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中野京子『新 怖い絵』内容と感想

2025-02-05 10:42:03 | 紙の書籍
角川文庫 中野京子『新 怖い絵』を読了しました。

内容と感想をざっくりと備忘録として書きます。
※ネタばれがありますのでご注意ください。
※文中の敬称は省略させていただきます。





【目次】
作品1 フリーダ・カーロ『折れた背骨』
作品2 ミレー『落穂拾い』
作品3 フラゴナール『ぶらんこ』
作品4 バルデス=レアル『世の栄光の終わり』
作品5 ジロデ『眠るエンデュミオン』
作品6 シャガール『ヴァイオリン弾き』
作品7 ブグロー『ダンテとウェルギリウス』
作品8 ドレ『ジュデッカ/ルシファー(『新曲』地獄篇〈第34歌〉)』
作品9 フリードリヒ『ブナの森の修道院』
作品10 ドローネー『ローマのペスト』
作品11 ゲイシー『自画像』
作品12 ティツィアーノ『パウルス三世と孫たち』
作品13 ミレイ『オフィーリア』
作品14 ダヴィッド『テルモピュライのレオニダス』
作品15 レーピン『思いがけなく』
作品16 モネ『死の床のカミーユ』
作品17 マルティーノ『懐かしい我が家での最後の日』
作品18 カラヴァッジョ『洗礼者ヨハネの斬首』
作品19 ブラウン『あなたの息子を受け取ってください、旦那さま』
作品20 ゴヤ『鰯の埋葬』
あとがき
文庫版あとがき
解説 佐藤可士和


【内容】
まるで、拷問具をまとったかのような痛々しい肉体の自画像『折れた背骨』ーフリーダ・カーロが、血みどろの自分を描き続けた理由とは?
発表当時、貧困の三女神として酷評された『落穂拾い』ーミレーの最高傑作が負った大いなる誤解とは?
歴史の闇や社会背景、画家たちの思惑を基に、名画が孕む恐怖と真実を読み解く20の物語。これまでになかった新しい視点による絵画鑑賞を提案した大人気シリーズ、新章開幕!


【感想】
絵画エッセイの名手、中野京子のシリーズ。相変わらず、解説の切れ味が鋭い。
各作品についてざっくりとした感想を書くことにする。
それぞれ怖さの種類は違うのだが、どの作品も一様に「怖い」。このこと自体がもうすでに「怖い」気がする。


◆作品1 フリーダ・カーロ『折れた背骨』
青空の下、荒野に佇む半裸のフリーダ。コルセットを巻きつけられ、体の中心は内部が見えており脊椎の代わりにひび割れた塔がある。顔といわず体全体に釘が刺さっている。

フリーダ・カーロの作品はどこかの展覧会(多分、東京都美術館だったと思う)でも観た記憶がある。どちらも生々しく痛々しい絵だ…。
試練だらけの人生でフリーダはひたすすら自画像の量産し続けた。「私は私自身の現実を描いている」この言葉が全てなのだと思う。


◆作品2 ミレー『落穂拾い』
夕暮れ薄暮のとき、刈り入れが済んだ麦畑、遠くには積み藁も見える。
三人の女性が腰を屈めて落穂拾いをしている。

「落穂拾い」は旧約聖書の『レビ記』や『申命記』に記述があるという。「喜捨の精神」「貧者の権利」は近代になっても続いていたが、ミレーの育ったノルマンディー地方にはない慣習だった。敬虔なクリスチャンでもあるミレーは農村の最下層に位置する寡婦が落穂を拾う姿に胸を打たれたのだろう。
薄緑と薄茶に紗がかかったような画面には、静謐な中に人生の悲哀が隠れている。


◆作品3 フラゴナール『ぶらんこ』
画面中央で若く美しい女性がピンク色のドレスをひらひらさせてぶらんこを揺らし、右足のミュールを左下に寝そべる男性に向かって蹴っている。右下には初老の男性がぶらんこを揺らしている。左端にはキューピッド。
光りさす森と人物が描かれたメルヘンチックな画面。

