寒かったり、雨天だったりで柄杓山に行くのを控えていたが、昨日4/15は天気もよく風もつよくなかった。
満開の時期は過ぎているかもしれないが、十分に楽しめるだろうと考え行って来た。
午後2時近くに自宅を出たので、日枝神社から登るのはちとキツイ。
中腹の駐車場から登ることにした。
日枝神社には行ったことがなかったので、登り口調査をかねて参拝した。
日枝神社(ひえじんじゃ)は山王信仰に基づき比叡山麓の日吉大社より勧請を受けた神社の社号である。
とのこと。
ここ梅田の日枝神社もなかなかの構えであった。
鳥居 扁額はなぜか 琴平大神
左 拝殿 右 八坂神社
機神社 さすが織物のまち桐生。機神社はしっかりある ^^
ご神木のクスノキ
本殿
社伝によれば、桐生氏中興の祖・桐生国綱公は南北朝の観応元年
(1350)桐生城(柄杓山)を築いた。同時に氏祖六郎公が近江国坂本
より分霊勧請した山王宮を菱小屋の聖地より桐生城本丸下の当地に
移建再祠し、御神木としてクスノキ5本を献じた。これによって
社号を樟御殿山王宮とし、その後桐生城守護・桐生家祈願所としての
機能が明確になる。
御祭神
大山昨命・大物主命・菅原道真公・大雷命
天御中主命・月読見命・大国主命
相殿神
木花開耶姫神・猿田彦命
社格 旧村社
機神社横に登山口があった。
画像ひだりはしが登り口
こんな感じで登っていくらしい
午後3:30をすぎている ><
いそいで中腹の駐車場へ
駐車場には散った桜の花びらが広がっていたがまだまだ見頃だ。
午後3:45 駐車場出発
東屋を右に見て進む。
午後4:00 吾妻山 大形山 鳴神山 の縦走路につながる枝道と合流 振り返って
右からやってきた 左を下ると大門経由日枝神社 上側に進むと大形山 手前が杓子山頂上方向
大形山への登山道
下から登ってくる登山道をのぞき込む。
これが日枝神社からの登山道であろう。
かなりキツイ。
この近辺が三の丸跡のようだ。
二の丸跡の切り通しを抜けていく。
柄杓山頂上はちかい。
午後4:10 頂上着
桐生の街が一望できる。
絶景だ。
遠くに八王子丘陵が見える。ひだりに金山も。あそこからここまで攻めてきたんだな ww
桜も見頃だ(チョットすぎてはいるが・・・・)
桐生柄杓山城址の石碑 本丸跡
これは何の碑だろうか。読めない ><
頂上は広い。一面ツツジが植えられている。
1~2週間で満開になるだろう。
柄杓山城は、観応元年(1350年)、藤原姓足利系佐野氏一族の桐生国綱によって築かれた。観応2年(1351年)には、渡良瀬川の分流が瀞堀になっていたものを改修し、渡良瀬川の水を桐生川に流す要害堀を構築する。堀の長さは約2500メートルで、現在は埋め立てられて一部がコロンバス通りとなっている。
永享12年(1440年)の結城合戦では桐生正綱の弟正俊が出陣。享徳3年(1454年)に始まる享徳の乱に際して、文正元年(1466年)に家臣の谷近綱が武州五十子に出陣したが、武運に恵まれず戦死している。戦国期は、北条氏・上杉氏らに従いつつ、新田金山城の由良氏と抗争。桐生真綱の代に後桐生氏の全盛期を迎える。
永禄3年(1560年)、桐生助綱は関東管領として北条氏を討伐に向かう長尾景虎に従う。元亀元年(1570年)助綱が死去。佐野昌綱の子桐生親綱が桐生氏の養子として後を継ぐ。このころ、渡良瀬川・桐生川の灌漑用水を巡り、桐生氏と由良氏の対立が表面化。小競り合いが繰り返されるようになる。親綱は佐野氏から随臣を重用し、桐生氏譜代の家臣たちを疎んじたため、家中の不和を生んだ。赤萩城の守将里見上総介勝広をよく思わない家臣による諫言を桐生親綱が誤解し彼を切腹させるなど、家中の乱れにより、桐生氏は弱体化した。元亀4年(1573年)3月、太田金山の由良成繁が柄杓山城を攻め、親綱は貝沢を越え佐野に逃走する。
天正2年(1574年)、由良成繁が新田金山城を子に譲り、柄杓山城に隠居。天正6年(1578年)に由良成繁が死去。これに乗じて桐生親綱が柄杓山城奪回を図るが失敗に終わる。天正18年(1590年)、後北条氏の滅亡により由良氏が牛久に領地代えされ、柄杓山城は廃される。 wiki
三角点は四等三角点
ここは広くてよいところだ。
静かに昼寝をするには最高の場所だ。
贅沢すぎる ww
しばらく休んで 下山。
道路沿いのカインズホームで停車。
振り返ると杓子山がよく見える。
午後5時40分だ。
暗くなってきた。
きれいな写真は撮れなかったが 雰囲気はわかるかな ^^
この日は風も穏やかでよかった。
帰りに、菅塩沼に寄っていこう。
うまくいけば夜桜見物ができるかもしれない ^^
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