『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
6 銀をめぐる波紋
1 絹の道は海
「絹の道(シルク・ロード)」、東西の陸上交易路につけられたこの名は、なぜかロマンチックな連想の世界に人びとの心をさそう。
中央アジア、オアシス、砂漠、隊商、ラクダと、連想はつきない。
日本ほど、この名がもてはやされている国は、世界のどこにもないであろう。
月の砂漠がそうさせたのか、オアシスか、あるいは日本の絹が世界に名をはせた郷愁か。
いずれにせよ、絹の道と中央アジアは、たちきれぬきずなをもって今に生きる。
しかし歴史の事実は、無情にも人びとの連想をうちくだく。
西域とよばれた中央アジアが絹の道でありえたのは、漢・唐の昔にすぎない。
唐末からのち、絹の貿易は海の道にうつりはじめた。
南海を往来するイスラム商人たちが、その主役である。
それにともない、中国の王朝が西域を経営しようとする熱もうすれた。
もはや、その地はトルキスタンの名がしめすように、トルコ民族の拠地となり、トルコ化しはじめていた。
十九世紀の末からヨーロッパの学者によってひろく紹介されるようになった「絹の道」であるが、その名にふさわしい絹の交易は、すでに早く、陸路から姿を消しはじめていたのであった。
モンゴル帝国が成立すると、駅伝の完備によって、陸路の往来はふたたび活発となったが、長くはつづかなかった。
元朝が成立するときのはげしい内争は、陸路の駅伝を荒廃させ、海路の交易をますますさかんにした。
もはや「絹の道は海」というにふさわしい時代の展開を示したのである。
江南の海港は、異国の船でにぎわった。諸国の珍宝をつんで入港する船は、中国から絹や陶器や銅銭などをつんで、ふたたび南方洋上に姿をけしてゆく。
福建の泉州は、当時、もっとも栄えた海港であった。
世界第一の海港「ザイトン」の名で西方に紹介された海港(マルコ・ポーロによる)こそ、この泉州にほかならなかった。いまはさびれた地方の一都市と化し、昔のおもかげはない。付近にのこる異教徒の寺院や墓地などの遺跡は、当時における異国人の往来と居住をものがたり、おとずれる人びとに、往時の繁栄をしのばせる。
「板きれ一枚といえども、海に入れるをゆるさず。」
「沿岸の住民、守備の将卒、ひそかに海外諸国に通じることを禁ず。」
元朝にかわった明朝のはじめ、洪武帝が示した方針は、このようなきびしい海禁策であった。
世にいう明の海禁とは、本土から海上とおく船で乗りだすことを禁ずるものであり、沿岸の住民が海外の諸国と、かってに通交することを禁ずるものであった。
ただし、それは民間人による私貿易の厳禁を意味するものであり、国と国との交易を禁止するものではない。
「明の初め、東には馬市があり、西には茶市がある。
すべて辺境の異族を交易であやつり、あわせて辺境防街費を充足するためである。」
「海外諸国の入貢するものは、土産物をつんで入港し、中国と貿易することをゆるす。」
「寧波(ニンポウ)は日本に通じ、泉州は琉球に通じ、広州はチャンパ(ベトナム中部)、シャム(タイ)、西洋諸国に通じる。
琉球、チャンパの諸国は恭順なるにより、随寺入貢をゆるす。
ただ日本は叛服つねならず。ゆえに十年を期限とし、人数を二百とし、舟を二隻とす。
勘合(かんごう)表文をもって験(しるし)となし、いつわり侵入するをふせぐ。」
明代の記録にみえる、これらの内容は、明初の交易方針をあらわすものとして、興味ぶかい。
倭寇(わこう)で名高い日本をもっとも警戒していることは、あきらかであろう。
それでいて、ほかの国との新貢による交易は、大いに奨励したいところのようである。
明朝の内陸交易が馬市や茶市であったことも、この記録からうかがえよう。
記録にみえる東とは、明の北方や東北方をさすもので、モンゴル族などを意味する。
西とはチベット族をさすものである。馬市や茶市というが、茶は中国の産物であり、馬は北方や西方の商品である。
要するに陸上の対外交易は、明朝の必要とする馬を買い入れるためのものであった。
それにかえるものは、茶であり、また北方民族のもっとも必要とする食糧などであった。
その交易は、もはや西洋諸国へむけての陸路による絹の交易ではない。
「絹の道は海」といわざるをえまい。
倭寇になやまされながらも、明の南海交易は朝貢の形式で奨励された。
ただ、これまでのような、民間人による渡航活動は厳禁された。
やがてヨーロッパ人がくるとも知らず。