![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/52/de67ee0eab5f76595e5e7934d7af0c32.jpg)
1945年、太平洋戦争が終わった直後、横浜市内の餓死者は一日平均3人に達していたという。 このような状況を救ったのが、野毛の闇市だった。翌年には国電も復旧し、桜木町駅前で炊き出しをする者が20軒も出現した。 雑炊を作っていたようだが、新鮮な食材などあるわけもなく、その材料は占領軍の残飯に頼るしかなかった。 『米軍から出た残飯を大鍋に入れ、ザルで中身をすくいタバコの吸殻やコンドームなどを取り除くと雑炊が出来あがる』 当時、ここで雑炊づくりをしていた人の話だ。 これを求めて、パンパンと呼ばれる娼婦や戦災孤児なども集まってきた。やがて駅前の炊き出しに対し、米第八軍からクレームがつけられ、野毛に移転することになる。このとき間に入って取り仕切ったのが、「飴徳二代目親分」肥後盛造という人物。戦前からの露店商だったらしい。 1947年頃には桜川沿いに、カストリ酒を売る商売人とそれを呑む人々が集まるようになってきた。これを整理するため、肥後は川沿いに30軒ほどの棟割を造り、そこに彼らを押し込んだ。これがカストリ横丁とかクジラ横丁の始まりである。 ![]() ▲解体直前の櫻木町デパート 看板に“酔郷と味覚のセンター”と書いてある その上には“ハマっ子市民の○○”かな…○○が思い出せない… 右奥に根岸線のガードが見えている。 縦長アーチ窓が連続した建物は、当時の市民ギャラリー。それ以前は中区役所だった。 かつてエイトセンターの地下に「美津の家」という大衆酒場があった。その店の歴史は古く、カストリ横丁で開店している。 ばあさんの話だと、30軒ほど並んだ棟割長屋で、バラックに近いものだったそうだ。野毛はジャパニーズオンリー地区だったにもかかわらず、ときどき米兵がきて暴れたり、時には発砲事件もあったという。 この頃、港の仕事といえば荷役が主だった。路上生活をする労働者も多くいたという。 1950年には朝鮮戦争が勃発。高度成長への助走路となる特需景気を機に、風太郎(プータロウ)が増加した。 さて、1952年になるとドブ臭い桜川の埋め立てが始まり、川に張り出した露店小屋の飲食店は撤去され、中区役所裏の2階建ての建物に集められた。これが「桜木町デパート」である。 ![]() ▲『中区わが街~中区地区沿革外史~』(昭和61年)より 年配の呑兵衛には懐かしい名前だろう。移転にあたって代表世話人となったのは例の肥後盛造であった。建物内部は3坪ほどに仕切られた店が、約140軒並んでいた。 桜木町デパートの入口は、現在の交番横にあたる。1階正面は不二家。その前の路上にはウナギの釣り堀もあった。 「美津の家」、「ライカ」、「いざよい」、「ヒンメル」、「太平山」、「山茶郷」、「小西」など、みんなここにあった店だ。 1972年、桜川新道や高速道路建設のため桜木町デパートの立ち退きが始まった。その中の一部は長者町のエイトセンターや都橋商店街2階へ集められた。 桜木町駅前から始まった「呑み屋の戦後」は、こうして各地区に散らばっていったのである。 ![]() かつて桜木町デパートが建っていたのは、この辺かな。跡地は駐車場と桜川新道になっている。 ![]() 桜木町デパート1階に入っていた「小西」は現在、こうなっている。 ![]() 野毛には銭湯がいくつもあった。「国の湯」、「にんじん湯」、そして現在ホテルが建っているこの場所にあったのが「柳湯」だ。 軒先にフライ屋があり、いつも近隣の労働者で賑わっていた。 道を挟んだ向かい側にある加藤酒店(写真右端)で買った酒を持ち込み、ここのフライを肴に一杯やるという不思議なシステムだった。 いつ頃だった銭湯が廃業し取り壊されてしまったのだが、面白いことに軒先だけが残り、フライ屋はしばらく営業を続けていたという記憶がある。 そして昨年知ったのだが、石川町にある日本酒専門の酒場「サガン」の経営者が、なんと「柳湯」の娘さんなのだ。 ![]() 焼鳥「若竹」は健在だね。 ![]() その隣にあったラーメンの「三陽」。 先月見たとき、こんな工事をしていた。工事用フェンスに「移転のため云々…」と書いてあるが、よく見ると当初の文字を墨で消して「移転」と書き換えていた。 そういえば、その少し前に見たときは、たしか「改装」とかになっていたはずだが…… 途中で方針を変更したのかな。 ![]() 新しい「三陽」はこちら。 ![]() そして以前の「三陽」跡は、こうなった。 立ち食い焼肉の「治郎丸」だって。 しかも安い。ホルモン30円から、一番高いのが300円♪ 一切れの価格だそうだ。 ![]() 居酒屋「トモ」は昼間から開いていた。 ![]() 水曜・木曜は女性デーなのね。 ![]() 安いね。 ![]() この階段も数年前まではしばしば登っていたっけ… ![]() 「紹興酒楼」があった所が、こういう風になっていた。 ![]() 「磯丸水産」か。そのうち入ってみようかな。 ところで、エイトセンター時代の「太平山」で毎日のように呑んでいた頃、そこに集うオジサンたちが記憶を辿って昭和45年頃の桜木町デパートの内部を地図にしたことがある。 記憶違いや時代が入り混じっているかもしれないが、最後にそれを史料として掲載しておきたい。 櫻木町デパート 1階 ![]() 櫻木町デパート 2階 ![]() ![]() |
せいぜいぴおシティにても通います。
梅干しの種が時々入っていました。
外人も梅干しが好きなのか不思議でしたが、
今思えば恐らく干しプラムの種だったと思います。
ハムはGIが一口噛み切って不味いので捨てたのか
其の侭噛みあとがクッキリとしてました。
ノータリンの拙はハムの切跡を自分の歯に合わせてみたりしてました。
現在あの残飯の美味さを再現しようとパンだとかハムだとかで作ってみましたが、ゼンゼン駄目でした。
矢張り、タバコの吸い殻とかチューインガムとか鼻紙など入れませんとあの美味しさは再現できませんでした。
生まれる前のことなので、すべて聞いた話です。
ピオシティ=ゴールデンセンターの地下が残ってくれればいいのかな。
プラムの種ですか、いい味付けになっていたようですね。
ふぐちりのあとの雑炊を食べたいです。
私は昭和20年代~40年代の桜木町、野毛は知りませんが、
先輩から聞いた話なら・・・
字体もいい感じです。
現代では「酔郷」という名の呑み屋さんは多いようですね。