もう10年以上前のことですが、私の所属する楽団の夏合宿で葉山に行ったことがあります。宿泊したのは、たしかNTTの保養所「憩の家」だったかな。空いていれば一般の人でも泊まれたんですね。 いつものことながら厳しい練習のあとは、晩飯&宴会でたいへん盛り上がります。食堂での食事が終わると男性陣の部屋に全員が集まって、さらにギターを掻き鳴らしながら大宴会が続きました。 お開きになったのは深夜の1時頃だったでしょうか。翌日(いや当日ですね)は早起きして海岸を散歩しようということになり即就寝~ そして朝5時半、深酒のため起床できない連中を残して、数人の女性陣と一緒に海岸へ向かいました。 海辺で雑談をしていると、なんと~! 向こうから天皇・皇后両陛下がだんだん近づいてこられるではないですか!! (お付の方々は遠くで見守っていました) もうみんなビックリです。 ナニ!? ナニ!? えっ! これって本当…? やがて我々のグループの傍まで来られたお二人から、なんと、なんとお声をかけられてたのです! よくテレビで見ますよね、被災地の避難者や施設の方々に優しく話しかけている姿を。 あれと同じような状況になってしまったのです。 こんな状況は考えられないことだったので、全員、頭が真っ白に! 何を聞かれ、どう答えたのか… あとでみんなの記憶を合わせると、 「どこから来られたのですか?」 「横浜から合宿に来ました」 「なんの合宿なのですか?」 「ギター演奏の練習です」 「どんな曲をやっているんですか?」 全然お言葉は違いますが、だいたいこんなようなやり取りだったと思います。 両陛下ともほんとに穏やかで、優しい感じでした。 今、お二人はフィリピンをご訪問されています。 日米の激戦地となった同国では、約52万人の日本人が亡くなっていますが、フィリピン人はその2倍以上の111万人が犠牲になったといわれています。 両陛下は到着された翌日、太平洋戦争で犠牲となった現地の人たちをまつる「無名戦士の墓」を訪れました。 天皇陛下は皇太子時代だった1962年に、初めてフィリピンを訪れています。その際、訪問を前に夜を徹して同国の歴史を学び、現地で犠牲者の遺族と交流したそうです。 そして今回のご訪問。朝日新聞はその経緯をこう伝えています。 ≪フィリピン側戦没者の慰霊を日程に加えるよう希望したのは両陛下だったという。こうした意向を踏まえ、日本側の慰霊碑を訪れる前に、無名戦士の墓での拝礼が設定された≫ 日米の戦争で亡くなったフィリピンの方々をまず慰霊されたということに、敬意を表したいと思います。 またその後のレセプションには、戦後に死刑判決を受けた日本のBC級戦犯に恩赦を与えたキリノ元大統領の孫娘も出席しており、天皇陛下は「キリノ大統領が63年前に恩赦を与えてくださったことを忘れません」と話されたといいます。 このキリノ元大統領もすごい方でした。すでにマスコミなどで改めて報道されていますから、どんな人物だったのかは皆さまもご存じだと思いますが、一応、その関連のニュースをリンクしておきます。 単なる恩赦じゃないんですよね。キリノ氏は1945年のマニラ市街戦で妻子4人を亡くし、日本軍に銃剣で殺された2歳の娘の遺体を自ら埋葬したといいます。そんな体験をした人が「日本人に私から憎悪の念を受け継がせない」とする声明を出し、100人超のBC級戦犯全員を恩赦したのでした。 憎しみや報復の連鎖はどこかで断ち切らなければなりません。 パリ同時テロで妻を失ったジャーナリストが、「君たちに憎しみという贈り物はあげない」と綴ったフェイスブックが共感の輪を広げましたが、この横浜にもそのような言葉を刻んだ記念碑があること思い出しました。 伊勢山皇大神宮にある「蒋公顕徳碑」です。蒋介石の恩を伝える石碑で、その上部には「以徳報怨」と刻まれています。 その脇には記念碑の由来が書かれています。(画像をクリックして拡大できます) 一応、下にその文章を記しておきますね。そのままでは読みにくいので、旧漢字を新漢字に変更し句読点および改行も入れました。 由緒 蒋介石氏は明治貮拾年中国浙江省に生れ、日本陸軍振武学校に学び、高田の連隊に勤務中、孫文先生の辛亥革命が起り、急遽帰国してこれに参画し、中華民国の平定と確立に努力され、中国の最高指導者となられました。 昭和六年以来、日本とは不望の干戈を交えることとなりましたが、同貮拾年終終戦となるや逸早く「以徳報怨」(怨に報いるに徳を以ってせよの意)の布告を出され、自らそれを実行なさいました。 それは、我が国の天皇制を擁護し、国体の護持に努めてくれました。 我が国の分割占領に反対し、分断国家となることを防いでくれました。 厖大なる賠償金を免除してくれました。 中国にあった我が国の将兵や在留同胞の安全と迅速なる帰還に尽力してくれました。 かくて今日の日本が存在し発展がある訳でありますが、これらの恩顧は私たち日本国民にとって終生且永遠に忘れることは出来ません。 殊に氏の「以徳報怨」の思想は中国の儒学思想に基くものであり、東洋道徳の根幹となるものでありますが、これを実践した氏の遺徳は我々日本人がたたうべき道徳の鑑であり、子孫への教訓ともすべきものであります。 折しも、蒋公生誕百年に当り、ここに県民有志の御協力を戴き、蒋公が守護なさいました、天皇の御先祖を奉祀する伊勢山の地に、第五代宮司龍山庸道氏の御好意を得て頌徳碑を建立、以って蒋公の遺徳を顕彰し、且は報恩の志を永く後世に伝えとするものであります。 神奈川県日華親善協会理事長 聖心女子大学名誉教授 助野健太郎 撰 ちなみに、この聖心女子大学というのはカトリック系の学校で、そうそうたる方々が学んできた名門です。 まずもって、皇后陛下の出身大学ですよね。 そして元国連難民高等弁務官の緒方貞子さん、渡辺和子ノートルダム清心女子大学学長、元日本婦人有権者同盟会長の紀平悌子さん、作家の曽野綾子さん、幸田シャーミン…… また、キャンパスはもとの久邇宮邸であり、香淳皇后(昭和天皇皇后)が幼少を過ごした地だそうです。 (注)冒頭の葉山海岸での出来事は、女性陣だけが体験したことで、本当のことを言うと、私は二日酔いのため寝過ごして早朝散歩に参加できなかったのです…… 記事は、興奮して帰ってきた女性陣のお話をもとに再現。あの日、無理してでも散歩に行くべきだったのか、それとも酒臭い息でお話しを交わすことがなくてよかったのか、どっちが良かったのか、いまだに分かりません。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
どうして一緒にお写真を、と申し出ませんでしたか。
山下町にもフィリピンで活動して名誉市民称を受けている方がいたりしますが、どこぞの国が云々ととやかく言う前に自分の目で見て接することですね。
頭が真っ白になって、写真を撮るなんてできなかったのです。
会話をするだけで精いっぱい…
>フィリピンで活動して名誉市民称を受けている方
山下町にそういう人がいるんですか。
知りませんでした。
フィリピンと横浜といえば、渡辺はま子ですね。
そしてリカルテ将軍。
彼は長いこと山下町に亡命していましたが、
詳しいことは分かりません。
今後の調査が必要です。