康熙帝 幼少時
『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
10 大清帝国の完成
4 苦肉の密建
「なにが治めにくいといっても、漢人ほど治めにくいものはない。」
康煕(こうき)帝の六十一年にわたる治世は、中国の歴代王朝にもその例をみず、中国第一の名君とまでたたえられた。その康煕帝が、こう言ったという。
それが事実であるかどうかは別として、そのように伝えられるほど、漢人の統治に意をそそいだということであろう。
しかし、漢人の農耕社会の統治者として努力することは、名実ともに、中国の皇帝となることを指向するものともいえる。その場合、はたして困難な問題は、どこにあるか。
意外にも、その困難は、支配する満州民族そのもののなかにも存在していたのである。その好例が、後継者をめぐる争いにあった。
もともと満州民族は、ハンの後継者を生前に決めるという、中国流にいえば皇太子の制にあたるものはない。
太宗は、ヌルハチの死後、兄弟たちから推戴されたものであるし、順治帝や康煕帝も、その例にもれない。
ただ両人とも幼少で、順治帝の場合はドルゴンが、これを利用して権力をふるい、康熈帝の場合はオボイが権力をふるうという一幕があった。
幼帝をいただいて政治を左右し、競争あいてを残忍な手段をもちいておとしいれるというやりかたは、王朝国家にしばしばみられるところであり、北方民族に属する清朝だけの特色ではない。
さて康熈帝は、この満州民族における在来の方法をやめ、中国流の皇太子制をとろうとした。
いわば相続法の漢化策である。漢人の社会を統治するには、それが適切と考えたのであろう。
しかし康熈帝の考えは、あまりにも漢人のみを考え、満州族独自の風習をわすれたものであった。
結果は、裏目にでた。
康煕帝の長子(允禔=いんし)は、正后の子ではない。
そこで帝は、正后の子の允礽(いんじょう)を皇太子にたてた。
中国流の相続法で考えれば、正当な方法である。
しかし満州族の風習では、まさに型やぶりとなる。
各旗に配された皇太子の兄弟たちや、それをかつごうとする旗人たちは、おだやかではない。
あわよくば皇太子をおとしいれて、自分たちが皇太子になろうとねらう。
皇太子は皇太子で、はやく皇帝になりたいとあせるようになる。
そのためには父の皇帝が邪魔になる。皇帝になりたいために、父(文帝)を殺した隋の煬帝の例が念頭に去来する。
康煕帝は、皇太子問題が、みずからの生命をおびやかすまでにいたったことを知って、愕然(がくぜん)とした。
ついに皇太子を発狂の名目で廃する策をとる。好機いたれりとばかりに兄弟たちは、かわって皇太子たらんとして、党派をつくり、策をろうして、みにくい競争をはじめた。
ここで、皇太子になれなかった長子の允禔(いんし)が、ただちに第八子の允禩(いんし)を皇太子に立てるよう進言した。
帝はいぶかった。およそ兄弟のなかで、皇太子たるにふさわしくない允禩を、なぜ長子は推薦したのか。
これには何か、わけがあるにちがいない。
とすると廃した皇太子は、なにものかにおどらされているのではないか。疑念は疑念をうんだ。
康煕帝は、真相をただした。はたして、そこには皇太子になれなかった允禔の策謀があった。
かれは、モンゴルのラマ僧をあやつり、皇太子をまどわせていたという。
帝は、皇太子を決定しておかねば、内争になると考え、ふたたび允礽(いんじょう)を皇太子とした。
しかし、もはや允礽の態度は、もとにかえらなかった。
帝は、ついに立太子を断念し、允礽をふたたび廃してしまった。
帝の猜疑(さいぎ)心は強くなり、立太子問題を庠言するものがあれば、策謀の徒党ときめつけ、処罪するようになったという。
漢人への対策に意をもちいるあまり、かえって足もとに火がついたわけであった。
漢化策は、特機尚早というべきであろうか。
けっきょく、康煕帝は後継者を決定することなく、世を去った。
臨終の際、そばにいたロンコドなる者が策をろうし、遺言と称して第四子の允禛(いんしん)を後継者と発表した。
五代の世宗雍正(ようせい)帝がここに登場する。なにをかくそう、帝の母こそロンコドの妹であった。
即位の年(一七二二)、雍正帝は四十四歳であった。壮年の皇帝たる雍正帝は、これまでの幼帝とはちがう。
一族のみにくい争いの裏の裏を知り、権臣の横暴を知る皇帝であった。
それだけに非情であり、一族や権臣の策謀をおさえて、独裁権の確立を迅速にすすめた。
帝は、立太子問題の前例にこりて、新しい方法を発案した。
玉座の背後には、順治帝の筆で「正大光明」と書いた額がかかげられている。
そこで在位中に、意中の皇子の名をひそかに記し、この額のうしろに、密封した箱に入れて置く。箱は、皇帝の死後に開封され、後継者の名がよみあげられるしくみである。
この方法は、いっぱんに儲位(ちょい=帝位継承者の意)密建の法といわれる。
すなわち皇帝の在位するうちは後継者の名を秘密にしておくというもので、こののちも受けつがれた。
皇太子をめぐる策謀をたちきり、かつ皇帝が死んだのち、兄弟あい争う弊をふせぐためにと考えだした、壮年皇帝らしい方法といえよう。
「ものごとすべて秘密が第一」。雍正帝が即位の年までの経験からえた一つの結論は、これであったのかも知れない。
(雍正帝)
そこにはおきまりの監察スパイ網がしかれるが、それだけではなかった。
異国の地に本拠をおく清朝の一つの支えは、強力な軍事力にある。
その行動は、極秘を必要とする。そこで設けられたものが、軍需房であった。
用心ぶかい雍正帝は、西北ジュンガルの征討を機に、軍事機密を保持する意図から、軍雷房を設置したものである。
これこそ、やがて軍事上と政治上の最高機関と化した軍機処の前身であり、中国の歴代王朝に例をみぬ、独自の機関であった。
雍正帝の秘密主義は、皇帝の独裁をささえる暗い権力の恐怖を象徴する。