シャルル・ダンジュー領とアラゴン王領
『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
9 シチリアの晩祷
6 事件のあと
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アラゴン王ペドロは、九月二日、パレルモに入り、市政府からシチリア王の冠をうけた。
シャルルはペドロとの決戦を避け、カラブリアのレッジオにひきあげた。
ペドロは、十月二日、メッシナに入った。
これで終わりであった。
これまで、シチリア問題を起動ばねに、かみあって動いていた歯車仕掛けは解体した。
ビザンティンのミカエルは、危機が去ったいま、もはや西方にはなんの関心も示さない。
彼は、十二月に、生涯の事業に満足して死んでいった。
ペドロにしても、さらにその目をビザンティン帝国、あるいは神聖ローマ帝国に向けていたわけではない。
だいいち、シチリア征服を財政的に支えたバルセロナ、ナルボンヌの商人たちは、王がこれ以上、冒険することをゆるさなかった。
シチリアを王妃コンスタンスの名において領有し、地中海交易路をイベリア半島東岸の諸都市のために確保することが王の役割であった。
彼らは、そうはっきりと割り切っていた。
北イタリア諸都市にしても同様であった。
ジェノバは、たしかに、シャルルとベネツィアの連合が東部地中海を支配することを恐れて、これをじゃまする側についた。
それだけのはなしである。
その危険が去ったいまは、ジェノバはジェノバ独自の路線をたどる。
ベネツィアは、シャルルの利用価値にみきりをつけた。
教皇だけは、あいかわらず、歯車をまわしている気でいた。
東西教会の合体という崇高な目的のために異端のビザンティン帝国を征し、聖地イェルサレムを異教徒の手からとりもどす使命を、教皇マルティヌスはシャルル・ダンジューにあたえた。
「なぜ教会の忠実な子シャルルを害するのか。シャルルを害するものには破門の劫罰(ごうばつ)をあたえよう。
十字軍をさしむけよう」。
これが教皇マルティヌスのはなはだ単純明快な反応であった。
もちろん、これには、イタリアにおける教皇領の保全をシャルルにたよろうという計算がはたらいていたのである。
シャルルは一応、この教皇の路線にのって動いた。
この年の暮れ、彼はベドロに対し、一対一の決闘を申し入れた。
ペドロはこれをうけいれ、決闘は明年六月一日、両者それぞれ百名の戦士をしたがえて、ボルドーで行なうという協定が成立した。
ボルドーは当時イギリス領であった。
だからこの協定には、中立地域でという含みがあったのである。
年が明けて一二八三年の一月、シャルルは、南イタリアを息子のシャルル・ド・サレルノにまかせてレッジオをたち、パリに向かった。
ペドロのほうは二月、海峡を渡って、シャルル・ド・サレルノが兵をひきあげたレッジオを占領したのち、四月、メッシナに帰り、本国から妃コンスタンスを呼びよせてシチリア島をまかせ、五月、本国への帰国の途についたのである。
ボルドーでの決闘のことは、みかたによっては茶番狂言に終わった。
どういうわけだが、時刻を指定していなかったものだから、美しく飾りたてたシャルルの一行と、それとの対照をねらってか、供廻(ともまわ)りも質素なペドロの一隊とは、それぞれちがった時刻に会場に姿をあらわし、たがいに相手の不参加を理由に勝利を宣言しあう、という結末になったのである。
しかし、これを茶番狂言、ないしは裏になにかをかくしての策略とみることはできないと思う。
たしかに、これがシャルルに時をかせがせたとはいえるかもしれない。
ペドロにしても、シャルルの誘いに応じたのは、シャルルと同様、争いを手持ちの軍勢で即決するのは危険であると考えてのことであったといえるかもしれない。
だが、決闘は神の直接の裁定をもとめる法行為であるという考えかたは、なお強くこの時代の法生活を支配していたのである。
