
『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
6 銀をめぐる波紋
4 銀への執念
『銀場の弊害は、官に利のあるところすくなく、民の損するところ多し。開くべからず。』
洪武帝は、銀鉱を開掘する弊害をさとして、銀場の開設を禁止した(洪武元年、一三六八)。
この禁止は、北征した名将の徐達が山東を平定したとの報に、近臣が山東の旧銀場を再開することを進言したのに対する回答であった。
旧来の銀鉱を開掘しても、多くの労力と犠牲をともない、
多額の経費を必要としながら、産出量は少ない。
結果としては、官の利益はすくなく、民の苦難が大きくなる。
洪武帝はそれを知って、開掘をゆるさなかったのであろう。
そののち(洪武二十年)、河南省の銀場を開掘したいと願いでた者にも、「利益を口にする臣は、すべて民をそこなう賊である」ときめつけ、ゆるしていない。
永楽帝も許可しなかったことがあり、つづく洪熈帝も、宣徳帝も、これにしたがって禁止したという。
当時を記録する史書には、銀場の開掘を禁止したことを意味する記載がある反面、銀場の開掘をしめす記載もみえる。
たとえば洪武十九年には福建の銀場をひらき、三十五年には陝西(せんせい)の銀場になどもひらくむねを記している。
こうなると、いったい洪武帝は銀場の開掘をどのように考えていたのか、はなはだ疑わしくなる。
金銀を民間で使用することを禁止したのと同じように、ここにも矛盾とみられる記載があらわれる。
ことに十九年には、福建の採銀をみとめ、二十年には河南の採銀を許可しないとあっては、その意図がどこにあるのか、理解にくるしむ。
永楽からのちにおいても、洪煕から宣徳にかけて、禁止をたてまえとしたかのような記載がある反面で、銀場の開設や課税の増額をしめす記載があり、矛盾を感じるのもふしぎではない。
たしかに銀場の開設は、民の苦しみをますのみで、産銀額の少ないことが多かった。
「銀砂四千余斤を一ヵ月以上も精製し、人力二千七百を使役して、取りだした黒鉛は五十斤、銀は三両にすぎない。収支の採算はとれず。」
「成化年間に、湖広の金場は計二十一場あり。年間に人夫五十五万を使役し、死する者無数。得た金は、わずかに三十五両。」
こうした史書の記載は、金銀場の開設がいかに多くの労力と経費をともない、得るところ少ないかを示している。
したがって銀鉱の開閉は、ほとんどなかったといっても、誤りではない。
結局のところ、採算のとれない、弊害の多い銀場は開設をゆるさず、銀の産額が多量な銀場は開設を推進するというのが実状であったといえよう。
矛盾するかにみえる記載は、それぞれの場合における許可、不許可の決定であったこととなる。
それでは、いったい明朝は金銀を必要としたのか、どうか。いうまでもなく、大いに必要としたのである。
周辺の諸国はもとより、とおく南海諸国からの朝貢までうながし、明朝の国威をしめそうとすれば、来貢者に下賜する金銀や絹織物などの数は莫大なものとなる。
民間における金銀の使用禁止も、これと無関係ではありえない。
銀場の開設と、それによる課銀の徴収は、明朝にとってきわめて重要なものであったといわざるをえない。
さらに銀の民間における使用が、禁令とは反対に普及するとあっては、銀はますます必需品となる。
しかも宮廷における費用が増大し、宦官や官僚たちの収賄が横行するとなれば、銀へのあこがれは、まさに執念となる。
明末にいたるにしたがって、その傾向は激しさをました。万暦の鉱害は、その頂点をしめす。
「このごろ採鉱のこと、一つの申請をゆるせば、十の申請がこれにつづき、一省で三十一場もひらくことを願う者がある。」
こういう状態は、万暦時代における銀場への執念を思わせる。それだけではない。
帝みずからが、銀の亡者となっていたのである。
政治をかえりみることなく、ぜいたくの限りをつくし、自分のために巨大な陵墓をつくることに没頭し、出費をかえりみない生活がつづけられる。
このため宮廷費を充足させる手段として、銀場の開設がおこなわれ、宦官をつかわして直接に開掘することとなった。
万暦の鉱害は、ここにおこった。
宦官たちは、鉱税と袮して金銀をまきあげ、忠告する地方官を獄に投じ、富者があれば、盗掘や盜鉱の罪に処して財をとりあげ、鉱脈ありと称して田宅を没収し、婦女をはずかしめ、殺戮をほしいままにするなど、横暴のかぎりをつくした。
銀の波紋は、万暦にいたって最大となり、その執念は、まさに末世をおもわせる。
まことに 「明のほろぶは、崇禎にあらずして、万暦にあり」とは、至言というべきであろう。
