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『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
4 宋朝の創業
2 太宗の治世
宋の太祖は位にあること十七年で死んだ。
その末年には帝室のなかにいざこざが多く、太祖は酒をのみすぎて急死したとも、弟の趙光義に殺されたとも、いわれている。
ともあれ太祖のあとは、その二人の子をさしおいて、趙光義が即位したのである。
これを太宗という。
しかし宋朝の国づくりからみるならば、帝室の内紛は、いわばコップのなかのあらしにしか過ぎなかった。
太祖によってしかれた路線は、太宗にうけつがれ、しかも太宗によって仕上げがなされたのであった。
節度使はいよいよ権力をそがれた。
その側近(元従)が鎮将になることは禁ぜられる。
その子弟が藩鎮の将校になることも禁ぜられた。
かれらは、すべて中央にあつめられて人質とされ、ひくい官職をあてがわれるにすぎなくなった。
藩鎮との関係を絶たれたのである。
すでに太祖も、禁軍の将校や、国境警備の隊長が、その配下から精鋭をえらんで私兵とするのを禁じていた。
地方に駐屯(ちゅうとん)する兵士は交替制にして、隊長とのあいだに主従のむすびつきが生まれないように配慮していた。
これに太宗は、とどめをさした。
もはや節度使が統治できるのは、藩鎮の役所のある州ひとつにかぎられる。
ほかの州は、すべて中央の直轄(ちょっかつ)するところとなった。
ここまでくれば、節度使は一州を統治する行政官にすぎなくなる。
藩鎮の体制は解体したのである。それが太宗の即位した翌年、すなわち太平興国二年(九七七)のことであった。
このころ、王継勲という武人が、洛陽の町なかで斬罪にされた。
民家の婦人を掠奪(りょうだつ)してきて下女のようにつかったり、気にいらないと殺すなど、不法の行為が多く、こうして百人あまりの婦人が命をうばわれた、というのが、斬罪の理由であった。
しかも王継勲は、太宗の皇后とは兄の兄妹で、父も有力な節度使であり、みずからも禁軍の幹部にして節度使を兼任していたことがある。
もともと凶暴な性格であったというが、権力を失った失意の境遇が、このような行動をとらせることになったのであろう。
また宋の帝室との関係や、高級武人という立場にあまえていたこともあったであろう。
しかし、いまや高級武人といえども、法の外にいることはできなくなった。
かれの子は生活もできず、ひとに食を乞うて生きていたという。
おもえば藩鎮は、安祿山の乱をきっかけに内地に置かれ、それから二百年あまりも存続してきた。
それが、ここに史上から姿を消す。
また藩鎮に拠った武人は、黄巣(こうそう)の大乱をさかいに貴族にかわって権力をにぎり、武人の天下を出現した。
それも半世紀あまりにして消えさった。
唐末から五代をへて宋の建国にいたる間(十世紀)は、東アジアの諸国においても、大きな変動のおこった時代であった。
朝鮮半島では、新羅(しらぎ)がたおれて、高麗(こうらい)にかわった(九三五)。
東北地方(旧満州)では、渤海(ぼっかい)が契丹(きったん)にほろぼされた(九二六)。
そして日本でも、このころには律令の体制がゆるみ、平将門の乱のように、武士による大乱がおこされている(九三九)。
やがて武士は、平安貴族にかわって政権をにぎるにいたるのである。
貴族にかわって権力をにぎった点では、中国の武人も日本の武人も同じであった。
主従のむすすびつきと武力を背景に、権力者として歴史に登場し、かれらの天下をつくりあげたことも同じであった。
そして中国でも、日本でも、貴族は古代的な律令支配の担い手であり、主従の関係は律令による支配の理念とは異質の秩序であった。
しかし中国の武人は日本の武士とはちがって、何世紀にもわたる支配者として定着することはできなかった。
日本の武士は、みずからの手で貴族から権力をうばっていったのである。
ところが中国では、貴族政治をおわらせた直接の力は、黄巣の大乱という農民の反乱であった。
藩鎮の武人たちは、その果実を横どりしたにすぎない。
藩鎮の武人が、みずからの手で容易に貴族政治をたおすことをしなかったのは、その権力の基盤が傭兵の集団にあったからである。
傭兵の集団を権力の基盤にしていたことは、藩鎮の武人が日本の武士とちがって、土地の所有を媒介(ばいかい)とする主従関係を形成していないことであった。
そこで主従の関係も、個人間のことにかぎられがちとなり、家と家との関係にまではいたらなかった。
中国の武人の間には、「家門のほまれ」という意識も芽ばえなかった。
また傭兵隊長としての節度使は、まるで役人のように短期間で転任していくことになり、在地との関係ということになれば、食い逃げ的な統治を生みだすほどに、根なし草のような存在なのであった。
そのため中央がとった集権化の政策のまえに、もろくも武人は権力を失ってしまう。
かくて藩鎮は解体し、武人の天下は終わりをつげたのであった。
武人にかわり権力の担い手となったのは、文官であった。
集権化の成功は、とりもなおさず中央の支配力を強めることになった。
いまや貴族もなく、武人も権力を失って、文官が国家権力を行使する体制では、中央というよりも皇帝そのものの権力を、いままでになく強める結果となった。