だからこそ、教皇は、神の代理人である教皇の裁定をさしおいて、直接神の裁きをもとめるものとして、この決闘を禁止しようとやっきになったのである。
聖主ルイの、そしてシャルル・ダンジューの、その他多くの君侯の聖地十字軍計画は、なお真摯(しんし)な信心にもとづいていたと考えられる。
してみれば、シチリア問題の解決を決闘にもとめようとしたシャルルとペドロの気持ちもまた、じゅうぶん理解されるというものではないだろうか。
この決闘さわぎのあと、一二八三年は、双方のにらみあいのうちにすぎた。
教皇は、八月、特使をフランスに送り、アラゴン王の冠をフィリップ三世の末子、バロア伯シャルルにさしだして、アラゴンに対する十字軍を要請した。
すでに三月に、教皇はペドロのアラゴン王位を否認していたのである。
アラゴンはもともとローマ教皇を宗主としていたから、このときの教皇の処断は、あながち無法とはいえない。
しかし、キリスト教徒の王国に対する十字軍とはなんということだろう。
異端ならばまだしも、アラゴン教会はローマ教会の忠実な分枝であったのである。
フランス宮廷ではおおいに反対の声があがった。
だがフィリップ三世は、本来ならばローマ教皇庁におくられるはずのフランス教会の十分の一税の収入を王庫にゆずろうという条件に魅せられ、また、プロバンスヘのアラゴンの進出をくいとめる機会にもなりうると考えて、翌年二月、教皇の提案をうけいれると宣言したのである。
一方、シチリアのアラゴン海軍は、提督ロジェール・ロリアの指揮のもとに、南イタリアの海岸を荒らしまわっていた。
一二八四年五月には、ナポリ港を占拠し、当時ナポリにいたシャルル・ド・サレルノに匕首(あいくち)をつきつけるかたちになった。
その月の終わり、プロバンスにいたシャルルは、ようやく行動をおこした。
ところが、シャルルの艦隊がまだ南イタリアへの途上にあるとき、ナポリのシャルルは、ロジェール・ロリアの挑発にのってナポリ港外で戦い、大打撃をうけ、シャルル・ド・サレルノ自身捕虜になってしまった。
ナポリでは、反シャルルの暴動が起こり、シャルル・ダンジューの南イタリア支配の基礎は大きくゆらいだ。
それでもシャルルは、ナポリの暴動を鎖圧したのち、六月の末には、年代記家のおおげさな言を信じれば、一万の騎兵をひきいてナポリをたち、七月末には、レッジオを包囲する態勢をとりながら、シチリア島への接近を試みたのであった。またしても、ロジェール・ロリアはその有能ぶりを発揮した。
メッシナの港に封じこめられたはずのロリアが、嵐を利用して包囲陣をやぶり、対岸カトナに陣どったシャルルを、その機動力をもって、さんざんに苦しめたのである。
このため、シャルルはついにシチリア奪回をあきらめ、八月に入って、兵をかえした。
シャルルはついにカラブリアを全面的に放棄した。
彼は翌年の春、アラゴン十字軍の発向と時をあわせて、再度シチリア奪回を試みると声明したが、おそらく彼自身その不可能を予感していたにちがいない。
その年の後半を、彼はアプリアですごした。
ナポリとかわり、アドリア海岸のブリンディジが、彼を外界につなぐ門となった。
冬の十二月、彼はフォッジオにおもむき、そこで病をえて、一二八五年一月七日、世を去った。
臨終(りんじゅう)の言葉に、彼は神のゆるしを乞いもとめ、シチリア王国の経営は聖教会の栄光に資せんがためであった。
私心あってのことではなかった、と神に誓言したと言い、その三ヵ月後、教皇マルティヌスもまた、不名誉と多大の借財を残してみまかった。
アラゴン十字軍は、次代教皇ホノリウス三世によって行なわれ、フランス軍の惨憺(さんたん)たる敗北に終わり、フィリップ三世もまた、十月、ビレネー山麓(さんろく)のペルピニャンに没した。
さらにまた、一ヵ月おくれて、ベドロもまた世を去った。
こうして、大いなるドラマ「シチリアの晩祷(ばんとう)」の演技者は、すべて、同年のうちに舞台から姿を消したのである。
