
『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
9 シチリアの晩祷
4 シャルル・ダンジュー登場
教皇権は、みずから守(も)りたてたフリードリヒに、半世紀間苦しめられた。
ミラノを盟主とするロンバルディア都市同盟が教皇と組んで、フリードリヒの「イタリア政策」をはばもうとしたが、フリードリヒはこの都市同盟軍を、一三三七年コルトヌオーバの戦いに破り、本国ドイツの諸侯の反乱にもよく耐え、一度も敵に指導権をわたすことがなかった。
一三五一年の初頭、当時リヨンに滞在中であった教皇イノケンティウス四世は、前年の暮れ、フリードリヒが急死したとの知らせをうけて、「地よ、喜びに満てよ、暴君(タイラント)が死んだ」と狂喜したという。
当時、ドイツ本国には、フリードリヒに対する対立国王として、一三四七年、ベルフ家側に擁立されてホラント伯ウィレムが立っていた。
教皇はウィレムに誠実を誓わせ、フリードリヒの王位を継いたフリードリヒの息子コンラートとその一味を破門し、ただちにローマに帰った。
188
シチリアではホーエンシュタウヘン家に対する反乱が起こり、すべての情勢は教皇にとって有利であるかにみえた。
だが、ロンバルディアの諸都市は、コンラートが南下するにおよんで、意外にも、教皇に離反した。
また、シチリア王国にあっては、フリードリヒの庶子マンフレートが反乱をおさえて秩序をたてなおし、南下したコンラートと合流して、あくまで教皇に対抗した。
教皇イノケンティウスは、失意のうちに一三五四年没し、同年コンラートもまた、ドイツ本国に遺児コンラディンを残して死んだ。
イノケッティウスを継いだ教皇アレクサンデル四世は、ここにいたって、外国君主の力を借りようとした。
つまり、イギリス王ヘンリー三世にシチリア征服を依頼し、その息子エドモンドをシチリア王として戴冠させたのである。
だが、この遠征はけっきょく実現せず、一三五八年、教皇はエドモンドの王位をとり消し、マンフレートの王位を承認するにいたった。
一方ドイツ本国では、一三五六年のウィレムの死が、王位空白の情勢を生んでいた。
領邦分裂がドイツの現実ではあったが、しかし各領邦は、それぞれ一個の個別国家として自立しうるほどに体制のととのったものではなく、西南ドイツ、ライン流域の小規模な諸侯伯領の場合、とくにそうであった。
ドイツは、イギリス、フランスに対抗しうる一個の国家単位であるためには、王をもたねばならなかったのである。
それがドイツ分裂のもつもうひとつの現実であった。
ところが、皮肉なことに、一三五七年にひらかれた国王選挙の会合は、ふたりの外国人を国王に選出してしまったのである。
カスティリャのアフォンソとイギリスのヘンリー三世の弟リチャードである。
ドイツ国王位継承問題とシチリア問題と、このフリードリヒ二世の死の残したふたつの困難な問題に、ともに、外国が介入したわけである。
以後ハブスブルク家の権力の確定するこの世紀の末葉まで、ドイツ国王、ひいては皇帝の地位は、国際間の対立の道具と化する。
そしてシチリア王国の問題もまた、巨大な国際対立の渦中にまきこまれた。
マンフレートのシチリア経営は着実に進み、北イタリアのロンパルディア、トスカナもまた、しだいにマンフレートの勢力圏にはいる動きをみせた。
一二六一年教皇の座についたフランス出身のウルバヌス四世は、ここにイギリスとの提携をフランスとの同盟にのりかえようとして、聖王ルイと交渉を開始した。
聖王ルイは、当時、聖地十字軍計画に専心していたこともあって、シチリア王国を身内の者があずかることに異論のあろうはずはなかった。
もっとも王は、コンラートの遺児コンラディンの正当な継承権を無視する気にはなれなかったし、またイギリスの介入に承認をあたえていたこともあって、王自身、あるいはその息子を候補者には立てず、末弟シャルルが教皇からシチリア王冠をうけることを認めたのであった。
多少の曲折をへたのち、シャルルは、一二六三年の七月、シチリア遠征の教書をうけた。