古来、女性の遊具とされてきたぶらんこ。左端のキューピッドは意味ありげに「し~っ!」としている。秘密があるのだ。
若い女性は最新モードに身を包み、視線は茂みに隠れた伊達な若い男へ向けられている。彼が見ているのは彼女のスカートの中だ。おそらく彼女は下着をつけていない。
右下の木陰でぶらんこを押す初老の男性は彼女の夫。恋人たちの興奮の隠し味だ。
ロココ時代の結婚は同じ階級でなければならず、正妻の生んだ子しか跡継ぎにしないので、正妻の最大の仕事は男児を産むことだ。かくして夫婦間に愛が存在する確率は低く、妻・夫を真剣に愛するものは無粋だと笑われた。
現代人には理解ができない考え方だが、その時代の階級では普通なのだろう。普通ってなんなのだろうか?


◆作品4 バルデス=レアル『世の栄光の終わり』
薄暗い地下墓地、夜と眠りを象徴するフクロウ。画面下には巻紙にラテン語で「世の栄光の終わり」と書かれている。
上方にイエス・キリスト。天秤の皿には左の皿に「七つの大罪をあらわす動物たち」、右の皿に「心臓、十字架、祈祷書、ロザリオ、パンなど」が乗っている。
奥に横たわる骸骨と幾つもの頭骨。前方に高貴な衣装に身を包み棺の中で朽ちてゆく遺体。

現世の栄耀栄華が否定され、死後の魂が天秤にかけられている。
人は誰でも死ぬ。死ねばこうして腐ってゆくのだ。
人生の虚しさをあらわす寓意画であり、抽象やほのめかしではなく生々しい描写がされている。「死を思え(メメント・モリ)」というリアルな絵画だ。
人にとって「死」は深く永遠のテーマなのだろう。


◆作品5 ジロデ『眠るエンデュミオン』
生い茂る樹木に守られるように全裸のエンデュミオンは深い眠りについている。豹の毛皮、刺繍つきの上着をシーツにサンダルを履いただけの裸身をさらす。
左端に(愛の神エロス=)キューピッドがのけぞるような姿勢で枝をたわめて隙間を作り、月の光を通している。
右下の草むらには杖が置かれ牧羊犬がうずくまっている。

女神セレーネが夜空を銀の馬車で巡っていると、洞窟に若い羊飼いエンデュミオンが眠っている。美貌に魅入られ主神ゼウスに彼の不老不死を頼む。望みは叶えられるが、エンデュミオンは永久に眠らせることになる。
セレーネは夜ごとエンデュミオンのもとを訪れ彼に寄り添う。エゴイスティックな愛だ。
死と眠りは似ている。ここにエンデュミオンの救いはない。哀れだ…。


◆作品6 シャガール『ヴァイオリン弾き』
ロシアの小村で緑色の顔の男がこちらを見すえ、三角屋根の上に片足を乗せてヴァイオリンを奏でている。
背景には木造りの素朴な家や教会が見えており、冬なのだろう雪が積もっている。光輪をもつ聖人が空を荷が惑っている。見上げる人物も不安そうだ。

画面全体に不安と不穏が漂い、観るものを落ちつかなくさせる。
1960年代にブロードウェイで爆発的にヒットしたミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』がモチーフ。
シャガールは帝政ロシア末期に片田舎のヴィテブスクのユダヤ人強制居住地区で生まれた。ポグロム(ユダヤ人迫害)はひどいありさまだったという…。
このユダヤ人問題は日本人にとってはなかなか理解しにくいことのひとつだ。哀しい歴史がここにも横たわっていて、なんともいえない気持ちになる。


