしさから、禁ぜられていたまじないをおこない、それがあらわれて廃された。
いまや玄宗の愛は、武恵妃ひとりにそそがれる。その武恵妃も開元二十五年に世を去った。
かくて失意の淵(ふち)におちた玄宗の目にとまったのが、寿王瑁の妃の楊氏であった。
しかし、いくら皇帝でも、むすこの嫁をそのまま横どりすることはできない。ひとまず彼女を道観に入れて女道士とし、太真(たいしん)となのらせた。
そうして寿王とわかれさせ、天宝四載(七四五)には正式に楊太真を貴妃としてしまった。
貴妃とは皇帝の妃の最高位である。ときに玄宗は六十一歳、楊貴妃は二十七歳であった。
楊貴妃が美人であったことは、いうまでもない。それは白楽天の「長恨歌」をはじめ小説類にいたるまで喧伝されている。
からだつきは豊満なタイプで、歌舞がうまく、音律に通じていた。
そのうえ聡明で、目と口がすばらしく、動作は魅力にあふれ、これがすべて玄宗のこのみにあった。
みずから音楽に精通していた玄宗は、趣味のうえでもぴったりしたのであろう。
すでに玄宗は在位三十四年にもおよび、年とともに政務にもあきてきている。
これからは楊貴妃との愛情生活にふけるばかりであった。
さて白楽天の「長恨歌」にいう。
天成麗質難自棄
一朝選在君王側
廻眸一笑百媚生
六宮粉黛顔色
春寒賜浴華清池
温泉水滑洗凝脂
侍児扶起嬌無力
始是新承恩沢時
雲鬢花顔金歩揺
芙蓉帳暖度春宵
春宵苦短日高起
従此君王不早朝 天成の麗質はおのずから棄(す)てがたく
一朝えらばれて君王のかたわらにあり
ひとみをめぐらして ひとたび笑(え)めば 百媚(び)うまれ
六宮(りくきゅう=天子の御殿)の粉黛(ふんたい=おしろい、まゆずみで化粧した美人たち)も顔色なし
春寒(さむ)くして浴(よく)をたもう 華清の池(長安の郊外にある離宮の温泉)
温泉の水になめらかにして凝脂(かたまった脂肪、美人の肌をさす)にそそぐ
侍児たすけおこせども嬌(きょう)として(あでやかなさま)力なし
はじめて是(こ)れ あらたに恩沢(おんたく)をうくるのとき
雲鬢(雲のような びん)花顔(花のような かお) 金歩揺(黄金のかんざし)
芙蓉(ハスの花のかざりがある)の帳(とばり)は暖(あたた)かきにして春の宵(よい)をすごす
春の宵の短きに苦しみ 日高くして起き
これより君王は早朝せず
これらの表現、玄宗と楊貴妃とのあいだを描写したものは、相当の真実をつたえたものであろう。
楊貴妃をえてからの玄宗は、たしかに変わった。
ついに夜のみじかいのを嘆いて、朝も早くからは朝堂に出ない。
そもそも皇帝は、日の出の時間には朝堂に出て、大臣たちを召し、政務をきくのが勤めであった。
唐代では、日の出とともに一日の仕事が始まる。役人たちは日の出の時間には出仕していたのである。
楊貴妃への寵愛は、その身ひとりにあたえられただけではない。
三人の姉たちは、いずれも国夫人(こくふじん)として、大名の待遇をたまわったし、兄弟も一族も、それぞれ栄光の地位についた。
なかでも羽ぶりをきかしたのは、楊国忠である。
楊国忠は、もとの名を釗(しょう)というし貴妃とは、ふたいとこの間柄であった(曾祖父をおなじくする)。
わかいころの釗は、素行おさまらず、一族から爪(つま)はじきにされていたが、発憤して蜀(四川省)へゆき、そこで楊貴妃の家に出入りして、貴妃と知りあった。
天宝の初年、楊貴妃をたよって長安に出る。たちまち高官に抜擢(ばってき)され、そのころ全盛をほこっていた李林甫に接近した。
そこで財政の面において成績をあげ、玄宗の信任をえる。
天宝九載(七五〇)には、玄宗から国忠の名をたまわった。
ところで「長恨歌」は、このあたりのことをつぎのようにえがく。
姉妹弟兄皆列土
可憐光彩生門戸
遂令天下父母心
不重生男重生女 姉妹(しまい)弟兄(ていけい)は みな土(くに)をつらね
あわれむべし(おどろくべきこと) 光彩に門戸に生ずるを
ついに天下の父母の心をして
男を生むを重んぜず 女を生むを重んぜしむ
13 開元と天宝
4 楊貴妃(ようきひ)
玄宗には即位の前から王氏という妃(きさき)があり、即位とともにそれが王皇后となった。
