『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
6 新しい共和国
ピューリタン革命は、チャールズ一世の処刑をもって最高潮に達した。
一六四九年三月、議会は君主制廃止にふみきった――「王という職は不必要で、負担が多く、人民の自由、安全および公の利害に有害であり、王の権力ならびに大権は、たいていの場合臣民を抑圧し、貧乏にし、奴隷化するのに利用されてきた。」
ひきつづき君主制と不可分の関係にある貴族院が廃止され、五月、イギリスが「共和国にして自由国家」なることが宣言され、イギリス史上はじめて、共和国が出現した。
しかしその実際はどうであったろうか。
まず水平派の期待は大きかった。共和国の出現によって、人民協約の理想が実現されるのではないかと。
ちょうど王が処刑される十日前の一月二十日、第二の人民協約が、軍会議から残部議会に提出された。
これは、リルバーンが主張して委員会を組織させ、草案をつくったものである。
しかし軍会議において、リルバーンの表現によれば「全部こなごな」にされ、改訂の内容は水平派を満足させるものではなかった。
とくにいけなかったのは、当時、王の処刑に気をとられていた残部議会がこれをにぎりつぶし、審議の対象にしなかったことである。
裹切られた水平派は憤慨し、リルバーンは『イングランドの新しい鎖の発見』を書いて、軍幹部と議会の専制を攻撃した。
このためリルバーンら四名の指導者は逮捕され、ロンドン塔に投獄された。このときクロンウェルは怒鳴った。
「これらの人間はこなごなにやっつけてしまう以外にあつかいようがない。
もし連中をやっつけなかったなら、彼らがきみたちをやっつけるだろう。」
水平派の、もっとも有力な支持者であった兵士たちのあいだにも不満がたかまった。
自由と兵士の権利を守るため、彼らが立ちあがる。
後述のアイルランド進駐の命令をきっかけに、四月、ロンドンでウェーリー大佐の部隊が出発を拒んだ。
これはただちに制圧された。
しかしクロンウェルが、首謀者の一人ロッキャーを銃殺刑に処したことから、ロンドン市民の大葬式デモとなった――
「チャールズ王のときでさえ、この騎兵の半数ほどの会葬者もなかった。」
その後五月、ソールズベリーとバンベリーの部隊で反乱がおこったが、これまたクロンウェルによって、短日月のあいだに鎮圧された。
もう一つの大きい事件は、水平派よりさらに急進的な真正水平派の動きである。
一六四九年四月、その指導者ウィンスタンリー(一六〇九~五二)が貧しい農民たちとサリー州のセント・ジョージ丘で、共有地を掘りおこし、種を蒔きはじめ、土地の共有、共同耕作をよびかけた。
しかしこの地方の自由農民や教区の牧師が、暴力をもってこれを阻止し、さらに彼らがコバム荘園に移動すると、政府軍がきて解散させた。
ピューリタン革命のなかでも、人民の立場をもっとも広くかつ深く代表した真正水平派は、こうして弾圧され、地下に埋もれた。
新しい共和国に反対したのは、左翼勢力ばかりではない。
右翼勢力からの反革命の動きがあり、それは王の遺子チャールズ(一六三〇~八五)とむすびついた。
チャールズは、父の処刑後オランダのハーグで即位してチャールズ二世と袮し、スコットランドとアイルランドとは、これを正式の王とみとめた。
このとき議会から、この反動の拠点アイルランド征服の任を託せられたのが、クロンウェルである。一六四九年八月ダブリンに上陸した彼は、転戦して、アイルランド制圧に成功した。
これは国王派に対する一大打撃であり、同時にアイルランドの土地の三分の二が没収され、カトリシズムが禁圧され、植民地化の端がひらかれた。
それは「イギリス帝国主義の最初の大勝利であるどともに、イギリス民主主義の最初の大敗北」と評されている。
一方チャールズは一六五〇年六月、スコットランドに上陸した。
クロンウェルは七月、スコットランド遠征を行ない、翌五一年、イギリスに侵入してきたチャールズの軍を破った。
危機一髪のところをのがれたチャールズは、フランスに亡命する。
以後スコットランドはイギリスに固くむすびつけられ、イギリスのよい市場になった。
この間、イギリス国内にもチャールズの動きに応じて一六五一年、国王派や長老派の陰謀がおこったが、いずれもクロンウェルによって弾圧された。