M.シュナウザー・チェルト君のパパ、「てつんどの独り言」 

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下宿とアパート

2021-03-07 | エッセイ

 自分の人生を、ある切り口で振り返ってみたいという気持ちで書いているエッセイがいくつかある。今回のテーマは「下宿とアパート」だ。

  僕が下宿生活を始めたのは、僕が大学に入学の時。大阪市立大学時代に、近鉄・南大阪線の河堀口(こぼれぐち)という駅の近くの下宿屋だ。もう名前さえ忘れてしまったけれど、ここは長い間、下宿を生業としてやっているプロの下宿屋さんだった。 僕が入った時には二人先輩がいて、一人は商学部、もう一人は法学部の同じ市立大学の学生だった。昔からずっと、市立大生の下宿屋をやっていたようだ。大学ヘは、阪和線の美章園駅から杉本町だった。

<大阪市大 杉本キャンパス by Kishuji Rapid Creative Commons 4.0>

  下宿というのは、朝飯と夕飯がついて、掃除と洗濯をしてくれる間借り生活と考えていただければいいだろう。管理人さんも感じが良くて、少し遅くなっても夕食を残しておいてくれるという親切を感じた。

 ここでの大きな出来事は、タバコが吸えるようになったことだろう。高校時代には手を出さなかったタバコだが、なんとか大人風にタバコを吸いたいと思ったわけだ。 当時はまだ「洋モク」と呼ばれた外国タバコは、闇市でしか買えなかった。 難波の千日前に、おばさんが大きなエプロンをして立っている。 パチンコ屋の隣だ。 そこで銘柄をこっそり話すとラッキーストライクとか、マルボーロとか、ジタンとかを買うことができた。値段は高かったが、ある意味アクセサリーなので洋モクを吸っていた。

<ジタン>

 しかしタバコは簡単には吸えなかった。 強烈な臭いがこもるので、部屋では吸えない。物干し台に登って外を見ながら練習するわけだ。 むせかえりながら、なれていった。 1ヶ月もかかったか、やっとタバコを普通に吸えるようになった。その後、50歳までたばこを吸い続けていたわけだから、今から思えばとんでもない自習だった。

 60年安保闘争の後の問題もあり、ここには1年6ヶ月ほどしかお世話にならなかった。僕が市大を中退して、東京・谷中への望郷の念に駆られてか、一人で東京に舞い戻ってきたからだ。

 東京では早稲田に入るつもりだったから、高校の同級生だけど、早稲田では先輩になる炬口の早稲田の下宿に転がり込んだ。 南こうせつの「神田川」が流行る以前のことだが、神田川の見える四畳半の下宿に転がり込んだ。 ここにどのくらいいたのか、よく覚えていないけれど、6ヶ月位はお世話になっていたと思う。喧嘩しないで男二人が鼻は付き合わせて、よく下宿生活をしたものだとも思う。 彼は4年前に脳梗塞で亡くなった。

 僕はアルバイトをしながら、テンプラで早稲田の授業を受けにいっていた。 テンプラっていう言葉は、今は死語になっているようだが、その学校の学生ではない人間が、学生かのように振る舞って、大学の授業を受けることを言っていた。 この下宿は、食事は出なかったから、早稲田の神田川に沿って何軒もあった定食屋にお世話になった。定食屋さんはつけだったから、おそらく何千円かを踏み倒したと思う。

<早稲田の定食屋>

 その後、僕の本当の初恋の人となった女子美生の下宿に、本当に短い間住んだことがある。西武池袋線の江古田の近くだった 。そこは本当に短くて、その後、2人プラス1、合計3人で、中野の三味線橋(今は暗渠になって橋はない)の近くにアパートを借りた。同棲と呼べるかどうかは分からないが、初めてのアパート生活だった 。その人との話は、別のエッセイで書いているから、ここでは書かないが、二人の女性と僕との変則的な同棲生活となった。僕の恋人の N さんは、わけあってセックスのできない体になっていた。 だからいわゆる同棲ということではないから、3人の共同生活と呼んでも構わない。 

 この三味線橋のアパートには、結構お世話になったと思う。僕が学費の安い法政に入って1年半ぐらいはここにいたと思う。 だから鍋屋横丁、女子美、中野などという言葉を聞くとかなり心が動揺する。二人の美術生のアトリエになって、部屋はいつもターペンタインの香りがしていた。