シャルルは、フランス王ルイ八世とその妃プランシュ・ド・カスティユの末子として一三二七年に生まれた。数ヵ月後に父王を失い、母ブランシュの愛情は長兄ルイにそそがれ、そのルイの弟たちに対する配慮は、末弟の彼にいちばんうすかったという。
そのせいか、彼は、兄弟たちのなかでいちばん野性味あふれた冒険児になった。
母方の血、つまりスペイン人の血をうけたのか、濃いオリーヴ色の皮膚に、これは明らかに父親ゆすりの高い鼻をもったこの精悍(せいかん)な若者は、二十歳に達したとき、父王の生前の意志によって、アンジュー伯領とメーヌ伯領とを、いわゆる親王領として授封された。
ここから、彼の通称シャルル・ダンジューが出ているのだが、しかし、より重要なことは、彼がプロバンス伯領を獲得したことである。
すなわち、彼は、すでにその前年、プロバンス伯の四女で伯領の相続権をもつベアトリスと結婚していたのである。
このときの伯には男の子がなく、伯の意志によって四女ペアトリスに相続権があたえられていたのであった。
このプロバンス伯領は、法的にはブルグンドおよびアルル王国の一部分であって、神聖ローマ帝国皇帝の宗主権のおよぶ地域であった。
だが、彼は皇帝の統制権をほとんど無視し、もっぱらブロバンス人の反抗をおさえ、伯領に自己の統制権をおよぼすことに専念し、着実にその成果をあげた。
ここにはじめてフランス王家の勢力がローヌ川以東におよんだのであった。
しかも、シャルルは、一三五七年以降、しだいに勢力を東にひろげ、ピエモントの領主たちは、ほとんど彼に誠実の誓いをたてるようになった。
明らかに彼は、フランス、イタリアの中間地帯にまたがる王国の建設をねらっていた。
それは、言葉をかえていえば、かつてのブルグンド王国の再建を意図するものにほかならなかった。
そしてここに、さらに壮大な未来がシャルルにひらけたのである。
ブルグンド王国にイタリア、シチリアを加えて、地中海中部を縦断する大帝国を建設することができるかもしれない。
冒険児シャルルは、このチャンスをつかんだ。
そのためにはまずマンフレートと対決しなければならなかった。
一二六四年の初頭、マンフレートは、ようやくルッカを味方にひきつけ、中部イタリアを掌握する態勢をかため、ローマを包囲した。
教皇はあせった。
だが、シャルルは教皇との協定の内容に不満があり、交渉が長びいていた。
春から夏にかけて、パリとローマのあいだに使者が往復した。
一方、マンフレートはローマの南、カンパーニャに大軍を集結させていた。
教皇ウルバヌスは焦慮のあまり、ローマを離れ、アッシジに逃れる途中、十月、ペルージアでみまかった。
翌年二月、新しく教皇座についたクレメンス四世は、前教皇の政策をそのままひきつぎ、ようやくシャルルとのあいだに最終的な取りきめを終えた。
シャルルは、五月、手勢をひきいてマルセーユをたち、海路ローマに向かったのである。
二週間後ローマに入ったシャルルは、ローマ市民の歓迎をうけ、六月、教皇との協定にしたがってローマ元老院議員(セナトール)の称号をうけ、一週間おいて、六月の末、シチリア王に封ぜられたのである。
以後、彼はシチリア王を称した。
マンフレートは、いったん、南イタリアから北に兵を動かし、ウンブリアのスポレトをつくかにみせたが、なぜか突如兵をかえしてしまった。
シャルルは、その年いっぱい、安心して教皇とシチリア征討資金のことを協議することができたのである。
この年の暮れには、十分な資金が調達される見込みがついた。
シャルルがリヨンに集結させた軍隊は、すでに十月のはじめ、ローマに向けて進発していた。
当時の年代記の伝えるところでは、完全武装の騎兵六千、騎馬の弓射手兵六百、歩兵二千のこの大部隊は、テンダ峠を越えて、シャルルの統制のおよんでいたピエモント地方に入り、マンフレート側に立つ都市の抵抗を排除しながら、ミラノをへて、十二月の末、ポー川を渡り、ボローニャについた。
ここからアペニン山脈を越えてローマについたのは、翌一二六六年一月十五日ごろであった。
シャルルは果断に動いた。二十日、彼は全軍をひきいて南下した。
マンフレー卜はカプアに待機していた。
