『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
6 江南の王朝
2 士と庶の際(けじめ)
南朝の政権は武人によって立てられた。しかしながら、南朝の社会のかがやかしい勢力は、武人ではなかった。
それは魏晋以来の、さらにさかのぼれば後漢以来の歴史をせおい、ながい伝統をほこる門閥(もんばつ)貴族であった。
むかしの中国には、自由業というものはない。
官僚になることがインテリにとって、ほとんど唯一の人生のコースであった。
しかも、これらの門閥貴族は、どんなにぼんくらであっても、家柄さえよければけっこうな官位にありつけた。
九品官人法(きゅうじんかんじんほう)とよばれる官吏登用法のおかげである。
「車から落っこちなければ、それで著作郎(ちょさくろう)、ご機嫌いかがですかと書ければ、それで秘書郎(ひしょろう)。」
著作郎とか秘書郎とかいうのは、貴族のわかものの将来の出世を約束してくれる初任官として、もっとも人気のあったものであるが、このようなことわざの生まれるのが、この時代であった。
王朝に功労のあったひとりの貴族は、郡の長官にとりたててやろうと天子からいわれたときに、こういってきっぱりことわった。
「貧乏をあわれんで、身いりのよい職につけてくださるのならありがたいが、てがらを認められたうえでの抜擢(ばってき)は、家名をきずつけます。」
家柄によって官位はえられる。王朝に対する功労によって官位をうるのは恥だ。
家門たかき貴族はそのように考えたのであった。
かれらは、短命な王朝にかかわりなく、貪欲に七の生活をたのしみつづけた。
くりかえされる王朝の革命に際しても、王朝と迎命をともにするどころか、あたらしい王朝にあっさり鞍がえした。
家門の維持が、もっとも大切なことと考えられたからであった。
ところで、これらの貴族は、すべて士族の階級に属した。
士族の下には庶民階級が存在し、「士と庶との際(けじめ)は天よりして隔(へだ)たる」という言葉に示されるように、士族と庶民とのあいだには、こえることのできない明確な一線がひかれていた。
王朝のもとに生活する人間には、租税とともに、土木工事や軍需品の輸送などの徭役(ようえき)の義務が課せられるたてまえであるが、士族には徭役免除の特典があたえられていたのである。
すべてが士族階級に属する貴族集団の内部には、さらにまたさまざまのヒエラルキー(階層)が存在し、それぞれの門閥の番付がきまっていた。筆頭に位するのは、晋王朝の江南侈転にあたつて行動をともにした、北方からの流寓(りゅうぐう)貴族であった。そのなかでも、とりわけ格がたかいのは、王氏と謝氏の二門閥である。
そしてふしぎなことに、江南土着の貴族はかえって第二流と考えられた。
江南に王朝ができるまで、中国ぜんたいからみると、そこが辺地のいなかだったからであろう。
さらに下層には、一定の地域社会に顔はきいても、中央政界とはあまり縁のない土豪が存在した。
この番付がもっともやかましくいわれるのは結婚のときであり、対等の家柄のあいだで縁組がおこなわれねばならなかった。上をあおげばいくらでも上があり、下をのぞめばいくらでも下のある社会、それが貴族社会なのである。
貴族からみていやしい家柄は寒門(かんもん)とよばれ、寒門の出身者は寒人(かんじん)とよばれた。
寒人のなかには下級士族のものもあっただろうが、その多くは庶民階級であったと考えられる。
さまざまのヒエラルキーからなりたつ貴族社会は、天子の権威をもってしてもつきくずすことのできない独自のルールによって動いていた。
宋の文帝の寵臣(ちょうしん)に、王弘(おうこう)という成りあがり者がいた。あるとき文帝が言った。
「おまえは貴族のなかまいりをすることを日ごろの念願としているが、王球(おうきゅう)の家にでかけたうえ、着席がゆるされるかどうかで、きまるであろう。
王球のところにいったなら、勅命をえているといって、さっさと腰かけるがよい。」
王球は一流中の一流の名門である。さて王弘がやってきて腰をおろそうとすると、王球は扇(おうぎ)をかざしつつ、「ならぬ」との一言。