<アトリエ>

 Nさんは 女子美を卒業後もプロの絵描きとなり、油絵の制作を続けている。東大でフランス歴史関係の研究をやっている人と結婚して、東京に住んでいる。”もう古い話ですから…”と会ってもらえない。だから一人で毎年4月、上野の都美術館に彼女の絵を見に行っている。絵を見ていると、作家がどんな感じなのかを読み解くことができるから、出来る限り見ることにしている。

  彼女のアパートを出てから、親父が借りていた谷中のアトリエに住んでいた。親父が東京に帰ってくるということで、荒川を超えた西川口に小さなアパートを姉と一緒に借りた。西川口は全く興味の起きない、ただ寝るだけの場所だった。

<自由が丘駅 by 東急>

 その後、僕の就職のこともあり、自由が丘駅近くにあった木造アパートの一部屋を姉と二人で借りて住んだ。おそらく6年くらいは住んでいたと思う。つまり大学生時代と、就職が決まってからも、職場までここから通いながら住んでいた。 だから自由が丘はよく知っている。もちろん今は変わってしまった自由が丘だけれど、土地勘は残っている。

  この後、その頃のみんなの憧れだった公団住宅に応募して、何回目かで当選した。 それが新築の横浜・左近山団地だった。 当時としては珍しい10階建で、その8階に住んでいた。 一人では応募資格が無かったので、姉と二人で応募したわけだ。

<UR左近山1街区>

 次は駐在員として、イタリア・ミラノのアパートを借りることになった。アパルタメントと言うが、日本でいう賃貸マンションだ。 ミラノのガロファロ通り32だ。ミラノの庶民の街、 コルソ・ブエノスアイレスにも近く、メトロのリマが最寄り駅だった。2年ちょっとミラノにいたことになる。気持ちの上では僕の第二の故郷になった。

<グランサッソ・ミラノ>

 任期を終えて左近山団地に戻ったが、ここは姉に任せて、僕は戸塚に自分の家を建てた。30ちょい過ぎで自分の家を建てるということは、とても早いほうだったと思う。

 しかしその後、この家は、僕にとっては週末、子供達とワンと時間を過ごす場所としての意味しかなくなってしまった。  カミさんとは、全く相容れない価値観を持っているということが、家を建てたことによって明らかになり、諍いが絶えなくなった。

 僕は自宅を一人で出て、小田急相模原の賃貸アパート、M荘に住むことにした。環境的には素晴らしいところで、駅から歩いて5分。目の前が松林の静かな住宅地。買い物は歩いて3分の大型スーパーがあった。 六畳一間で、押入れと小さなキッチン、バスがついていた。 会社と、子供達のいる戸塚の家と、そして寝に返るアパートの三角形を行き来することになった。ここを選んだ理由の一つには、小田急線で学生時代によく通った新宿まで一本で行けることだった。

<小田急相模原 M荘>

  カミさんとは20年前の同意の通り、子供たちが大学を出て仕事を見つけて独立したのを確認して、離婚した。

 この小田急相模原のアパートを引き払った後、姉の住む左近山に戻った。

 会社を早期退職して、仕事とは別に20年ほど勉強していたカウンセラーの仕事を始めた。 一人で生きていくのは辛いと思ってクリスチャンのORさんと残りの時間を過ごそうと再婚した。 この時、借りたのが、南万騎が原のアパートだった。 目の前を東海道新幹線が走っていた。

  その後、仙台で自分のマンションを持って、子はかすがいならぬ、犬はかすがいで3人で生活していた。しかし、二人の子供だったシュナウザーが9歳で、癌であの世に行った。すると残った二人の間には共通項が何もなくて、結果としては離婚することになった。

<UR能見台 by Google>

  横浜に帰ってきた。 手っ取り早いのが UR だと考えて、能見台の賃貸マンションに一時住むことにした。しかし、家賃が高くて、2回も離婚した僕の手持ちの金は潤沢ではなかったから慌てて中古マンションを探した。

 〆て、下宿が2ヶ所、賃貸アパートが8ヶ所の合計10ヶ所を動き回った生活だった。因みに、自分の「家」は、戸塚、伊豆高原、仙台、横浜ということになる。結果としては、荷物が少ない生活になっていた。



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