◆作品7 ブグロー『ダンテとウェルギリウス』
荒野で若い裸体の赤毛と黒髪の男性二人が絡みあって戦っている。
血の色をした不気味な空にコウモリの翼を広げた悪魔が浮かび、着衣の男性が二人佇む。

この暗い画面のシュチュエーションは地獄だ。
中世末期、ダンテ・アリギエーリの長編叙事詩『神曲』はキリスト教文学の傑作として名高く、ダンテ自身が三界(地獄、煉獄、天国)を遍歴して読者に信仰の大切さを教えるという物語。
この絵の怖さは武器ではなく、己の肉体のみで戦っていること=「喉にかみつく」という行為だ。肉食獣が行う獲物を最も効果的に殺戮するやり方だから。


◆作品8 ドレ『ジュデッカ/ルシファー(『新曲』地獄篇〈第34歌〉)』
地獄のジュデッカ/ルシファーが氷をテーブル代わりに肘をつきながら罪人を貪っている。よく見ると握りしめた掌から裸の両足がはみ出ている。

こちらの作品もダンテ『神曲』の一場面を描いている。
「ジュデッカ」とは裏切り者が陥る地獄の中心部。「ルシファー」は堕天使、悪魔。サタン、ベリアル、ベルゼブブなどともいう。
ルシファーはとりたてて醜悪には描かれていないが、罪人を食らう姿はおどろおどろしい。人間を正しく導くためにはこういった一種の脅しは必要なのだろう。
日本の地獄絵もなかなかすごいものがあるし。釜茹でとか血の池地獄とか。


◆作品9 フリードリヒ『ブナの森の修道院』
荒涼とした大地に冬枯れのブナの樹々、夕日の残照にゴシック様式の聖堂がくっきりと浮かび上がる。石造りの建物は風雪を経て剥がれ落ち、ガラスは割れている。
聖堂の格子の最上部に黒い鳥、右下に斜めになった十字架、点々と墓標が広がる。修道僧たちは棺をかついで聖堂へと列をなしていく。

ただひたすら暗く陰鬱な光景が広がり、「死」の世界が描かれている。
フリードリヒは家族をことごとく病死や自殺で若くして失っており、自身も32歳で重篤な鬱病を発症し自殺を企てた。
いつも風景を通して自己の内面や信仰心、「死」と「復活」への憧憬を吐露している。「死」に憑りつかれてしまったのかもしれない。
にたような境遇にエドヴァルド・ムンクがいる。彼も家族を結核で早くに失くし終生忘れることができず、何度もその病床や死を描いている。
心に受けた傷は早ければ早いほど、関係性が親密なほど深くなり、その後の人生に影をおとす。


◆作品10 ドローネー『ローマのペスト』
廃墟と化した都市にあふれる病人と死者たち。天使が赤い一枚布をまとい、右手に長剣、左手は建物の閉ざされた扉を示す。
青い一枚布をまとった男がその扉に向かい、長く先の尖った棒で突き破ろうとしている。

身も凍る怖い絵だ。天使は無性のはずなのに、青年の逞しい肉体をもち冷酷な表情をしている。人間の祈りや絶望など一顧だにしない天使とは何者なのか?
ヨーロッパのトラウマ、ペスト禍は6世紀に60年以上続いた世界初のパンデミックだった。最大最悪が14世紀でヨーロッパ人口の1/3もの命を奪い、18世紀まで続いた。
「メメント・モリ」(死を忘れるな、死を思え)
初芸術の主要モチーフとなったのは皮肉だといえるかもしれない。


◆作品11 ゲイシー『自画像』
青空に緑の樹木を背景に、赤と白の縞模様のダボダボな衣装に赤いポンポンのついた帽子をかぶったピエロが立っている。色とりどりの風船があり、赤い風船に「わたしは道化のポゴ」、薄緑色の風船に本名のサイン「J・W・ゲイシー」とある。

