29歳で初めて赴任した僕は、ミラノで当時としては珍しい日本人だった。イタリア語はほとんど話せない僕に、土地の人はとても優しくしてくれた。マンションの管理人、お医者さん、トラトッリアのカメリエーレ(給仕)、床やさん、イタリア語の先生、会社の友達たち、町で出会った数知れない人たちなどにお世話になった。こうした人たちの優しさが、ミラノに対する好印象を僕に与えた。

<第三の世界>
彼らの生活をよく見てみると、仕事と家庭の他に、何か三番目の世界を持っていた。たとえば、会社ではコンピュータの組み立てをしているブルーカラーの人が、イタリア・カヌー全国協会の理事だったりして、そのギャップにビックリ。会社での自分より、地域社会における自分の方が、数段、皆に必要とされ尊敬されているわけだ。もちろん、彼も人生を楽しんでいる。
こんな世界を、ワルツの世界と僕は例えている。日本人はどちらかというと、オイッチニ、オイッチニの二拍子(仕事⇔家庭)の世界だけれど、彼らはワルツの三拍子の世界に住んでいると感じたわけだ。
日本人は、男はがむしゃらに仕事中心の世界にドップリ。でも退職すると何もやることがなくて、カミさんに邪魔にされるってことも…。僕の年上の部下の人にも、そんな例がいくつかあった。彼らは二拍子の一拍を失ったら、動けないのだ。三拍子のワルツなら一つを失っても、まだ二つの世界があるから自分の世界が開けるのだが…。
僕がSEという仕事の他に、何かやろうと始めたのがTA(交流分析)の研究だった。それは単なる学びではなくて、自分自身をよりよく知り、他の人との交流の質を上げるためでもあった。おかげで、僕の交流の世界は広がった。さらには、TAがセカンドライフの僕の仕事になっていった。つまりカウンセラーという仕事の糸口は、この第三の世界から始まったわけだ。
SEの仕事を早期退職、カウンセラーを始めた。すると、もう一つの世界がやはり欲しくなった。それが、ボランティアの世界だった。英語とイタリア語を使ったボランティアがやりたかったのだ。僕が昔ミラノで受けたイタリア人からの好意に対するお返しにでも…、と思ったからでもあった。積極的に語学関係のボランティア活動を探した。それが僕の次の第三の世界になっていった。
ちなみに、ボランティア活動とは、ボランティア白書に次のように定義されている。
「個人が自発的に決意・選択し、人間の持っている潜在的能力や日常生活の質を高め、人間相互の連帯感を高める活動」
伊東市とイタリア・リエティ市との交流 ボランティア1
僕がオーストラリア移住を健康問題であきらめた時、横浜から移り住んだのが伊豆高原だった。伊東市とイタリアのリエティ市が、国際交流をしているのを僕は知った。イタリアとの交流に何かにお役にたてたら、僕がミラノで受けた恩義にわずかでもお返しが…と思ったからだ。もちろん僕自身も楽しみながら。

<リエティの樽乗りと伊東のたらい乗り:そっくりな競技>
ローマが州都のラッチオ州リエティ市(ローマから北東へ80㎞の町)では、昔からワイン樽を半分に切ったものに若者が乗り込み、年一度、地区対抗競争をしていたそうだ。リエティ市が偶然、伊東の「たらい乗り」を知り、そこで交流が始まったと聞く。
僕は交流協会の会員になって、この交流に参加した。リエティ市との間では、密な関係が出来ていた。毎年の高校生による相互訪問や、リエティからの短期留学生による伊東市民を対象とするイタリア語講座の開催とか、リエティ市から寄贈されたモニュメントの設置イベントなど、さまざまだった。
僕は、リエティからの学生がやるイタリア語講座のサポートに時間を使った。ひと夏、4週間くらいのイタリア語クラスの補助をやるのだ。イタリア語が初めての市民の方々に、全く日本語とは違うイタリア語の構造的な特質を日本語で解説し、イタリア語で質問できない事を、日本語で説明してあげるとかの役割だ。僕のイタリア語の勉強にも勿論なった。

<イタリア年>
2001年は「日本におけるイタリア年」だった。リエティからボランティアの6名がやって来て、オリーブオイルを絞る大きな石臼を記念碑として伊東に設置、寄贈した。この6週間の間のイタリア語によるサポートは、大きな出来事だった。

<石臼>
完成式典には、イタリア大使も出席され、リエティの市長をはじめ、多くのイタリア人が伊東市民に暖たかく迎えられ、巨大な石臼が伊東市の「リエティ広場」に出現した。この石臼の据え付け作業をしたチームの中に、今は亡くなったフルヴィオがいた。彼は金属加工の専門家で、ローマ・ポポロ広場に立つサンタ・マリア・デル・ポポロ教会の丸屋根の修復工事に参加した経験を持っていた。1099年頃の教会の屋根だった鉛の素材と、それを止めていた釘を、記念に僕にプレゼントしてくれた。重かったろうに。

<屋根の鉛の板と釘>
その2に続く