東京オリンピックというと、若い方々は6年後に開催される競技会を思い浮かべるかもしれないが、我々オジサンたちがまず思い出すのは、1964年10月10日に東京で開幕した第18回オリンピック競技大会だ。 最近、呑み屋で後輩にこんな話をすると、「あッ、歴史で習いました」なんてことを言われて、あらためて年齢の差を感じる。 すると今度は、私なんかよりも遥かに先輩の爺さんたちが、「尾上町にもオリンピックがあった」なんてことを言い出し、酒席は老若男女入り乱れて侃侃諤諤、大論争に発展することもしばしば。 それはさておき、今日の話題はオリンピックではなく、根岸線だ。 1964年の東京オリンピック開催に間に合わせるように10月1日、東京・名古屋・大阪の三大都市圏を結ぶ新幹線が誕生したのだが、それに先立つ4か月ほど前の5月19日、横浜では桜木町から磯子に至る「根岸線」が開業した。 当時の国鉄は桜木町が終着駅で、そこから先、中華街や元町には市電・バスを乗り継ぐか、あるいは歩いて行くしかなかった。いま関内・元町といえばJR、市営地下鉄、みなとみらい線が集中し、さらにバス路線も充実して便利になっているが、それまでは交通の便のあまり良くないエリアだったのである。 そこに鉄道が乗り入れてきて、駅近隣の開発が一気に進んだ。横浜市役所の前に「関内駅」ができたし、中華街や元町は「石川町駅」から至近距離になった。 とくに中華街が発展するきっかけとなった最初の出来事が、この桜木町から磯子までの鉄道延伸であった。 そんな根岸線が5月19日、開業50周年を迎えた。 ということで、今日はこの路線の歴史を振り返ってみたい。 まずは、我国における鉄道の開業から根岸線ができる前までの状況を簡単に記載しておこうか。 以下は地図を参考にしてお読みください。 ①明治5年 新橋~横浜間に鉄道が開業。このときの横浜駅というのは、いまの桜木町駅のところだよ。 ②その後は、横浜から西へ延伸する必要があったのだが、初代横浜駅から先に延ばすことは難しかった。だって、この先には外国人居留地があるし、山手の丘も立ちはだかっているし、そう簡単にはいかないだろう。 そこで明治20年、初代横浜駅で折り返し途中から左に曲がって西方面へ向かうという路線が誕生。スイッチバック方式だった。 ちなみに、大船~横須賀間が開通したのは明治22年。これで軍港のある横須賀と東京がつながった。 ③しかし、これではまどろっこしいということで、明治31年、神奈川から関西方面に直行する短絡線が造られた。軍事路線だからスピードが必要と言うわけだ。 ところが、横浜市民にとっては不便に。関西へ行くには、いったん神奈川駅まで出て行かなければならないということになったのだ。 ④それを解消するため平沼に駅を新設。ここでの乗降が可能になったのだが、駅が増えたため運行に要する全体の時間が長くなるという問題も生じた。 ⑤そして大正4年、高島町に2代目となる横浜駅を新設。と同時に初代横浜駅は桜木町駅と改称され、駅長も廃止されてしまった(横浜駅の駅長が兼務)。 ⑥大正12年、関東大震災が発生し2代目は倒壊。震災後、同じ場所に新しい横浜駅を造るという話もあったそうだが、昭和3年、結局は現在の位置に3代目横浜駅ができた。 これによって、横浜~桜木町間の鉄道は、完全に盲腸のような路線になってしまったのである。 ところで話が鉄道から道路に変ってしまうのだが、碁盤の目のような野毛の街を歩いていて、「あれ? 妙だなぁ」と思う道、呑兵衛の方々ならご存知ですよね。 他はみんな一直線なのに、この道だけは綺麗なカーブを描いているのだ。皆さん、酔っ払って自分が曲がっているんじゃないかと勘違いした経験もあると思うが、本当に道が曲がっているんだよね。 この道路です。 実はこれ、鉄道用地だったのね。だから周囲の街路パターンと異なって、こんな風にカーブしているのだ。 そしてよくよく眺めると、この曲がった道は京浜急行とJRの間をつないでいる。まるで鉄道のようでしょ。 