『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
9 シチリアの晩祷
6 事件のあと
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アラゴン王ペドロは、九月二日、パレルモに入り、市政府からシチリア王の冠をうけた。
シャルルはペドロとの決戦を避け、カラブリアのレッジオにひきあげた。
ペドロは、十月二日、メッシナに入った。
これで終わりであった。
これまで、シチリア問題を起動ばねに、かみあって動いていた歯車仕掛けは解体した。
ビザンティンのミカエルは、危機が去ったいま、もはや西方にはなんの関心も示さない。
彼は、十二月に、生涯の事業に満足して死んでいった。
ペドロにしても、さらにその目をビザンティン帝国、あるいは神聖ローマ帝国に向けていたわけではない。
だいいち、シチリア征服を財政的に支えたバルセロナ、ナルボンヌの商人たちは、王がこれ以上、冒険することをゆるさなかった。
シチリアを王妃コンスタンスの名において領有し、地中海交易路をイベリア半島東岸の諸都市のために確保することが王の役割であった。
彼らは、そうはっきりと割り切っていた。
北イタリア諸都市にしても同様であった。
ジェノバは、たしかに、シャルルとベネツィアの連合が東部地中海を支配することを恐れて、これをじゃまする側についた。
それだけのはなしである。
その危険が去ったいまは、ジェノバはジェノバ独自の路線をたどる。
ベネツィアは、シャルルの利用価値にみきりをつけた。
教皇だけは、あいかわらず、歯車をまわしている気でいた。
東西教会の合体という崇高な目的のために異端のビザンティン帝国を征し、聖地イェルサレムを異教徒の手からとりもどす使命を、教皇マルティヌスはシャルル・ダンジューにあたえた。
「なぜ教会の忠実な子シャルルを害するのか。シャルルを害するものには破門の劫罰(ごうばつ)をあたえよう。
十字軍をさしむけよう」。
これが教皇マルティヌスのはなはだ単純明快な反応であった。
もちろん、これには、イタリアにおける教皇領の保全をシャルルにたよろうという計算がはたらいていたのである。
シャルルは一応、この教皇の路線にのって動いた。
この年の暮れ、彼はベドロに対し、一対一の決闘を申し入れた。
ペドロはこれをうけいれ、決闘は明年六月一日、両者それぞれ百名の戦士をしたがえて、ボルドーで行なうという協定が成立した。
ボルドーは当時イギリス領であった。
だからこの協定には、中立地域でという含みがあったのである。
年が明けて一二八三年の一月、シャルルは、南イタリアを息子のシャルル・ド・サレルノにまかせてレッジオをたち、パリに向かった。
ペドロのほうは二月、海峡を渡って、シャルル・ド・サレルノが兵をひきあげたレッジオを占領したのち、四月、メッシナに帰り、本国から妃コンスタンスを呼びよせてシチリア島をまかせ、五月、本国への帰国の途についたのである。
ボルドーでの決闘のことは、みかたによっては茶番狂言に終わった。
どういうわけだが、時刻を指定していなかったものだから、美しく飾りたてたシャルルの一行と、それとの対照をねらってか、供廻(ともまわ)りも質素なペドロの一隊とは、それぞれちがった時刻に会場に姿をあらわし、たがいに相手の不参加を理由に勝利を宣言しあう、という結末になったのである。
しかし、これを茶番狂言、ないしは裏になにかをかくしての策略とみることはできないと思う。
たしかに、これがシャルルに時をかせがせたとはいえるかもしれない。
ペドロにしても、シャルルの誘いに応じたのは、シャルルと同様、争いを手持ちの軍勢で即決するのは危険であると考えてのことであったといえるかもしれない。
だが、決闘は神の直接の裁定をもとめる法行為であるという考えかたは、なお強くこの時代の法生活を支配していたのである。