本作はピエロに扮したゲイシーの自画像。決して上手い絵とはいえないが描き慣れている。
1942年イリノイ州シカゴで生まれ、子供時代は病弱でポーランド系の父に虐待されて育つ。父に褒めて欲しくて努力を惜しまなかった。仕事も家庭も順風満帆だったが、
未成年男子への性行為が発覚し10年の実刑を受ける。出所後も建設業で成功し地元の名士となり、「ピエロのポゴ」になって青少年を物色しては虐待し、殺人を冒していた。実に33人にものぼる。
平凡な田舎の名士ゲイシーは「ピエロのポゴ」に変身すれば「心が安らいだ」「ピエロになれば人殺しも平気だ」と語った。
世にもおぞましい怪物を作りだしたのは、他ならぬ実の父からの虐待という事実が暗澹たる気持ちにさせる。
余談だがS・キングの映画『IT』はこのゲイシーがモデルだそうだ。


◆作品12 ティツィアーノ『パウルス三世と孫たち』
大画面にほぼ等身大の三人の人物が並ぶ。老齢の教皇パウルス三世と二人の若者、左が長男アレッサンドロ、右が次男オッターヴィオ。

画面全体を覆うある種のいかがわしさ、利権に群がる一族の姿が浮かび上がる。「老害」の実態をほのめかし、老残と執着と老いの孤独が描かれている。
実に醜悪で醜い。
宗教改革ルターは「強欲なパウルス三世は教会財産を好き勝手に使っている」と非難した。


◆作品13 ミレイ『オフィーリア』
緑にむせ返りそうな森の中を流れる黒い水の川。白いドレスを着た赤毛の若く美しい女性が川に流されている。彼女の眼は虚ろで口元は半開きに、右手には摘んだ草花をしっかりと握られている。

シェイクスピア四大悲劇のひとつ『ハムレット』のヒロイン、オフィーリアを描いている。
19世紀後半の絵画には死んだ美女が数多く出てくる。病死、自死などだ。
男たちの欲望の眼差しに応え絵筆で殺され続ける彼女たち。これは絵空ごとではなく、この当時ロンドンやパリといった大都市で娼婦の数が飛躍的に増えていた。労働者階級の娘の多くが売春をせざるを得なかったからだ。
未来に絶望した彼女たちが選んだのは安酒による緩慢な自殺か、テムズ川やセーヌ川への身投げだった。
ロンドン留学中の夏目漱石は神経衰弱に罹り苦しんでいた。彼を救ったのは絵画であり、ミレイ『オフィーリア』もそのひとつ。
この作品がひとりの文豪の魂を救ったというのも感慨深い。
この絵のモデル、エリザベス・シダル(リジー)の人生に影を落としたのが、痛み止めに飲んでいたアヘンチンキと画家のロセッティだった。夫となったロセッティだがまたも愛人をつくり彼女を不安にさせる。すでにアヘンチンキを手放せなくなっていた彼女は33歳でアヘンチンキを大量に飲み自殺をしてしまた。

ロセッティに限らず、名を残した画家の多くは愛人や妻、子供を不幸にしてしまうものが多いのは何故なのだろう?
作品とその人となりはイコールではないとわかってはいるが、もにょもにょしたものが残る。芸術家は自己愛が強く傲慢だということなのかもしれない。


◆作品14 ダヴィッド『テルモピュライのレオニダス』
岩場の戦場にほぼ全裸の戦士たちがひしめき合っており、武器を持つもの、楽器を吹くもの、花輪をかざすものなど。中央の切り株に座っているのがレオニダス。画面はブルーグレーで暗い印象だ。