しかし子供がなく、玄宗の愛情は武氏一族の武恵妃(ぶけいひ)にそそがれる。
その間に生まれたのが寿王瑁(じゅおうぼう)であった。
やがて開元十二年(七二四)、王皇后は子供ほしさから、禁ぜられていたまじないをおこない、それがあらわれて廃された。
いまや玄宗の愛は、武恵妃ひとりにそそがれる。その武恵妃も開元二十五年に世を去った。
かくて失意の淵(ふち)におちた玄宗の目にとまったのが、寿王瑁の妃の楊氏であった。
しかし、いくら皇帝でも、むすこの嫁をそのまま横どりすることはできない。ひとまず彼女を道観に入れて女道士とし、太真(たいしん)となのらせた。
そうして寿王とわかれさせ、天宝四載(七四五)には正式に楊太真を貴妃としてしまった。
貴妃とは皇帝の妃の最高位である。ときに玄宗は六十一歳、楊貴妃は二十七歳であった。
楊貴妃が美人であったことは、いうまでもない。それは白楽天の「長恨歌」をはじめ小説類にいたるまで喧伝されている。
からだつきは豊満なタイプで、歌舞がうまく、音律に通じていた。
そのうえ聡明で、目と口がすばらしく、動作は魅力にあふれ、これがすべて玄宗のこのみにあった。
みずから音楽に精通していた玄宗は、趣味のうえでもぴったりしたのであろう。
すでに玄宗は在位三十四年にもおよび、年とともに政務にもあきてきている。
これからは楊貴妃との愛情生活にふけるばかりであった。
さて白楽天の「長恨歌」にいう。
天成麗質難自棄
一朝選在君王側
廻眸一笑百媚生
六宮粉黛顔色
春寒賜浴華清池
温泉水滑洗凝脂
侍児扶起嬌無力
始是新承恩沢時
雲鬢花顔金歩揺
芙蓉帳暖度春宵
春宵苦短日高起
従此君王不早朝 天成の麗質はおのずから棄(す)てがたく
一朝えらばれて君王のかたわらにあり
ひとみをめぐらして ひとたび笑(え)めば 百媚(び)うまれ
六宮(りくきゅう=天子の御殿)の粉黛(ふんたい=おしろい、まゆずみで化粧した美人たち)も顔色なし
春寒(さむ)くして浴(よく)をたもう 華清の池(長安の郊外にある離宮の温泉)
温泉の水になめらかにして凝脂(かたまった脂肪、美人の肌をさす)にそそぐ
侍児たすけおこせども嬌(きょう)として(あでやかなさま)力なし
はじめて是(こ)れ あらたに恩沢(おんたく)をうくるのとき
雲鬢(雲のような びん)花顔(花のような かお) 金歩揺(黄金のかんざし)
芙蓉(ハスの花のかざりがある)の帳(とばり)は暖(あたた)かきにして春の宵(よい)をすごす
春の宵の短きに苦しみ 日高くして起き
これより君王は早朝せず
これらの表現、玄宗と楊貴妃とのあいだを描写したものは、相当の真実をつたえたものであろう。
楊貴妃をえてからの玄宗は、たしかに変わった。
ついに夜のみじかいのを嘆いて、朝も早くからは朝堂に出ない。
そもそも皇帝は、日の出の時間には朝堂に出て、大臣たちを召し、政務をきくのが勤めであった。
唐代では、日の出とともに一日の仕事が始まる。役人たちは日の出の時間には出仕していたのである。
楊貴妃への寵愛は、その身ひとりにあたえられただけではない。
三人の姉たちは、いずれも国夫人(こくふじん)として、大名の待遇をたまわったし、兄弟も一族も、それぞれ栄光の地位についた。
なかでも羽ぶりをきかしたのは、楊国忠である。
楊国忠は、もとの名を釗(しょう)というし貴妃とは、ふたいとこの間柄であった(曾祖父をおなじくする)。
わかいころの釗は、素行おさまらず、一族から爪(つま)はじきにされていたが、発憤して蜀(四川省)へゆき、そこで楊貴妃の家に出入りして、貴妃と知りあった。
天宝の初年、楊貴妃をたよって長安に出る。たちまち高官に抜擢(ばってき)され、そのころ全盛をほこっていた李林甫に接近した。
そこで財政の面において成績をあげ、玄宗の信任をえる。
天宝九載(七五〇)には、玄宗から国忠の名をたまわった。
ところで「長恨歌」は、このあたりのことをつぎのようにえがく。
姉妹弟兄皆列土
可憐光彩生門戸
遂令天下父母心
不重生男重生女 姉妹(しまい)弟兄(ていけい)は みな土(くに)をつらね
あわれむべし(おどろくべきこと) 光彩に門戸に生ずるを
ついに天下の父母の心をして
男を生むを重んぜず 女を生むを重んぜしむ