M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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心のお袋、ミュリエルを亡くした

2018-01-28 | エッセイ

 僕の心のお袋、ミュリエル・ジェイムス博士を100歳で亡くした。この1月10日(2018年)のことだ。サンフランシスコに住む、TA(Transactional Analysis)の仲間、R子さんからのメールで知った。



 <故 Dr. ミュリエル・ジェイムス:99歳の頃>

 もう十年以上前から、ミュリエルは一人住まいだった。夫を亡くし、息子に先立たれ、恋人を亡くし、サンフランシスコ近郊のウォールナット・クリークの高級アパートで、介護付きの生活をしていた。遅かれ早かれ、いつか訃報が届くだろうと、心の準備はできていた。

 2011年の1月の手紙が、ミュリエルからの最後の便りになった。その後も、4年前までは、僕と電話で話し、僕のクリスマスカードを喜んでいてくれたのだが、その後、急速の衰えたようで、電話にもまともな応答はできなくなっていた。

 僕にも実の親父とお袋がいた。お袋は僕が小学3年の時、家を出て土佐の実家に帰って、僕の側にはいなかった。親父からは、高校入学と同時に独立した。中学までは義務教育だが、「そのあとは自分でやれ」といわれた。寝るところと食事は知人に頼んで与えてくれたが、彼は新しい妻と暮らし始めていた。その後、いろんな人の力を借りながら、独力で大学を卒業し、就職してIBMに入社した。

 これで身についたのは、「何でも、一人で、独力で頑張る」というパターンだった。一人で仕事ができる間は、問題なく順調に仕事をこなしていた。しかし、大きなプロジェクトを任された30歳過ぎからは、部下をうまくまとめられず、部下の8割からは、もう二度と僕とは仕事はしたくないという、ショッキングな評価が示された。IBMは日本ではほかに例を見ない不思議な会社で、課長以上の勤務評価は、ボスのみならず部下も評価し、それが本人にもフィードバックされる仕組みだった。

 強引に自分一人で計画を立て、部下にやらせるという仕事の進めかたは行きづまった。



 <心の親父、故 岡野先生>

 会社の管理者教育で知り合った故岡野先生に出会ったのが、僕の救いだった。渋谷の小さな研究所を訪れたのが切掛けで、先生に僕の行動をグループワークの中で客観的に見てもらい、他からどう見られているか、どう受け取られているかをフィードバックしてもらった。そんなコーチングを2年弱、続けた。同時に先生のTA研究会に入り、TAの基本を勉強し、自分の心の動きと、客観的に見える姿とのギャップを知ることを続けた。結果、先生は、僕に僕自身を発見させてくれた。彼が、僕の心の親父だった。

 岡野先生に、IBMをやめて先生のTA研究所に弟子入りしたいと申し込んだのが、僕が50歳。セカンドライフでやりたい仕事だと考えていたのだ。しかし、先生には断られた。個人の持つ経験などからできあがるカリスマ性は外からは教えられるものではないとの理由だった。確かに、属人性の資質は簡単には身につかない。

 そして岡野先生が、僕に勧めてくれたのがミュリエル博士のTAワークショップへの出席だった。それは、ミュリエルが毎年夏に開いていたカリフォルニア・タホ湖でのフィールドワークを含めたワークショップだった。



 <ミュリエルと僕>

TA(交流分析)の生みの親であるエリック・バーンの直弟子となるミュリエルの1991年のワークショップには、世界中から人種、性、国籍、言葉、宗教、職業、年齢、肌の色、そして金持ちだとか貧乏だとかの属性の違う人々が、20名くらい集まった。本当にインターナショナルなグループだった。参加者の目標も、バラバラ。TAをより深く研究するとか、TAを自己体験するとか、今持っている問題からの解放だったり、精神的な健康を取り戻すためとか、いろいろだった。



 <タホ湖とコンドウ>



 <ネブラスカのジュディー>

 ワークショップは、1テーマ、1週間のコンドミニアムでの合宿で行われた。僕は3週間いたから、3つのグループに入って合宿を体験した。一つのコンドウに、ミュリエルが選んだ5~6人が24時間、共に過ごすことになる。一日ぐらいだったら、自分を繕い、演技することも出来るが、1週間、24時間は全く無理。自ずと、自分をさらけ出すことになる。つまり、地でいくことが要求されるし、人間関係も濃密になる。



 <TAのセッション>

 ミュリエルのワークショップで学んだことは、たくさんあるが、僕自身の発見につながったフィールドワークは、タホ湖に隣接する2千m越えのシェラネヴァタ山脈の原始林で行われたフィールドワークでのことだった。

 僕の心の奥底にひっそり隠れていた淋しさを、僕は発見したのだ。

 シェラネヴァダの人気の無い原始林で、2時間ほど心を空にして一人で歩き回って過ごす。森を吹き抜ける風とその風音に身を任せ、心を空っぽにする。そしてその後、急に心を意識の世界に向ける。すると最初に目に飛び込んできたものが、僕の心で気になっているものだという。僕の心に最初に飛び込んできたものは、林の中の開けたところにあった木の切り株だった。



 <切り株:アンナ>

 その切り株は、飼っていたが、なかなか面倒を見られないでいたシュナウザー犬のアンナの姿、そのものだった。ぽつねんとうずくまっている寂しげな犬の姿を見た。それが、僕の心の奥に隠れていた心のさみしさだと、ミュリエルは解釈してくれた。まさに、かまってほしいという心を抑えて、座り込んで手が伸びて来るのを待つ犬の姿だった。

 このフィールドワークでの発見を、みんなの前で説明しているとき、目から大粒の涙がボロボロこぼれてきて、いつか僕は、大声を出して泣いていた。それを、みんなが優しい感情で見守っていてくれた。皆からのフィードバックという慰めを受けて、淋しさを表に出すことは許されるのだと、僕は確信した瞬間だった。それは、小さな子供の心が、50年も、心の底にため込んでいた感情だった。

 ミュリエルに教わったことは、自分として、自由に行動できるということだった。そして、それはほかの人に受け入れてもらえるのだから、自分の地のまま、素直に生きるということだった。感謝だった。彼女は僕に、フリー・チャイルド(無垢な子供の心理状態)で生きろと、別れ際に本にサインしてくれた。



 <代表作の本とサイン>

 これがミュリエルを、僕の心のお袋と呼ぶようになった理由だ。

 この経験がもとで、IBMを早期退職して始めた「人の性格とコミュニケーション・カウンセラー」の仕事を、セカンドライフの仕事に、僕は選んでいた。


 昨日、去年12月にミュリエルに送った、最後となったXmasカードについて、ミュリエルの友達の公認会計士・サリーさんから、ミュリエルは体調が悪いから返事は出せないでいるのよ、という手紙がきた。それには、ミュリエルがまだこの世に生きていた1月5日のオークランドの消印があった。

 なんだか、天国に召されたミュリエルが、カードに返事をくれたように感じた。ありがとう、ミュリエル。

 これで、実の両親を亡くし、さらに心の親父とお袋を亡くして、一人で自分を生きることになった。もう相談相手は、この世にはいない。