もう二週間も前の話ですが、なんと四連休がもらえたので、一日はマサチューセッツ州のFairhavenという町に行ってきました。ここは、ジョン万次郎がアメリカで最初に住んだ町で、Manjiro Trailというものまで出来ています。詳しくはこちら。
万次郎は、鳥島で何とか生きている所を助けてくれたWhitfield船長の家にまず滞在。1944年の事だそうです。最近、その家が競売にかけられたところを、聖路加病院の日野原先生が購入、その後Farihavenの街に寄付し、今はWhitfield-Manjiro Friendship Houseという名前で資料館になっています。
これがその家。
で、これが万次郎の滞在した部屋だそうです。
家具は全部、資料館にしてから買った物だそうですが、床は万次郎が住んだ時のままだそうです(塗料を塗りなおしているのでピカピカなんだけど)。窓からは海が見えて、万次郎は海を見ては日本に帰りたがったそうです。
こちらがキッチン
この床も、万次郎が歩いた床なんですぞ、と案内して下さった館長さんが仰ってました。
こちらが応接間。
このキルディングは、船長と万次郎の柄で、周りは万次郎の人生を描いた柄だそうです。万次郎の故郷の土佐清水のキルディングのグループが作ったそうな。
こちらが船長の部屋。
当時のランプは鯨油を使ったそうです。Fairhavenは捕鯨船の街で、勿論船長も捕鯨をしていた人です。
はてさて、天皇皇后両陛下が、皇太子・皇太子妃だった頃にFairhavenを訪問され、東山魁偉の作品をFairhavenの図書館にいくつか贈呈されたそうです。その内四枚がこの資料館にありまーす。素敵でした。
家を一通り見たら、館長さんがジュースとお菓子を振舞って下さり、更に色々教えて下さいました。なんでジョンというニックネームになったのか、という私の素朴な疑問の答えがこちら。
助けてくれた船の名前がJohn Howlandだったので、そこからJohnという名前になったそうな。アメリカに住んで自分でもJohn Mungとサインしていたそうです。
ジョン万次郎ツアーはここで終わりではありません。万次郎が最初に通った学校へ!
既に17歳くらいになっていたのですが、このワンルームの学校で基礎的な勉強をしたそうな。このABCは万次郎が書いた物だそうでーす。
学校の中には、当時の学生の典型的な服を着せた人形と机と椅子。私も座ってみましたん。
こちらは展示してあった教科書。
この後、Whitfield家のお墓へ行き、館長さんとはお別れ。万次郎がお世話になったという近所の人の家も見て(私宅なので写真は無し)、Whitfield一家と万次郎が通った教会へ。
何が凄いって、元々船長が通っていた教会に万次郎を連れて行ったら人種差別をされたので、船長は怒って改宗し、このユニタリアンの教会に移ったそうな。教会の前には船長と万次郎の記念碑がありました。万次郎がクリスチャンになったかどうか、というのは不明だそうです。
ジョン万次郎は、アメリカに住んだ初めての日本人という事になります。私は六年生の時、劇団四季の「ジョン万次郎」を遠足で見に行ったのがきっかけで、ジョン万次郎の事を知って、今まで万次郎側の話は読んだりしましたが、今回、万次郎を助けた船長や、船長の家族の家、街、学校を見られました。Whitfield家の人たちは、家族の一員の様に万次郎を可愛がって、街の人も彼に親しく接したとの事。ここが日米交流の最初の土地、という事になります。勿論Fairhavenと土佐清水は姉妹都市。そんな船長さんに助けられて、フレンドリーな街に住めて、そして勿論、万次郎の聡明さがあって、後に日本の開国に繋がる働きになったんだなぁ。
中濱家(万次郎は帰国してすぐに武士の身分に格上げになり、故郷中の濱を苗字として名乗った)とWhitfield家はその後も交流が続いているそうで、1940年、Whitfield家の人たちが、日本に平和の使節の一員として訪問、対アメリカの戦争を止めさせる様に働きかけたそうです。それも空しく戦争に突入してしまい、当時日本を攻撃する部隊に入っていたWhitfield家の人は、「万次郎の故郷を攻撃したくない」と、転属したそうです。
そんな感じで、ずっと行ってみたかった万次郎トレール、行って参りました。資料館で、中濱万次郎五代目が書いた「ジョン万次郎」の本も買ってきましたよ。