王弘はすごすごひきあげざるをえなかった。
文帝は「朕(ちん)にもいかんともすることはできぬのだ」と、ためいきをついた。
そもそも南朝の天子は、武人の出身である。武人の家柄はおおむねいやしい。
というよりもいやしい生まれのものが天子になった、というのが正しいであろう。
家柄のことばかりをとやかくいう貴族社会にいられない寒人たちにとって、じぶんの実力がすなおに評価される世界、それが武人の世界にほかならなかったからである。
だが武人出身者による王朝が、いったんできあがってしまうと、王室は貴族社会の手なおしをすることよりも、ひたすら貴族化の道をたどった。
その端的なあらわれは、王室と一流貴族たちとのあいだにかわされる縁組である。
しかし、その出身がいやしいために、内心では王室を小馬鹿にしている貴族たちは、天子の娘をおしつけられて、かえってありがた迷惑を感じた。
貴族たちとしては、天子はただ貴族社会のルールを承認し、じぶんたちの権利と安全を保証してくれさえすればよかったのである。
宋の文帝の三十年におよぶ治世が、そのときの年号をとって「元嘉(がんか)の治(ち)」の名のもとに称賛されたのは、貴族の代表である朝臣の意見を、文帝がじゅうぶんに尊重し、天子と貴族による一種の合議政治がおこなわれたのを、まことに結構なことだ、と感じた貴族の心情をものがたっている。
一方、王朝革命のさいにいつも主動力となる武人は、いったん革命が成功してしまうと、革命の進行中にはせいぜい知らぬふりをよそおっていた貴族によって、その成果を横どりされてしまった。
そして、じぶんたちの親分であるべきはずの天子は、貴族となれあいの関係を生じ、武人たちは礼会の下ずみにおきざりにされたままであった。
武人はあらたに別の親分をさがさねばならない。
こうして、つぎつぎに軍隊によってかつぎあげられた野心家の諸王や将軍の挙兵があいつぎ、それが失敗すると、こんどはそれをたいらげた将軍が権力をにぎる。
宋から斉へ、斉から梁への王朝交替は、どれもこのような経過をたどったのである。
6 江南の王朝
2 士と庶の際(けじめ)
南朝の政権は武人によって立てられた。しかしながら、南朝の社会のかがやかしい勢力は、武人ではなかった。
それは魏晋以来の、さらにさかのぼれば後漢以来の歴史をせおい、ながい伝統をほこる門閥(もんばつ)貴族であった。
むかしの中国には、自由業というものはない。
官僚になることがインテリにとって、ほとんど唯一の人生のコースであった。
しかも、これらの門閥貴族は、どんなにぼんくらであっても、家柄さえよければけっこうな官位にありつけた。
九品官人法(きゅうじんかんじんほう)とよばれる官吏登用法のおかげである。
「車から落っこちなければ、それで著作郎(ちょさくろう)、ご機嫌いかがですかと書ければ、それで秘書郎(ひしょろう)。」
著作郎とか秘書郎とかいうのは、貴族のわかものの将来の出世を約束してくれる初任官として、もっとも人気のあったものであるが、このようなことわざの生まれるのが、この時代であった。
王朝に功労のあったひとりの貴族は、郡の長官にとりたててやろうと天子からいわれたときに、こういってきっぱりことわった。
「貧乏をあわれんで、身いりのよい職につけてくださるのならありがたいが、てがらを認められたうえでの抜擢(ばってき)は、家名をきずつけます。」
家柄によって官位はえられる。王朝に対する功労によって官位をうるのは恥だ。
家門たかき貴族はそのように考えたのであった。
かれらは、短命な王朝にかかわりなく、貪欲に七の生活をたのしみつづけた。
くりかえされる王朝の革命に際しても、王朝と迎命をともにするどころか、あたらしい王朝にあっさり鞍がえした。
家門の維持が、もっとも大切なことと考えられたからであった。
ところで、これらの貴族は、すべて士族の階級に属した。
士族の下には庶民階級が存在し、「士と庶との際(けじめ)は天よりして隔(へだ)たる」という言葉に示されるように、士族と庶民とのあいだには、こえることのできない明確な一線がひかれていた。
