『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
10 大モンゴル
3 大西征
チンギス汗が金の中都にとどまっているとき(一二一六)、はるばる西アジアからホレズム国王の使節がやってきた。
これを引見したチンギス汗は、言った。
「わしは東方の支配者となる。
国王は西方の支配者となり、たがいに和平と友好をたもって、商人たちが自由に往来できるようにしよう。」
モンゴルにとって、定着の民に求めるものは、その豊かな物資である。
ほしいだけの物資がえられるならば、このんで戦争をするに及ばない。
まして領土をえようとは思わない。
都市や田畑はいくらあっても、馬や羊を放牧することができないからである。
そこで西方の物資をえるために、通商路を確保しようとしたのであった。
ホレズム王国は、中央アジアの西部(いまはソ連領)からイラン、アフガニスタンにまたがる大国である。
その王家はトルコ人で、十一世紀の後半から西アジアにおいて独立の王国をきずき、力をふるってきたものである。
東西交通の要路を占めて、国民の多くも貿易に従事していた。
チンギス汗も金国への遠征から帰ると、ホレズムに使節をおくった。
国王ムハマッドは、この提案にこたえ、和平を約束した。
つづいてモンゴルからは、隊商が派遣された。
四百五十人の大部隊で、すべてイスラム教徒であった。
五百頭のラクダには、金銀や絹をはじめ、東方の物品が満載されていた。
しかるに隊商が、国境の町のオトラルに着いたところ、知事の命令によって全員が抑留された。
スパイとみとめられ、商品は没収された上に、ことごとく殺されしまったのである。
チンギス汗は怒った。涙をながして怒った。それでもホレズムは大国である。
平和のうちに事件を解決しようと感情をおさえ、抗議の使者をつかわした。
ところが、今度の使者たちも、あるいは殺され、あるいはヒゲをそられて追いかえされた。
イスラム教徒にとって、ヒゲは権威の表徴なのである。
チンギス汗にとっても、この上ない侮辱であった。
いや、それにもまして、東西をむすぶ貿易が、もはや期待できないことが明らかとなったのである。
この上は、武力にうつたえるよりほかに、道はないであろう。
ついにチンギス汗は、西征を決意した。ときに一二一八年であった。
ところでモンゴルからホレズムに至る途中には、カラ・キタイ(西遼)の国がある。
契丹の王族たる耶律大石(ターシ)が、国を建てて(一二二二)以来、その子孫が代々のグルカン(皇帝)となっていた。
しかるにチンギス汗がナイマン国をほろぼすや、その王子クチュルクは西へ逃げて、このカラ・キタイの国へはいった。
奸智(かんち)にたけたクチュルクは、ひそかに勢力をたくわえて、ついにグルカンの位をうばうに至る(一二一一)。
カラ・キタイは、ここにナイマンの残党の国と化したのであった。
ホレズムへの遠征にさきだって(一二一八)、チンギス汗は二万の軍を、まずカラ・キタイヘ進めた。
すでにクチュルクは、圧政をかさねたあげく、すっかり住民の信望をうしなっていた。
カラ・キタイの住民には、イスラム教徒が多い。
ところがクチュルクは仏教を信奉して、イスラム教徒を迫害したのである。
これに対してモンゴル軍はきびしく軍律をまもって、住民に危害をくわえず、その信仰にも手をふれなかった。
よってモンゴル軍は、イスラム教徒から解放者としてむかえられた。
かくて勝敗は明らかである。
クチュルクは敗走する途中で殺され、たちまちカラ・キタイはモンゴル軍に平定された。
いまや西方への地ならしは成った。
チンギス汗は西夏に対して、軍を出すことを求めた。
しかし西夏は、かって「右の手となろう」といった約束をまもらなかった。
これはチンギス汗を怒らせたが、さしあたっての敵はホレズムである。