だが、シャルルの軍は突如方向を転じ、さらに内陸のベネベントに向かった。
マンフレートもまた、カプアを出て、ベネベントに向かった。ベネベントには、マンフレートのほうが早くついた。町をとりかこみ、川を前にしたかたちのマンフレートの布陣は、明らかに有利であった。
しかし、彼は、当時中部イタリアにいた甥の軍勢の到着を待ちきれず、いっきょに戦いを決しようと、川を渡って平野に進出するという重大な誤りを犯してしまったのである。
二月二十六日、戦いがはじまり、そして終わった。
マンフレートの陣は四段の配置で、先頭にアラブ人傭兵(ようへい)隊、つぎに精鋭のドイツ騎士隊千二百余、つづいて主にロンバルディア、トスカナから集められたイタリア人傭兵一千騎あまりとアラブ人二、三百の軽装騎兵隊、最後に、マンフレートとしてはあまり信頼できなかったシチリアの騎士軍千騎あまりとともにマンフレートがひかえていた。
これに対するシャルルの軍は三段の布陣で、九百騎のプロバンス騎兵隊、つづいてシャルル自身の指揮する第二陣、中部フランス騎士隊千騎とイタリア諸都市の教皇党の騎兵隊四百騎あまり、そして最後の控えに、北フランスおよびフランドル騎士隊が配置されていた。
陽(ひ)のおちる前に勝敗は決した。マンフレートの敗因は、第二陣、第三陣をくりだすタイミングがおくれたところにあった。しかも、第四陣のシチリア貴族は、敗色が濃くなるにつれて動揺し、ついにはマンフレートを守るものはわずかな数の手勢だけということになってしまったのである。
三千六百あまりの騎兵のうち、ただの六百が、ようやく戦場を離脱しえただけであったという。
マンフレート自身は、ゆくえ不明となり、二日後、その遺体が確認された。
これが、シチリア王国の支配をめぐる大決戦ベネベントの戦いの結末であった。
シャルルはローマに残していた妻ペアトリスを呼びよせ、ナポリに向かった。
三月七日、騎馬のシチリア王と、青のビロードの飾り被いも美しい輿に乗ったシチリア王妃とが、ナポリに入城した。
マンフレートが敗死したとき、ドイツにいたコンラート四世の遺児コンラディンは十四歳の少年であった。
マンフレートの遺臣のうちシャルルへの報復を誓うものたちは、つぎつぎとドイツに向かい、コンラディンに近づいた。
北イタリアの皇帝派の諸都市は、このホーエンシュタウヘッ家最後の当主の権利を支持した。
ここにコンラディンは若さにまかせ、一二六七年秋、四千あまりの騎兵軍をひきつれてイタリアに入った。
シャルルは、はじめトスカナにいたが、大事をとり、南イタリアに退いた。教皇の破門の脅迫もかまわず、コンラディンは翌年の七月、ローマに入った。
ローマはこのとき、皇帝派の勢力が市政をおさえ、教皇はビテルボに逃げていたのである。
かつて教皇の敵が、これほどまでにローマ市民に歓迎されたことはなかったといわれるほどの人気であった。
その人気は、多分に、コンラディンのういういしい若武者ぶりに負うていたことでもあろう。
栄光の三週間ほどがすぎて、彼はローマをたち、敵をもとめて南イタリアに入った。
八月二十三日、戦いはタグリアコッツォ近傍で展開された。
サルト川という小さな流れをはさんで、コンラディンの軍は六千、シャルルの軍は五千だった。
乱戦となった戦いの結末は、コンラディンの敗走であった。
彼はローマにもどったが、負けた彼にローマはつめたかった。
やがて、シャルルの手中におちいった彼は、ナポリに送られ、十月二十九日、広場に設けられた処刑台上で、首を切られたのである。
形ばかりの審問は行なわれた。
だが、捕虜になった君侯を処刑するとは、これは明らかに慣行を無視した殺人であった。
だが、それはシャルルの意に介するところではなかった。
ホーエンシュタウヘン家の者を生かしておいてはならぬ。そのためには手段をえらばない。
これがシャルル・ダンジューなのであった。
コンラディン処刑の数日後、シャルルはブルゴーニュ候家のマルグリットを二度目の妻とした。
ベアトリス・ド・プロバンスは、前年の七月にみまかっていたのである。