紀元前5世紀のペルシャ戦争、テルモピュライの戦いを描いている。クセルクセス王率いるペルシャ100万の兵を相手にギリシャ スパルタ王レオニダス300人が戦い、ギリシャ軍は玉砕した。
本作の評判は発表当時も今も決してかんばしくない。画面が混乱気味とか裸体が多いとか、少年への同性愛とか。
当時は年長者が選ばれた少年を愛するが、結婚は女性として子供をもうけるという「エリートシステム」があった。日本でも「衆道」がそれにあたる。
もともと存在していた自然な同性愛が戦争に利用されたのだが、男たちは自分たちの心が利用されていることに気づきながら抵抗も拒否もしなかった。
哀しいような怖いような…。


◆作品15 レーピン『思いがけなく』
明るく清潔そうな部屋の設え、複数の召使からある程度の恵まれたインテリ階級だと思われる人々。貴族や地主、官吏か商人だと思われる。
主人を部屋へ通す召使、驚きを隠せない家族たち。年老いた母、妻、幼い息子と娘。

肖像画の名手レーピンは、一瞬の表情や仕草が語る感情のゆらめきを巧みに描き出す。
主人公は餓えた獣のような表情をしている。頬がこけ、眼ばかりぎょろつかせ、服は体型に合っていない。かつてはふくよかだったらしい。
召使はドアを閉めることも忘れている。息子は驚き喜び、娘は父の記憶がないのか警戒心を抱いているように見える。
これらから読みとれるのは、主人公はシベリアに政治犯として囚われていて、満期前に帰宅を許された。だから『思いがけなく』なのだ。もしかすると、重病に罹ったための恩赦かもしれない。


◆作品16 モネ『死の床のカミーユ』
白い寝具にすっぽりと囲まれた病にやつれたひとりの女性のデスマスク。流れるような筆で描かれている。

彼女はモネの妻「薄幸の美女」カミーユ・ドンシュー。
貧しい家に生まれたカミーユは読み書きが充分でなかったが、美貌を生かし10代半ばから絵のモデルとしてパリで人気を得た。7歳上のクロード・モネと同棲したが、階級差からなかなか結婚できず、モネは田舎の家族にカミーユの存在を隠し続ける。正式の妻となったのは息子ジャンが3歳のとき、モネの父は参列しなかった。
カミーユはただただ彼の不遇時代に付き添い、成功の果実を味わわずに32歳の短い生涯を終えた。モネの女性関係のストレスを抱え、4年間も闘病した挙句の早過ぎる死だった。
まるで昼ドラのようだ…。胸が悪くなる。


◆作品17 マルティーノ『懐かしい我が家での最後の日』
裕福そうな家の室内に集う家族たち。シャンパングラスを高く掲げる男性と少年。虚ろな眼差しの女性。幼い女の子は怯えている。老婆は涙を流し、執事は家の鍵を返そうとしている。

19世紀イギリス、ヴィクトリア朝の物語絵画で、読み解くことのできる小道具がひしめく画面。
サー・チャールズ・プリン男爵家、何がこの一家に起こり、これからどこへ行くのか?
画面右下の床にクリスティーズの商品目録、あちらこちらに競売の品番ラベルが貼られ、部屋の外にクリスティーズの社員が見える。
由緒正しい家柄の父、母、子供たち、祖母の5人はほとんど身一つで住み慣れた美しい屋敷を出てゆかなけばならない。シャンパンは別れの盃なのだ。
なぜプリン家は破産したのか?ギャンブルの競馬にのめり込み、富の全てを失ったから。
画面左下の床に立てかけられている絵画は馬の絵。本作は「気をつけないとあなたもこうなりますよ」という教訓画。
この期に及んでも能天気な父と息子が怖い…。


◆作品18 カラヴァッジョ『洗礼者ヨハネの斬首』
地下牢とおぼしき場所。堅牢な石積みアーチの出入口には鉄柵、金盥を指さす牢番。画面右の鉄格子窓から二人の囚人が処刑を見つめている。
画面の左半分を占めているのは二人の処刑人、処刑されたヨハネ、ヨハネの母、金盥を持つサロメ。