西夏についての処置は、あとまわしにするほかはなかった。
10 大モンゴル
3 大西征
チンギス汗が金の中都にとどまっているとき(一二一六)、はるばる西アジアからホレズム国王の使節がやってきた。
これを引見したチンギス汗は、言った。
「わしは東方の支配者となる。
国王は西方の支配者となり、たがいに和平と友好をたもって、商人たちが自由に往来できるようにしよう。」
モンゴルにとって、定着の民に求めるものは、その豊かな物資である。
ほしいだけの物資がえられるならば、このんで戦争をするに及ばない。
まして領土をえようとは思わない。
都市や田畑はいくらあっても、馬や羊を放牧することができないからである。
そこで西方の物資をえるために、通商路を確保しようとしたのであった。
ホレズム王国は、中央アジアの西部(いまはソ連領)からイラン、アフガニスタンにまたがる大国である。
その王家はトルコ人で、十一世紀の後半から西アジアにおいて独立の王国をきずき、力をふるってきたものである。
東西交通の要路を占めて、国民の多くも貿易に従事していた。
チンギス汗も金国への遠征から帰ると、ホレズムに使節をおくった。
国王ムハマッドは、この提案にこたえ、和平を約束した。
つづいてモンゴルからは、隊商が派遣された。
四百五十人の大部隊で、すべてイスラム教徒であった。
五百頭のラクダには、金銀や絹をはじめ、東方の物品が満載されていた。
しかるに隊商が、国境の町のオトラルに着いたところ、知事の命令によって全員が抑留された。
スパイとみとめられ、商品は没収された上に、ことごとく殺されしまったのである。
チンギス汗は怒った。涙をながして怒った。それでもホレズムは大国である。
平和のうちに事件を解決しようと感情をおさえ、抗議の使者をつかわした。
ところが、今度の使者たちも、あるいは殺され、あるいはヒゲをそられて追いかえされた。
イスラム教徒にとって、ヒゲは権威の表徴なのである。
チンギス汗にとっても、この上ない侮辱であった。
いや、それにもまして、東西をむすぶ貿易が、もはや期待できないことが明らかとなったのである。
この上は、武力にうつたえるよりほかに、道はないであろう。
ついにチンギス汗は、西征を決意した。ときに一二一八年であった。
ところでモンゴルからホレズムに至る途中には、カラ・キタイ(西遼)の国がある。
契丹の王族たる耶律大石(ターシ)が、国を建てて(一二二二)以来、その子孫が代々のグルカン(皇帝)となっていた。
しかるにチンギス汗がナイマン国をほろぼすや、その王子クチュルクは西へ逃げて、このカラ・キタイの国へはいった。
奸智(かんち)にたけたクチュルクは、ひそかに勢力をたくわえて、ついにグルカンの位をうばうに至る(一二一一)。
カラ・キタイは、ここにナイマンの残党の国と化したのであった。
ホレズムへの遠征にさきだって(一二一八)、チンギス汗は二万の軍を、まずカラ・キタイヘ進めた。
すでにクチュルクは、圧政をかさねたあげく、すっかり住民の信望をうしなっていた。
カラ・キタイの住民には、イスラム教徒が多い。
ところがクチュルクは仏教を信奉して、イスラム教徒を迫害したのである。
これに対してモンゴル軍はきびしく軍律をまもって、住民に危害をくわえず、その信仰にも手をふれなかった。
よってモンゴル軍は、イスラム教徒から解放者としてむかえられた。
かくて勝敗は明らかである。
クチュルクは敗走する途中で殺され、たちまちカラ・キタイはモンゴル軍に平定された。
いまや西方への地ならしは成った。
チンギス汗は西夏に対して、軍を出すことを求めた。
しかし西夏は、かって「右の手となろう」といった約束をまもらなかった。
これはチンギス汗を怒らせたが、さしあたっての敵はホレズムである。
西夏についての処置は、あとまわしにするほかはなかった。