そう、この道はかつて湘南電気鉄道の線路用地だったのである。 昭和5年の地図を見てみよう。 左下に見えるのが長者橋。いまでも日ノ出町駅前にあるあの橋だ。 右側に架かっているのが福富町と野毛をつなぐ都橋。 この地図には野毛本通りから現在のJR側方面が描かれている。 そしてカーブした道には「湘南鉄道用地」との記載を見ることができる。 たしかに、野毛を貫通する曲線道路は「鉄道用地」であったのだ。 となると、ここでまた京浜急行の歴史を調べたくなるよね。 現在は三崎口から横浜、品川まで走っている京浜急行、その前身は湘南電気鉄道と京浜電気鉄道である。 昭和5年、湘南電気鉄道が浦賀から黄金町まで、また京浜電気鉄道が品川から横浜まで開通した。のちに両社は合併して京浜急行となるのだが、この時点ではまだ黄金町~横浜間はつながっていない。したがって浦賀から東京方面へ行く人々は、黄金町からバスに乗り換え横浜に向かい、そこで京浜電鉄に乗り継いでいたという。 湘南電気鉄道が会社として発足したのは大正14年で、当初は黄金町から日ノ出町経由で桜木町駅に線路を延ばし、省線(現在のJR)に乗り入れ品川方面へ向かう計画であったようだ。 そのための用地だったのが、上の地図に描かれている曲線道路である。しかし湘南電鉄の計画は夢で終わり、不要になった用地が現在もそのままの形で残っているというわけだ。 なぜ計画が実行されなかったのか、その辺の事情はよく分からないが、湘南電気鉄道の国電乗り入れは実現せず、昭和6年、同電鉄は黄金町から日ノ出町まで延伸し、同時に京浜電気鉄道は横浜から日ノ出町間を開業させ、浦賀・品川間が貫通したのである。 結局、盲腸のような存在だった桜木町駅はそのままの形で残り、延伸問題は先送りになってしまった。その後、さまざまな議論があったようで、昭和11年、《省線延長計画成り 来月鉄道会議へ 青木市長、正式に報告》との見出しを付けて、『横浜貿易新報』に次のような記事が出た。 以下は記事の記載から 『桜木町から高架線で大岡川に半分を河に橋柱で元町に至り、麦田から竹之丸に出て競馬場を経て根岸埋立(近く参事会に提出の)中に乗り入れる延長約5キロ450メートルの路線とし、中間駅は松屋対岸の吉田橋、吉浜橋、元町、竹之丸、競馬場で、新設駅は根岸を加えて6駅という言う案もあるが、元町と競馬場と根岸駅の3つが有力である。途中のトンネルは元町と競馬場まで二つ、計三つのトンネルを通過することになる…(以下中略)… 青木市長の手腕で多年の懸案の一つは実現に近づきつつある。かくて山手、磯子方面は住宅地として将来の繁栄を約束されることになった』 ここで松屋対岸の吉田橋というのは現在の関内駅で、吉浜橋というのは関内駅と石川町駅の中間地点で派大岡川に架かっていた橋である。 また竹之丸は現在の山手駅あたりを指すのだろう。競馬場というのは現在の根岸森林公園だが、こんな山の上に線路を敷設するはずはない。現在の山手駅から坂を登ればすぐ森林公園に至るので、この予定駅も今の山手駅近辺を指しているに違いない。 というわけで、戦前から現在とほぼ同じような路線が考えられていたわけだ。しかし昭和11年といえば、時代はかなりキナ臭くなってきている。この年の1月、日本はロンドン海軍軍縮会議から脱退、2月には二・二六事件が勃発。 飛行艇部隊の海軍横浜航空隊が根岸湾に開隊したのもこの年の11月だった。時代はまさに“戦前”だ。 我が国が次第に戦争へと進むそのような状況の中で、桜木町から先の延伸計画はまたもや棚上げにされてしまった。 この計画が実現に向けて次に動き出したのは戦後だった。桜木町と大船を結ぶ路線として、当時は「桜大線(おうだいせん)」と呼称されていたが、一部の政党では桜木町から日ノ出町、井土ヶ谷を経て…云々なんて言い出す者もいたらしい。なにか利権が絡んでの発言だったのだろう。 しかし、さまざまな紆余曲折がありながらも、昭和39年(1964)5月19日、国鉄根岸線がめでたく開通した。 経路は昭和11年に計画されていたのとほぼ同じだが、駅名はあの頃に考えられていたものとは異なる。