久しぶりに先輩と銀座で会うことになって、その前に築地場外を歩いてみた。築地には、もう何十年も来ていない。最後は、会社の築地サイトのあった勝鬨橋のすぐそばのビルに一か月くらい詰めていた時だ。
会社のカフェテリアは本当に餌(えさ)を食うといった感じで、楽しくない。結果として、大体、昼飯は築地のすし屋だった。今はビルになって無くなったようだが、晴海通りを築地四丁目のほうに歩いていくと、左側にも小さな寿司屋が並んでいた。
昼休みだから、並んでなんかいられない。時間がないのだ。そこで、秘書さんの出番。食いに行く人たちのすしの注文を取って、電話で注文してもらう。開店時間にぴったり行けば、2貫ずつ乗った小皿が準備されていて、名前を言って出してもらって、食べてすぐ出てくる。こんな方法で、うまいにぎりを短時間で食べることが出来た。感謝。
そんな思い出を持って場外を冷やかしてみる。平日の昼間なのに、人でいっぱい。細い通りには人があふれている。最近は「築地」が有名になりすぎて、外国人が観光目的で、築地に現れるようだ。結果として、小さな通りにも、人があふれている。はたして、本当の買い物客はどれだけいるかはわからない。観光で、「来たよ」と証拠写真を撮って帰るだけなのかもしれない。

<築地場外>
外国人の中でも中国人は、子音の連続のきつい発音と声量で、圧倒的な存在だ。これが本当の喧噪の世界となる。そんな路地をちょっと注意してみると、ポカッとあいた空間に小さな墓地が門の奥に潜んでいた。入ってみると、もう寺自体は無いようだ。墓だけが昔のごとく残されている。外の喧騒と、無言のコントラスト。写真を撮らせてもらって、出て来た。

<築地の中の墓地>
約束の、銀座の4丁目に戻ると、先輩は約束の時間の15分も前なのに、ライオン像のところで僕を待ってくださった。もうせん、約束した時は、銀座三越のライオンの前と約束したはずなのに、前日に確認の電話をしたら、6丁目のライオンビヤホールで会うのだと思っていたようで、あわや行き違いになるところだった。今回は前日、4丁目のブロンズのライオン像の前と確認の電話をしてあった。僕が横断歩道を渡って三越につくまえに、手を挙げていらした。
サッポロのライオンは古くて、81周年記念とある。戦前から同じ場所で、同じ建物で営業している、古い、古いビヤホールだ。ドイツのビヤホールを摸して、うるさいほどの音楽がかかっている。僕は、ビールは「とりあえず」ではなくて、本当はワインか、サワーの方がいいのだが、先輩がビヤホールだからビールだろうという言葉に従って、生の小ジョッキをもらう。

<ライオン>
僕の好みで注文してと言われ、好物のサワークラウト、ニシンの酢漬け、ソーセージ、枝豆、お新香とメニューを指さしたら、先輩がさらにエビフライを食べたいとのこと。それで注文は完了。
男同士の話だから、昔、いっしょにやり遂げた大きなプロジェクトの話になり、懐かしい課長の話になり、さらには政治の話になった。安倍さんのやり口は本当に汚いと意見は合った。
古い銀座の店はどんどんなくなっている。そして跡地にはブランドの専門店ばかり。昔あった「銀座百点」の小冊子も、薄くなってしまって、個性のある古い店はほとんど姿を消した。これでは、全く面白くもない。ここも外国人だらけだ。大きなスーツケースを引いて、歩道を我が物顔にグループで歩いている中国人。まるで、占領されているようだ。
記憶のある店を、5丁目から数えてみると、菊水、かねまつ、ヨシノヤ、ワシントン、鳩居堂あたりだ。僕には、菊水が懐かしい。パイプをやっていた頃、何度も足を運んだところ。アイルランドのピーターソンにクラックを入れてしまい、銀巻の修理をしてもらった覚えがある。

<銀座>
二人で、銀座で目の前に銀座通りを見渡せる唯一の喫茶店、文明堂に入って、お店のブレンドを飲む。先輩は昼のアルコールが利いたようで、赤い顔。少し眠いやということで、お開きに。店のレジの人に、頑張ってこの店を続けて下さいと挨拶をして、4丁目の地下鉄の入り口で別れて、一人、有楽町に戻った。
先日の軽井沢銀座でも感じたことだが、名前の知られている有名なところは、ご本家の銀座を含めて、金持ちの外国人に幅をきかされ、日本人は肩身の狭い思いをしているようだ。いつか日本人の客は嫌になって、寄り付かなくなるかもしれないなどと思った午後の時間だった。伝統ある街を守ることは、本当に大変なことだと、粋だった旦那衆のため息が聞こえた気がした。
美しい秋晴れの好天だったが、ちょっと暗い思いの時間にもなった。