いわゆるホームレスの定義とは何なのか、考えさせられてしまう光景を見た。その人は新港ふ頭への入り口、税関の向かい側の空き地に住んでいた。 今まではあまり目立たなかったのだが、海岸沿いに残っている旧臨港線の高架がプロムナードになったおかげで、そこが丸見えになったのである。 乱開発のミニ住宅よりも広いくらいの敷地に、掘建て小屋が建っていた。中は暗くて見えないが、一応、リビングのようだ。 庭にはキンカンの木が何本か植わり、季節になると黄色い実をつける。そして、「家」の前にはブドウ棚もあった。その後は畝を作り、ネギやシソも栽培しているようだった。 そこでボクは考え込んでしまった。ホームレスの「ホーム」とは一体、何を意味するのだろうか。 「棲家」ということならば、これだって立派なホームだ。ホームがないとはいえない。 では、「家庭」なのか。それも違う。家庭がない人をホームレスなどと言ったら、単身生活者はみんな、ホームレスになってしまう。 ブドウ棚の付いた小屋を見ながら、考えを巡らせているうちに、横浜にかつてあったブドウ園を思い出した。 鶴見村で代々名主を務めてきた佐久間家には、明治9年からの『内外蔬菜』作りの記録が残っている。それによれば、果樹園でブドウや桃などを栽培し、明治16年にはこれらの西洋果物を近隣の人々に進物していたそうだ。 しかし、横浜のブドウを特産品にしたのは保土谷の中垣秀雄という人物で、彼はブドウ園のほかに葡萄酒の醸造所まで造ってしまった。 明治22年、カルフォルニアに渡った中垣は、現地のぶどう園でその栽培法や葡萄酒の醸造法を学んだ。帰国後は川崎のブドウを原料にして、横浜で葡萄酒の製造を始めた。 その後、保土谷の帷子にブドウ園を開設。現在の横浜国立大学と常盤園の間のあたりである。近くに醸造所もできたが、生産が安定してくるのは大正まで待たなければならない。 しかし、当時の葡萄酒は医薬用に使うものというイメージが強く、普通の飲料としての需要は少なかった。 時代が昭和になると帷子ブドウ園に来る客も増え、横浜駅から特設バスが運行されるほどの盛況となった。そこではブドウの試食、葡萄酒の試飲もさせていたという。今で言う観光農園のハシリであろうか。 やがて太平洋戦争を迎える。ブドウ園、醸造所、社屋などがどのような変遷を辿ったのかは不明だが、戦後再開した醸造も、昭和20年代末にはなくなってしまった。 ブドウ棚の付いた「家」から思い出した横浜とブドウにまつわる話しだ。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
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