だからこそ、教皇は、神の代理人である教皇の裁定をさしおいて、直接神の裁きをもとめるものとして、この決闘を禁止しようとやっきになったのである。
聖主ルイの、そしてシャルル・ダンジューの、その他多くの君侯の聖地十字軍計画は、なお真摯(しんし)な信心にもとづいていたと考えられる。
してみれば、シチリア問題の解決を決闘にもとめようとしたシャルルとペドロの気持ちもまた、じゅうぶん理解されるというものではないだろうか。
この決闘さわぎのあと、一二八三年は、双方のにらみあいのうちにすぎた。
教皇は、八月、特使をフランスに送り、アラゴン王の冠をフィリップ三世の末子、バロア伯シャルルにさしだして、アラゴンに対する十字軍を要請した。
すでに三月に、教皇はペドロのアラゴン王位を否認していたのである。
アラゴンはもともとローマ教皇を宗主としていたから、このときの教皇の処断は、あながち無法とはいえない。
しかし、キリスト教徒の王国に対する十字軍とはなんということだろう。
異端ならばまだしも、アラゴン教会はローマ教会の忠実な分枝であったのである。
フランス宮廷ではおおいに反対の声があがった。
だがフィリップ三世は、本来ならばローマ教皇庁におくられるはずのフランス教会の十分の一税の収入を王庫にゆずろうという条件に魅せられ、また、プロバンスヘのアラゴンの進出をくいとめる機会にもなりうると考えて、翌年二月、教皇の提案をうけいれると宣言したのである。
一方、シチリアのアラゴン海軍は、提督ロジェール・ロリアの指揮のもとに、南イタリアの海岸を荒らしまわっていた。
一二八四年五月には、ナポリ港を占拠し、当時ナポリにいたシャルル・ド・サレルノに匕首(あいくち)をつきつけるかたちになった。
その月の終わり、プロバンスにいたシャルルは、ようやく行動をおこした。
ところが、シャルルの艦隊がまだ南イタリアへの途上にあるとき、ナポリのシャルルは、ロジェール・ロリアの挑発にのってナポリ港外で戦い、大打撃をうけ、シャルル・ド・サレルノ自身捕虜になってしまった。
ナポリでは、反シャルルの暴動が起こり、シャルル・ダンジューの南イタリア支配の基礎は大きくゆらいだ。
それでもシャルルは、ナポリの暴動を鎖圧したのち、六月の末には、年代記家のおおげさな言を信じれば、一万の騎兵をひきいてナポリをたち、七月末には、レッジオを包囲する態勢をとりながら、シチリア島への接近を試みたのであった。またしても、ロジェール・ロリアはその有能ぶりを発揮した。
メッシナの港に封じこめられたはずのロリアが、嵐を利用して包囲陣をやぶり、対岸カトナに陣どったシャルルを、その機動力をもって、さんざんに苦しめたのである。
このため、シャルルはついにシチリア奪回をあきらめ、八月に入って、兵をかえした。
シャルルはついにカラブリアを全面的に放棄した。
彼は翌年の春、アラゴン十字軍の発向と時をあわせて、再度シチリア奪回を試みると声明したが、おそらく彼自身その不可能を予感していたにちがいない。
その年の後半を、彼はアプリアですごした。
ナポリとかわり、アドリア海岸のブリンディジが、彼を外界につなぐ門となった。
冬の十二月、彼はフォッジオにおもむき、そこで病をえて、一二八五年一月七日、世を去った。
臨終(りんじゅう)の言葉に、彼は神のゆるしを乞いもとめ、シチリア王国の経営は聖教会の栄光に資せんがためであった。
私心あってのことではなかった、と神に誓言したと言い、その三ヵ月後、教皇マルティヌスもまた、不名誉と多大の借財を残してみまかった。
アラゴン十字軍は、次代教皇ホノリウス三世によって行なわれ、フランス軍の惨憺(さんたん)たる敗北に終わり、フィリップ三世もまた、十月、ビレネー山麓(さんろく)のペルピニャンに没した。
さらにまた、一ヵ月おくれて、ベドロもまた世を去った。
こうして、大いなるドラマ「シチリアの晩祷(ばんとう)」の演技者は、すべて、同年のうちに舞台から姿を消したのである。