独裁の皇帝の出現といってもよい。その体制を完成したのが、宋の太宗であった。`
4 宋朝の創業
2 太宗の治世
宋の太祖は位にあること十七年で死んだ。
その末年には帝室のなかにいざこざが多く、太祖は酒をのみすぎて急死したとも、弟の趙光義に殺されたとも、いわれている。
ともあれ太祖のあとは、その二人の子をさしおいて、趙光義が即位したのである。
これを太宗という。
しかし宋朝の国づくりからみるならば、帝室の内紛は、いわばコップのなかのあらしにしか過ぎなかった。
太祖によってしかれた路線は、太宗にうけつがれ、しかも太宗によって仕上げがなされたのであった。
節度使はいよいよ権力をそがれた。
その側近(元従)が鎮将になることは禁ぜられる。
その子弟が藩鎮の将校になることも禁ぜられた。
かれらは、すべて中央にあつめられて人質とされ、ひくい官職をあてがわれるにすぎなくなった。
藩鎮との関係を絶たれたのである。
すでに太祖も、禁軍の将校や、国境警備の隊長が、その配下から精鋭をえらんで私兵とするのを禁じていた。
地方に駐屯(ちゅうとん)する兵士は交替制にして、隊長とのあいだに主従のむすびつきが生まれないように配慮していた。
これに太宗は、とどめをさした。
もはや節度使が統治できるのは、藩鎮の役所のある州ひとつにかぎられる。
ほかの州は、すべて中央の直轄(ちょっかつ)するところとなった。
ここまでくれば、節度使は一州を統治する行政官にすぎなくなる。
藩鎮の体制は解体したのである。それが太宗の即位した翌年、すなわち太平興国二年(九七七)のことであった。
このころ、王継勲という武人が、洛陽の町なかで斬罪にされた。
民家の婦人を掠奪(りょうだつ)してきて下女のようにつかったり、気にいらないと殺すなど、不法の行為が多く、こうして百人あまりの婦人が命をうばわれた、というのが、斬罪の理由であった。
しかも王継勲は、太宗の皇后とは兄の兄妹で、父も有力な節度使であり、みずからも禁軍の幹部にして節度使を兼任していたことがある。
もともと凶暴な性格であったというが、権力を失った失意の境遇が、このような行動をとらせることになったのであろう。
また宋の帝室との関係や、高級武人という立場にあまえていたこともあったであろう。
しかし、いまや高級武人といえども、法の外にいることはできなくなった。
かれの子は生活もできず、ひとに食を乞うて生きていたという。
おもえば藩鎮は、安祿山の乱をきっかけに内地に置かれ、それから二百年あまりも存続してきた。
それが、ここに史上から姿を消す。
また藩鎮に拠った武人は、黄巣(こうそう)の大乱をさかいに貴族にかわって権力をにぎり、武人の天下を出現した。
それも半世紀あまりにして消えさった。
唐末から五代をへて宋の建国にいたる間(十世紀)は、東アジアの諸国においても、大きな変動のおこった時代であった。
朝鮮半島では、新羅(しらぎ)がたおれて、高麗(こうらい)にかわった(九三五)。
東北地方(旧満州)では、渤海(ぼっかい)が契丹(きったん)にほろぼされた(九二六)。
そして日本でも、このころには律令の体制がゆるみ、平将門の乱のように、武士による大乱がおこされている(九三九)。
やがて武士は、平安貴族にかわって政権をにぎるにいたるのである。
貴族にかわって権力をにぎった点では、中国の武人も日本の武人も同じであった。
主従のむすすびつきと武力を背景に、権力者として歴史に登場し、かれらの天下をつくりあげたことも同じであった。
そして中国でも、日本でも、貴族は古代的な律令支配の担い手であり、主従の関係は律令による支配の理念とは異質の秩序であった。
しかし中国の武人は日本の武士とはちがって、何世紀にもわたる支配者として定着することはできなかった。
日本の武士は、みずからの手で貴族から権力をうばっていったのである。
ところが中国では、貴族政治をおわらせた直接の力は、黄巣の大乱という農民の反乱であった。
藩鎮の武人たちは、その果実を横どりしたにすぎない。
藩鎮の武人が、みずからの手で容易に貴族政治をたおすことをしなかったのは、その権力の基盤が傭兵の集団にあったからである。
傭兵の集団を権力の基盤にしていたことは、藩鎮の武人が日本の武士とちがって、土地の所有を媒介(ばいかい)とする主従関係を形成していないことであった。
そこで主従の関係も、個人間のことにかぎられがちとなり、家と家との関係にまではいたらなかった。
中国の武人の間には、「家門のほまれ」という意識も芽ばえなかった。
また傭兵隊長としての節度使は、まるで役人のように短期間で転任していくことになり、在地との関係ということになれば、食い逃げ的な統治を生みだすほどに、根なし草のような存在なのであった。
そのため中央がとった集権化の政策のまえに、もろくも武人は権力を失ってしまう。
かくて藩鎮は解体し、武人の天下は終わりをつげたのであった。
武人にかわり権力の担い手となったのは、文官であった。
集権化の成功は、とりもなおさず中央の支配力を強めることになった。
いまや貴族もなく、武人も権力を失って、文官が国家権力を行使する体制では、中央というよりも皇帝そのものの権力を、いままでになく強める結果となった。
独裁の皇帝の出現といってもよい。その体制を完成したのが、宋の太宗であった。`
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