M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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モダンアートと浅草

2015-06-03 | エッセイ

 毎年、必ず見ている公募展がある。それは、モダンアート展。もうモダンという言葉が古く感じるのだが…。

 上野公園の都美術館で、毎年2週間公開されている。昔はもっと会期が長かったと思うけど、最近はどの公募展も短くなっているらしい。親父が生前やっていた新構造社展などは、一週間しか会期がない。美術館の方針なのだろう。それとも、公募展そのものが衰退の方向に向かっているとも言えそうだ。



 モダンアートを見に行くのは、目的は一人の画家の絵を見るためだ。モダンアート展、全体を見る目的ではない。ここ何年、欠かさず見ているのは、僕には楽しい意義があるからだ。彼女の絵はどう変化し続けるのだろうかという興味があるのだ。

 タネを明かせば、彼女は僕の本当の初恋だった人。本当という意味は、単なる恋愛ごっことか、初恋にあこがれるというようなものではなく、僕にとっても、彼女にとっても、人生を生きている限り、忘れ去ることができない出会いと時間だったからだ。

 手短に言うと、彼女が女子美生で僕が大学生のころ、1年半ぐらいの生活を共に送ったからだ。1962~3年のあの時間は、南こうせつが1973年に発表した大ヒットの「神田川」の歌詞の内容と、そっくりそのままだった。神田川が、神田川の支流、桃園川だったぐらいが違いだ。「小さな石鹸、カタカタ鳴った」のだ。三味線橋のぼろアパートだ。

 無用な傷つけあいで、二人は別れた。彼女の生活は荒れた。僕も、心の襞の中にその傷をとどめながら、今日までやってきた。思い出は、見上げる夜空の銀河の彼方に飛び去ったことはない。別れてから彼女とは、一度だけ銀座資生堂パーラーのグループ展であっただけだ。

 僕は会いたいと思うけれども、彼女に拒絶され続けている。もう昔のことですから…と。 だとすると、あとは僕が、彼女の絵を見続けるしかない。

 彼女の絵は、前回同様、第一室の最初の壁面に展示してあった。まあ、贔屓目だとしても、モダンアート展の中で、現役会員として活躍しているのがわかる。

 絵はまた少し変わった。同じ色、同じモチーフなんだけれども、少しずつ、具象を思わせる、物語が画面に現れていた。えんじ色に近い赤と、青、そしてラインは黒と黄色。その中にいろいろなものに見える形が描かれている。ああでもない、こうでもないと、悩みながら、美しい顔を歪ませながら、描いている彼女を感じる。彼女の絵は進化し続けている。絵が生きている証拠だと思った。

 彼女の絵を見れば、もう後はさっと各室を回ってみるだけだ。興味がわいて足を止めたのは数点のみ。モダンアートの魅力が少しずつ失われていくようだ。モダン=先端性が薄れていきつつある。考えてみれば、この会も古い。結局、30分ぐらいで出てきてしまった。



 外に出ると、緑と暑さが押し寄せてくる。緑はきれいだ。少し歩いてみようと、動物園の前の小さなメリーゴーランドの前を通り、久しぶりに鶯団子をのぞいて見る。入る気はしない。東洋からの外国人が興味を持ったようで、アジサイ花の間の石段を登って行った。

今日は、ぜったいに浅草に行ってやろうと思っていた。昨年、偶然見つけた台東区が運営するバス、「めぐりん」で上野公園口から直接浅草に出られるのだ。100円。台東区役所や、河童橋、どぜうの飯田屋さん、ロックを巡って、雷門まで20分くらいだ。下町ののんびりバスの旅も面白い。



 浅草に来た目的は、二つ。一つは蕎麦を食うこと。もう何十年も通っている蕎麦屋TDに入ってみる。改善されたかと思っていた、入り口正面のキャッシャーマシンはそのまま、でんと構えている。最初から、金を払えと主張しているように見えるのだが。

 ここも代がわりで、メニューが変わった。手打ちのそばを食わす、酒を飲ますっていうことから、おのぼりさん相手に、見映えのいい天せいろとか、金ぴかの大きな器にもったそばが主流だ。もはや酒は飲めそうにない。いつものように、鴨せいろをさっと食べて、出てきてしまった。隣には、僕が入った時からメニューを眺めて品選びをしていたご夫婦が、やっと決まったその日のおすすめ、天ぷらそばを待っていた。

 後、もう一つの目的は、やげん堀の大辛を買うこと。店でないとできない、山椒と苧の実(麻のみ)をちょっと多くしてもらうことだ。目の前で、手際よく調合してくれるのがうれしい。もちろん、出来上がった香もかがせてくれる。こういうのがうれしい浅草だ。



 ちょっと足を延ばして、季節外れのシトーレンを買いに、アンジェラスへ。新仲見世も、仲見世も、学生と外国人だらけだ。スカイツリーが出来て、落日の感じだった浅草も、元気になったようだ。でも、古くからの浅草を好んでいる者にとっては、いらぬことをしてくれたと、高いだけが取り柄で、浅草のシンボルにはならない塔を見上げて、地下鉄の駅に向かう。