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8-5-5 末路の活劇

2024-01-02 02:49:50 | 世界史

『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
5 暗雲こめる大明
5 末路の活劇

 「明朝の滅亡をいう者は、十七代崇禎にほろびずして、十四代万暦にほろぶという。」(趙翼)
 たしかに、大明の暗雲は、十四代の万暦帝時代に全土をおおいつくしたといってよい。
 のちの崇禎帝は、閉ざされた暗雲のなかに光をとりいれようとしたが、その層は厚く、ついに大明王朝の余命をたたなければならなかったのである。
 「明は万暦でほろびた」というが、万暦帝の治世は、四十八年間の長きにわたった。
 皮肉にも、その在位は明の皇帝のなかで、もっとも長い。治世の長きこと、かならずしも善政を意味せず、という好例かもしれぬ。
 帝は十歳の若さで即位した。
 幼帝が立つと、宦官や官僚たちが権力を争いやすい。
 万暦帝の即位も、その例にもれなかった。これをたくみに利用して権力を独占したのが、名宰相などといわれる張居正である。
 万暦初期の十年間にわたるかれの政治は、きびしかった。
 皇帝治下の独裁政治を再建する名目で、悪弊をとりのぞくため、各方面の改革や取締りを実施した。
 万暦帝も帝王教育をつめこまれ、張居正には頭があがらなかったという。
 独裁政治のきびしさは、かならず反動をうむ。
 張居正の死が、そのきっかけとなった。
 手綱をはなされた馬のように、欲求不満から解放された青年皇帝は、政治などかえりみず、かって気ままに動きだした。
 もとより解放されたのは皇帝だけではない。
 内廷も外廷も、すべてにわたるものであった。
 不満は張居正への非難となり、また各方面にわたった。
 反動はまた、その反動をうみ、それぞれの党派をつくりあげて離合と集散をくりひろげる。
 独裁政治の終幕がもたらしたものは、政治に対する皇帝の無関心を背景とした、無秩序な派閥どうしの批判合戦である。
 また后妃や宦官や官僚それぞれが、内部分裂をおこしつつ、たがいに入りみだれてまきおこす、陰鬱な活劇であった。
 活劇の序幕は、立太子の問題にあった。
 皇后に子がなく、妃らに子があるとなれば、紛争の条件はそろってくる。
 ことに万暦帝が寵愛したのは、鄭妃であったが、その子は礼法にしたがえば皇三子になり、恭妃の子が皇太子の資格をもっていた。
 問題はそこに発する。
 帝の寵愛が鄭妃にあったことは、皇三子が皇太子になるという推測をうみ、官僚と宦官たちの分派、暗躍を活発にした。
 結果は礼法どおり、恭妃の子が皇太子と決定し、落着したかにみえた。
 ところが問題は、奇怪な事件へと発展したのである。
 万暦四十三年(一六一五)、五月四日酉刻(とりのこく=午後六~七時ごろ)のことであった。
 夕闇せまる皇太子邸に、ひとりの男がしのびこんだ。
 手には棗(なつめ)の木でつくった梃(てい=棍棒)を持ち、やにわに門番をなぐりつけ、ひるむすきに奥へ侵入した。

 邸内は大騒ぎとなったが、男はまもなく捕えられた。
 明の帝室にとっては重大事件である。
 ただちに取りしらべがはじまった。
 意外にもことの真相は告げられず、犯人を気狂いと断ずることによって、事件は始末されようとした。
 不審に思った刑部主事の王という人物が、ひそかに犯人とあい、かくされた事実をつきとめた。
 犯人は擲貴妃の配下の宦官から棍棒をわたされ、皇太子邸に侵入して、「人にあえば、撃ち殺せ」という命をうけたというのである。
 事件は再審にうつされ、命じたという宦官は処刑された。
 この事件を「梃撃(ていげき)」とといい鄭貴妃一派の皇太子暗殺未遂事件として非難された。
 万暦四十八年(一六二〇)七月、帝は病を発し世を去った。
 臨終の床に、皇太子は近づけなかった。
 なに者かがさまたげたのであろう。
 皇太子は八月、帝位についた。十五代の泰昌帝である。
 ところが帝は、まもなく発病した。宦官の雀文昇がすすめる薬を服用したところ、病状はますます悪化した。
 一部の高官たちは、雀文昇をあやしみ、服用をとりやめさせた。
 このとき宦官の李可灼(しゃく)というものが、紅丸の服用をさかんにすすめた。
 側近は、たやすく受入れなかったが、帝の病状が悪化したことにより、ついに服用を許した。
 はじめは好転するかにみえたが、夕方すすめられた二つ目の紅丸を服用したのち、病状にわかに悪化し、世を去った。
 在位わずかに一ヵ月あまりのことであった。
 挺撃につづいて、この事件は世論をわかした。
 ことに当時、正義派の官僚をもって任じ、世の名声もたかかった東林書院派のいわゆる東林党は「毒殺」と断じて、これを攻撃した。この事件を「紅丸」という。
 泰昌帝が死ぬと、帝の寵愛をうけていた李選侍は、皇太子をつれて、皇帝の正寢である乾清宮という建物にひきこもってしまった。
 李選侍は鄭貴妃と通じるところがあり、皇太子を人質にして、あらたな策をはかろうとしたといわれる。
 泰昌帝の側近たちは、鄭貴妃たちの陰謀を警戒し、皇太子を乾清宮から連れだして帝位につけた。
 ときに李選侍はほかの宮に移されたので「移宮」という。
 挺撃・紅丸・移宮の三事件を、世に「三案」という。
 まさにそれは、帝位をめぐる后妃や宦官をはじめ、官僚をふくめた陰惨な活劇であり、大明王朝の末路を思わせるものであった。
 活劇のなかから漁夫の利をつかみ、最後の横暴をふるった者こそ、宦官の魂忠賢である。




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