マルグリットは、中部フランスのオーセール、トンネールを含む所領を婚資としてもたらした。
9 シチリアの晩祷
4 シャルル・ダンジュー登場
教皇権は、みずから守(も)りたてたフリードリヒに、半世紀間苦しめられた。
ミラノを盟主とするロンバルディア都市同盟が教皇と組んで、フリードリヒの「イタリア政策」をはばもうとしたが、フリードリヒはこの都市同盟軍を、一三三七年コルトヌオーバの戦いに破り、本国ドイツの諸侯の反乱にもよく耐え、一度も敵に指導権をわたすことがなかった。
一三五一年の初頭、当時リヨンに滞在中であった教皇イノケンティウス四世は、前年の暮れ、フリードリヒが急死したとの知らせをうけて、「地よ、喜びに満てよ、暴君(タイラント)が死んだ」と狂喜したという。
当時、ドイツ本国には、フリードリヒに対する対立国王として、一三四七年、ベルフ家側に擁立されてホラント伯ウィレムが立っていた。
教皇はウィレムに誠実を誓わせ、フリードリヒの王位を継いたフリードリヒの息子コンラートとその一味を破門し、ただちにローマに帰った。
188
シチリアではホーエンシュタウヘン家に対する反乱が起こり、すべての情勢は教皇にとって有利であるかにみえた。
だが、ロンバルディアの諸都市は、コンラートが南下するにおよんで、意外にも、教皇に離反した。
また、シチリア王国にあっては、フリードリヒの庶子マンフレートが反乱をおさえて秩序をたてなおし、南下したコンラートと合流して、あくまで教皇に対抗した。
教皇イノケンティウスは、失意のうちに一三五四年没し、同年コンラートもまた、ドイツ本国に遺児コンラディンを残して死んだ。
イノケッティウスを継いだ教皇アレクサンデル四世は、ここにいたって、外国君主の力を借りようとした。
つまり、イギリス王ヘンリー三世にシチリア征服を依頼し、その息子エドモンドをシチリア王として戴冠させたのである。
だが、この遠征はけっきょく実現せず、一三五八年、教皇はエドモンドの王位をとり消し、マンフレートの王位を承認するにいたった。
一方ドイツ本国では、一三五六年のウィレムの死が、王位空白の情勢を生んでいた。
領邦分裂がドイツの現実ではあったが、しかし各領邦は、それぞれ一個の個別国家として自立しうるほどに体制のととのったものではなく、西南ドイツ、ライン流域の小規模な諸侯伯領の場合、とくにそうであった。
ドイツは、イギリス、フランスに対抗しうる一個の国家単位であるためには、王をもたねばならなかったのである。
それがドイツ分裂のもつもうひとつの現実であった。
ところが、皮肉なことに、一三五七年にひらかれた国王選挙の会合は、ふたりの外国人を国王に選出してしまったのである。
カスティリャのアフォンソとイギリスのヘンリー三世の弟リチャードである。
ドイツ国王位継承問題とシチリア問題と、このフリードリヒ二世の死の残したふたつの困難な問題に、ともに、外国が介入したわけである。
以後ハブスブルク家の権力の確定するこの世紀の末葉まで、ドイツ国王、ひいては皇帝の地位は、国際間の対立の道具と化する。
そしてシチリア王国の問題もまた、巨大な国際対立の渦中にまきこまれた。
マンフレートのシチリア経営は着実に進み、北イタリアのロンパルディア、トスカナもまた、しだいにマンフレートの勢力圏にはいる動きをみせた。
一二六一年教皇の座についたフランス出身のウルバヌス四世は、ここにイギリスとの提携をフランスとの同盟にのりかえようとして、聖王ルイと交渉を開始した。
聖王ルイは、当時、聖地十字軍計画に専心していたこともあって、シチリア王国を身内の者があずかることに異論のあろうはずはなかった。
もっとも王は、コンラートの遺児コンラディンの正当な継承権を無視する気にはなれなかったし、またイギリスの介入に承認をあたえていたこともあって、王自身、あるいはその息子を候補者には立てず、末弟シャルルが教皇からシチリア王冠をうけることを認めたのであった。
多少の曲折をへたのち、シャルルは、一二六三年の七月、シチリア遠征の教書をうけた。