この駅名についてもいろいろ紛糾があったと聞く。「石川町駅」なんか、何が起きていたのか、だいたい想像できるよね。「山手駅」だって、所在地は山手町ではないし… まあそれは別にして、この路線は昭和34年から始まった根岸湾埋め立て、そこへの工場誘致、労働者が住むための社宅団地(汐見台)建設、そして労働者や企業の製品を運送するための鉄道敷設や産業道路の開通が一体となって出来上がったのである。 戦前は、「鉄道敷設と住宅地開発をセット」という考え方で始まったようだが、できあがった根岸線はそれ以上に産業的な目的が大きかったわけだ。 だから今でも、こんな都心部の関内駅を貨物列車が毎日通過しているのだ(冒頭の写真)。なんだか、都会的じゃないなぁ… さて、以下は磯子区役所発行の『浜・海・道』から引用による写真をご覧いただこう。 完成した埋め立て地。 根岸線と並行して走る産業道路。 埋め立て地にポツンと建つ磯子駅。 根岸線開通式の様子。 その後、洋光台までの延伸工事が始まり、昭和45年3月、磯子駅~洋光台駅間の延伸部分が開業。新杉田駅・洋光台駅ができた。 昭和48年4月、さらに洋光台駅~大船駅間が延伸開業し、これで昔の桜大線が全通したわけだ。このとき港南台駅・本郷台駅も開業。 ということで、桜木町駅から先に延ばされた根岸線のお話しは終わりにして、最後は野毛で食べたお食事の画像を貼りつけておこうね。 もう3か月もまえのことだが、北海道から親戚が出てきた。そのとき野毛の「にぎわい座」に落語を聞きにいくことになり、その前に腹ごしらえをしておかなければ、ということで5人で向かったのが、こちら「かつ半」である。 若いころはよくトンカツを食べていたものだが、最近はとんとご無沙汰していたので、この選択は嬉しかったね。 相変わらず美味しい♪ そういえば「勝烈庵」も長いこと行ってないなぁ… 今週はどこかでトンカツのランチにするか。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
大船駅の利用開始がちょうど同時期だったので、昔からあるような気がしていたのは生活の基盤路線が違ったからでしょうか…ふ~む、ナルホドという感じです。
ご教示、ありがとうございました(謝)
とても勉強になりました。
自分も、洋光台へ根岸線が開通するなり、移り住んできましたので、背景などわかり、とても面白く拝見をしましたよ。
市電廃止が昭和47年3月31日というのは、根岸線全線開通とあながち無関係ではないのかも?などと考えてしまいました。
現在忘れられそうな商店街を絡めて考えると、臨海地区に眼を向けてしまうのは、横浜市民のDNAのなせる技なのかもしれませんね。
問いに、「根岸線の山手駅で降りて……」と言うと、
聞いた人はそこで勝手に「山手ー外国人墓地、
ああ、あそこだな」と連想を走らせてしまい、多くが
山手外国人墓地に行っちゃうんですよね。
「山手駅」って、紛らわしい名前だなあ、と思ってました。
昭和47年に市電が廃止。
同じ年に市営地下鉄が横浜~上永谷間、全通でしたね。
そして48年には根岸線が全通。
かたまっていますねぇ。
今年は引っ越しして、転勤して、
通勤経路が変って、これまた楽しいんじゃありませんか。
たまには変更になるのも、いいですね。
根岸線よりも桜大線の方が良かったのにね。
いまとなっては、ま、仕方ないか。
市史資料室発行の本を読んでいたら、
この路線の名前が出ていました。
「京浜東北線」という名前の路線は存在しないそうですね。
大宮~東京間は東北本線、
東京~横浜間は東海道本線、
横浜~大船間は根岸線だとか。
根岸線は桜木町~大船じゃないんですかねぇ。
市営地下鉄の「伊勢佐木長者町」も、
みなとみらい線の「元町中華街」も、
かなりもめて付けられたようですね。
駅名もそうですが、
路線の経路ももめますね。
新杉田と洋光台の間が、妙に大回りしているのも、
いろいろな要望があったためとか。