中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

港橋の下で暮らす人々

2022年03月30日 | レトロ探偵団

 これは昭和5年9月23日の横浜貿易新報に載った写真。例によってある目的で図書館の新聞記事を探しに行ったのだが、ついつい、こんな写真などに目が行ってしまって、無駄にコピーを撮ってきてしまった。

 当時の横浜には大正12年の関東大震災、昭和2年からの昭和恐慌、そして昭和4年秋から始まった世界恐慌により、苦しい生活を送っている市民がたくさんいた。
 横浜駅東口の砂利置き場で暮らしている人たちや、このように橋の下で生活している家族を哀れに思う、などと紹介する記事が毎日のように出ていた。



 こちらが本文だ。

 「橋の下にも世帯がある 人が住む三尺の天地」という見出しをつけて、横浜市役所前にある港橋の下でゴザを敷いて暮らす一家を取り上げている。

 「彼らには住むべき家もない、職にも有りつけない、どん底生活の果てがついにこうした惨めな境遇に落ち込んだのである。失業苦と生活苦の最後こそ実に哀れではないか」
 新聞記者も他人事みたいな書き方だ。目の前には横浜市役所があるのだから行政は何らかの手を差し伸べるべきだ、といった記事は書けなかったかなぁと思う。

 この港橋の下を流れていたのは派大岡川である。これは川というより運河というほうがいいと思う。江戸時代、今の関内・関外・南区あたりまで釣り鐘状の入海だった。17世紀に吉田勘兵衛が大半を埋め立てて吉田新田がつくられた。さらにその後、現在の関内にあたる太田屋新田がつくられたのだが、そのとき両新田の境界線を埋め残して運河をつくった。これが派大岡川とよばれている水路だ。


 昭和31年の空中写真。左上や真ん中に写っているのは接収した米軍の兵舎だ。横浜公園の中の四角いのはフライヤージム。これは長者町にあった米軍の体育館で、こちらに移転してきたあと、横浜公園体育館となり、昭和40年代末ころまで存在していたと思う。


 横浜市市史資料室の写真から。角地に建っているのが横浜公園体育館だ。


 在りし日の港橋。 


 

 現在、派大岡川は埋め立てられ、そこには水に替わって自動車が流れている。


 かつての港橋はなくなってしまったが、現在はこんな歩道橋が残っている。



参考:大岡川(桜川と派大岡川の歴史)



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6 コメント

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Unknown (管理人)
2022-04-05 09:33:57
>作治さん
この事情を誰かが書いて、
ひっそりと掲げてほしいですね。
おそらく役人はあそこを通らないから、
ずっと知られないでしょう。
返信する
案内板は内容が切りがない (作治)
2022-04-04 22:16:40
この地のあの頃に束になって起こったことは表示すると切りがない、高速道路と言う「国家事業」と思い込みの役人が(新採用の優秀と思しき大学出の知性の無い新人)劈頭にブルドーザーで障害物と思い込み地ならしを挙行したのだ。その埋められた物は寿町に居住していたがその中に居ると博打やその他違法な事の付き合いを嫌がる寿町の健全難民の全財産だったのです。最初悪れれば終わりも悪い、完成してみて初めて分かったとは驚き、高速道路の導流路の真ん中には公園もあり高層マンションも有る、そこに歩行者が行けないのだ。慌てて作ったのが湊橋だ。こんな事の説明看板よりこれに関わったバカ面を掲げたら。
返信する
Unknown (管理人)
2022-04-04 09:48:31
>作治さん
この歩道橋を通る人は少ないです。
たまに通ったとしても、このような歴史は知らないでしょうね。
ここに案内板を設置するべきだと思いますよ。
返信する
港橋の橋名板を見て (作治)
2022-04-02 17:52:46
この橋は高速道路の建設の時撤去されて廃棄処分となったのですが廃棄とはゴミ扱いの邪魔物です、だが途中でとんでもないお宝であるのが判明。それは鉄くずで処分しようとしていた時、新潟の三条市の助役から是非譲って欲しいとの電話。本物の刃は徳川時代から明治初期のハガネでなければだめなんだそうです。それでイギリス製の港橋もOK。花嫁話がすぐ決着、即全部持っていかれた。だがこの橋には日本に対する敬意だろうか菊の紋章が有ったのだ、取り返しに行って二三のブロックを持ち帰る事が出来た。現況の歩道橋の橋名板に孤独に埋め込まれているのがその時のブロックです。新潟燕三条の刃物が世界的になったのは港橋のおかげです。
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Unknown (管理人)
2022-03-31 11:02:16
>冬桃さん
横浜市に区制が敷かれたのがは昭和2年。
そのときからずっと暗い影が付きまとっていました。
この写真は戦後すぐの頃ではなく、
昭和5年ということに驚きます。

今日の朝、テレビで放映されたウクライナのおばあさんが語っていました。
「私はホームレスになってしまった…」と。
そのあと、橋の下で砲撃を逃れている親子の映像も。
日本もいつまた、こうなるか分かりませんね。
返信する
さらに…。 (冬桃)
2022-03-31 08:11:20
戦争の時代へと突入して、日本はますます
厳しい状況になったのですねえ。
そして戦後の焼け野原、食糧難。
橋の下にいた人々はその後、どんな道を
歩んだのか。
子供もいたでしょうに、胸が痛みます。
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