王朝のもとに生活する人間には、租税とともに、土木工事や軍需品の輸送などの徭役(ようえき)の義務が課せられるたてまえであるが、士族には徭役免除の特典があたえられていたのである。
すべてが士族階級に属する貴族集団の内部には、さらにまたさまざまのヒエラルキー(階層)が存在し、それぞれの門閥の番付がきまっていた。筆頭に位するのは、晋王朝の江南侈転にあたつて行動をともにした、北方からの流寓(りゅうぐう)貴族であった。そのなかでも、とりわけ格がたかいのは、王氏と謝氏の二門閥である。
そしてふしぎなことに、江南土着の貴族はかえって第二流と考えられた。
江南に王朝ができるまで、中国ぜんたいからみると、そこが辺地のいなかだったからであろう。
さらに下層には、一定の地域社会に顔はきいても、中央政界とはあまり縁のない土豪が存在した。
この番付がもっともやかましくいわれるのは結婚のときであり、対等の家柄のあいだで縁組がおこなわれねばならなかった。上をあおげばいくらでも上があり、下をのぞめばいくらでも下のある社会、それが貴族社会なのである。
貴族からみていやしい家柄は寒門(かんもん)とよばれ、寒門の出身者は寒人(かんじん)とよばれた。
寒人のなかには下級士族のものもあっただろうが、その多くは庶民階級であったと考えられる。
さまざまのヒエラルキーからなりたつ貴族社会は、天子の権威をもってしてもつきくずすことのできない独自のルールによって動いていた。
宋の文帝の寵臣(ちょうしん)に、王弘(おうこう)という成りあがり者がいた。あるとき文帝が言った。
「おまえは貴族のなかまいりをすることを日ごろの念願としているが、王球(おうきゅう)の家にでかけたうえ、着席がゆるされるかどうかで、きまるであろう。
王球のところにいったなら、勅命をえているといって、さっさと腰かけるがよい。」
王球は一流中の一流の名門である。さて王弘がやってきて腰をおろそうとすると、王球は扇(おうぎ)をかざしつつ、「ならぬ」との一言。
王弘はすごすごひきあげざるをえなかった。
文帝は「朕(ちん)にもいかんともすることはできぬのだ」と、ためいきをついた。
そもそも南朝の天子は、武人の出身である。武人の家柄はおおむねいやしい。
というよりもいやしい生まれのものが天子になった、というのが正しいであろう。
家柄のことばかりをとやかくいう貴族社会にいられない寒人たちにとって、じぶんの実力がすなおに評価される世界、それが武人の世界にほかならなかったからである。
だが武人出身者による王朝が、いったんできあがってしまうと、王室は貴族社会の手なおしをすることよりも、ひたすら貴族化の道をたどった。
その端的なあらわれは、王室と一流貴族たちとのあいだにかわされる縁組である。
しかし、その出身がいやしいために、内心では王室を小馬鹿にしている貴族たちは、天子の娘をおしつけられて、かえってありがた迷惑を感じた。
貴族たちとしては、天子はただ貴族社会のルールを承認し、じぶんたちの権利と安全を保証してくれさえすればよかったのである。
宋の文帝の三十年におよぶ治世が、そのときの年号をとって「元嘉(がんか)の治(ち)」の名のもとに称賛されたのは、貴族の代表である朝臣の意見を、文帝がじゅうぶんに尊重し、天子と貴族による一種の合議政治がおこなわれたのを、まことに結構なことだ、と感じた貴族の心情をものがたっている。
一方、王朝革命のさいにいつも主動力となる武人は、いったん革命が成功してしまうと、革命の進行中にはせいぜい知らぬふりをよそおっていた貴族によって、その成果を横どりされてしまった。
そして、じぶんたちの親分であるべきはずの天子は、貴族となれあいの関係を生じ、武人たちは礼会の下ずみにおきざりにされたままであった。
武人はあらたに別の親分をさがさねばならない。
こうして、つぎつぎに軍隊によってかつぎあげられた野心家の諸王や将軍の挙兵があいつぎ、それが失敗すると、こんどはそれをたいらげた将軍が権力をにぎる。
宋から斉へ、斉から梁への王朝交替は、どれもこのような経過をたどったのである。