シャルルは、フランス王ルイ八世とその妃プランシュ・ド・カスティユの末子として一三二七年に生まれた。数ヵ月後に父王を失い、母ブランシュの愛情は長兄ルイにそそがれ、そのルイの弟たちに対する配慮は、末弟の彼にいちばんうすかったという。
そのせいか、彼は、兄弟たちのなかでいちばん野性味あふれた冒険児になった。
母方の血、つまりスペイン人の血をうけたのか、濃いオリーヴ色の皮膚に、これは明らかに父親ゆすりの高い鼻をもったこの精悍(せいかん)な若者は、二十歳に達したとき、父王の生前の意志によって、アンジュー伯領とメーヌ伯領とを、いわゆる親王領として授封された。
ここから、彼の通称シャルル・ダンジューが出ているのだが、しかし、より重要なことは、彼がプロバンス伯領を獲得したことである。
すなわち、彼は、すでにその前年、プロバンス伯の四女で伯領の相続権をもつベアトリスと結婚していたのである。
このときの伯には男の子がなく、伯の意志によって四女ペアトリスに相続権があたえられていたのであった。
このプロバンス伯領は、法的にはブルグンドおよびアルル王国の一部分であって、神聖ローマ帝国皇帝の宗主権のおよぶ地域であった。
だが、彼は皇帝の統制権をほとんど無視し、もっぱらブロバンス人の反抗をおさえ、伯領に自己の統制権をおよぼすことに専念し、着実にその成果をあげた。
ここにはじめてフランス王家の勢力がローヌ川以東におよんだのであった。
しかも、シャルルは、一三五七年以降、しだいに勢力を東にひろげ、ピエモントの領主たちは、ほとんど彼に誠実の誓いをたてるようになった。
明らかに彼は、フランス、イタリアの中間地帯にまたがる王国の建設をねらっていた。
それは、言葉をかえていえば、かつてのブルグンド王国の再建を意図するものにほかならなかった。
そしてここに、さらに壮大な未来がシャルルにひらけたのである。
ブルグンド王国にイタリア、シチリアを加えて、地中海中部を縦断する大帝国を建設することができるかもしれない。
冒険児シャルルは、このチャンスをつかんだ。
そのためにはまずマンフレートと対決しなければならなかった。
一二六四年の初頭、マンフレートは、ようやくルッカを味方にひきつけ、中部イタリアを掌握する態勢をかため、ローマを包囲した。
教皇はあせった。
だが、シャルルは教皇との協定の内容に不満があり、交渉が長びいていた。
春から夏にかけて、パリとローマのあいだに使者が往復した。
一方、マンフレートはローマの南、カンパーニャに大軍を集結させていた。
教皇ウルバヌスは焦慮のあまり、ローマを離れ、アッシジに逃れる途中、十月、ペルージアでみまかった。
翌年二月、新しく教皇座についたクレメンス四世は、前教皇の政策をそのままひきつぎ、ようやくシャルルとのあいだに最終的な取りきめを終えた。
シャルルは、五月、手勢をひきいてマルセーユをたち、海路ローマに向かったのである。
二週間後ローマに入ったシャルルは、ローマ市民の歓迎をうけ、六月、教皇との協定にしたがってローマ元老院議員(セナトール)の称号をうけ、一週間おいて、六月の末、シチリア王に封ぜられたのである。
以後、彼はシチリア王を称した。
マンフレートは、いったん、南イタリアから北に兵を動かし、ウンブリアのスポレトをつくかにみせたが、なぜか突如兵をかえしてしまった。
シャルルは、その年いっぱい、安心して教皇とシチリア征討資金のことを協議することができたのである。
この年の暮れには、十分な資金が調達される見込みがついた。
シャルルがリヨンに集結させた軍隊は、すでに十月のはじめ、ローマに向けて進発していた。
当時の年代記の伝えるところでは、完全武装の騎兵六千、騎馬の弓射手兵六百、歩兵二千のこの大部隊は、テンダ峠を越えて、シャルルの統制のおよんでいたピエモント地方に入り、マンフレート側に立つ都市の抵抗を排除しながら、ミラノをへて、十二月の末、ポー川を渡り、ボローニャについた。
ここからアペニン山脈を越えてローマについたのは、翌一二六六年一月十五日ごろであった。
シャルルは果断に動いた。二十日、彼は全軍をひきいて南下した。
マンフレー卜はカプアに待機していた。
だが、シャルルの軍は突如方向を転じ、さらに内陸のベネベントに向かった。