有名なヨハネ(ヨカナーン)とサロメの一場面。ほかの画家にも描かれ、演劇にもなっている。
イエスに洗礼を施した予言者ヨハネはヘロデ王を批難し逮捕、斬首される。サロメが母の入れ知恵でヨハネの首を所望する。
もうこれだけで十分に怖い…。
カラヴァッジョは修道士かつ騎士でもあった。破滅を求めた人生を送っており、最後はローマに帰還する途中で客死している。


◆作品19 ブラウン『あなたの息子を受け取ってください、旦那さま』
室内に白い衣装の女性が裸の赤ん坊を腕に持っている。女性の頬は上気したように赤いが眼は虚ろで視点が合っていない。口元も半開きだ。赤ん坊もまるで人形のような無表情をしている。
背景の緑色の壁に掛かっている丸い鏡には男性がこちらへ両手を差し伸べている。

もう一目で怖いというか薄気味悪い。
母親のお腹を真一文字に開腹して、子宮から胎児を取り出したように見える。
赤ん坊の肌は胎児のようにテラテラとしており、内臓のような布ひだも不気味だ。布ひだの一部は男性の性器や臍の緒のよう。
当時の女性のおかれている立場が表されている。若く貧しい女性が身体を売るしかない社会は、好色な金持ちな男性にとってはパラダイス。遊び相手は山ほど、嫌になっても罰せられることもない。
女性は必至になって愛を引き留め、結婚までこぎ着けようとし、男児を産み、その子を愛させることで生きてゆこうとした。
本作は女性には悲劇、男性には恐怖というところか。DNA鑑定もないし。
未完な作品なのに恐ろしくインパクト大。


◆作品20 ゴヤ『鰯の埋葬』
広場で大勢の老若男女が歌い踊って祭りを楽しんでいる。空は青く、大木がそびえている。不気味な笑い顔の描かれた大きな旗を持つ男性が中央にいる。

謝肉祭(カーニバル)はカトリック圏における宗教行事で狂宴を愉しむ。
スペインの謝肉祭最終日、鰯を埋葬してどんちゃん騒ぎをする。18世紀から今でも続く。
ゴヤは当時としては老齢だったが、活力に溢れ、異常さの中に表われる人間の性(さが)を描かずにはいられなかった。
クールな眼で絵筆をとり狂乱な人々を描くゴヤは、パスカル曰く「狂気じみている」と言わしめた。複雑極まりない芸術家だったと思われる。

  
【余談】
◆作品2 ミレー『落穂拾い』は細野不二彦『ギャラリーフェイク』にも登場していたと思う。ある老人が高名で高額な作品とは知らず、「よい絵だ」と自宅に飾って楽しんでいた、というストーリーだったはず。
絵画が芸術作品を通り越して高価な物品として扱われていることへの怒りがあった。絵画は本当にその作品を純粋に愛するものの手に渡ればよいと。
好きな回だったな~。

◆作品4 バルデス=レアル『世の栄光の終わり』
日本画にも類似の作品がある。
「世の無常」を伝えるべく、小野小町の死体が腐乱していく様子を九段階に分けて描かれた「小野小町九相図」。どんなに身目麗しいものでも、死んでしまえばこのように腐乱していき最後は骨になるという仏教の教えだ。
死後の腐乱状態を段階ごとに描いているので、インパクトがあるのはこちらのほうだと思われる。
戒めはインパクトがあるほうがよいということか。

ここに登場した画家に限らず、芸術(画家、作家、音楽家)という名の男性表現者たちのひどさに胸が悪くなる。自意識過剰でプライドが高くて傲慢、自分の作品と名声のためならば家族や周囲のことなど歯牙にもかけない。
【作品=作者の人間性】ではないのは理解しているが、時折やりきれない気持ちになるのも本当だ。もちろん、すべての方がそうだというのではないのだが…。
今も昔もなんだか変わらないね。人の本質はそうそう変わるものでもないということかな。



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