マンフレートもまた、カプアを出て、ベネベントに向かった。ベネベントには、マンフレートのほうが早くついた。町をとりかこみ、川を前にしたかたちのマンフレートの布陣は、明らかに有利であった。
しかし、彼は、当時中部イタリアにいた甥の軍勢の到着を待ちきれず、いっきょに戦いを決しようと、川を渡って平野に進出するという重大な誤りを犯してしまったのである。
二月二十六日、戦いがはじまり、そして終わった。
マンフレートの陣は四段の配置で、先頭にアラブ人傭兵(ようへい)隊、つぎに精鋭のドイツ騎士隊千二百余、つづいて主にロンバルディア、トスカナから集められたイタリア人傭兵一千騎あまりとアラブ人二、三百の軽装騎兵隊、最後に、マンフレートとしてはあまり信頼できなかったシチリアの騎士軍千騎あまりとともにマンフレートがひかえていた。
これに対するシャルルの軍は三段の布陣で、九百騎のプロバンス騎兵隊、つづいてシャルル自身の指揮する第二陣、中部フランス騎士隊千騎とイタリア諸都市の教皇党の騎兵隊四百騎あまり、そして最後の控えに、北フランスおよびフランドル騎士隊が配置されていた。
陽(ひ)のおちる前に勝敗は決した。マンフレートの敗因は、第二陣、第三陣をくりだすタイミングがおくれたところにあった。しかも、第四陣のシチリア貴族は、敗色が濃くなるにつれて動揺し、ついにはマンフレートを守るものはわずかな数の手勢だけということになってしまったのである。
三千六百あまりの騎兵のうち、ただの六百が、ようやく戦場を離脱しえただけであったという。
マンフレート自身は、ゆくえ不明となり、二日後、その遺体が確認された。
これが、シチリア王国の支配をめぐる大決戦ベネベントの戦いの結末であった。
シャルルはローマに残していた妻ペアトリスを呼びよせ、ナポリに向かった。
三月七日、騎馬のシチリア王と、青のビロードの飾り被いも美しい輿に乗ったシチリア王妃とが、ナポリに入城した。
マンフレートが敗死したとき、ドイツにいたコンラート四世の遺児コンラディンは十四歳の少年であった。
マンフレートの遺臣のうちシャルルへの報復を誓うものたちは、つぎつぎとドイツに向かい、コンラディンに近づいた。
北イタリアの皇帝派の諸都市は、このホーエンシュタウヘッ家最後の当主の権利を支持した。
ここにコンラディンは若さにまかせ、一二六七年秋、四千あまりの騎兵軍をひきつれてイタリアに入った。
シャルルは、はじめトスカナにいたが、大事をとり、南イタリアに退いた。教皇の破門の脅迫もかまわず、コンラディンは翌年の七月、ローマに入った。
ローマはこのとき、皇帝派の勢力が市政をおさえ、教皇はビテルボに逃げていたのである。
かつて教皇の敵が、これほどまでにローマ市民に歓迎されたことはなかったといわれるほどの人気であった。
その人気は、多分に、コンラディンのういういしい若武者ぶりに負うていたことでもあろう。
栄光の三週間ほどがすぎて、彼はローマをたち、敵をもとめて南イタリアに入った。
八月二十三日、戦いはタグリアコッツォ近傍で展開された。
サルト川という小さな流れをはさんで、コンラディンの軍は六千、シャルルの軍は五千だった。
乱戦となった戦いの結末は、コンラディンの敗走であった。
彼はローマにもどったが、負けた彼にローマはつめたかった。
やがて、シャルルの手中におちいった彼は、ナポリに送られ、十月二十九日、広場に設けられた処刑台上で、首を切られたのである。
形ばかりの審問は行なわれた。
だが、捕虜になった君侯を処刑するとは、これは明らかに慣行を無視した殺人であった。
だが、それはシャルルの意に介するところではなかった。
ホーエンシュタウヘン家の者を生かしておいてはならぬ。そのためには手段をえらばない。
これがシャルル・ダンジューなのであった。
コンラディン処刑の数日後、シャルルはブルゴーニュ候家のマルグリットを二度目の妻とした。
ベアトリス・ド・プロバンスは、前年の七月にみまかっていたのである。
マルグリットは、中部フランスのオーセール、トンネールを含む所領を婚資としてもたらした。
