どうやら私は哲学ゾンビのようだ。
つまり人格が形成されていない。
人格が形成されていないから、内外の刺激に対する反応で生きている。
ずるい人が、何回か私に刺激をぶち込めば、反応を返す。
そうやって刺激と反応に関して私をグラフ化して、私を関数化すればよい。
それで望みの戻り値が欲しければ、それに応じた引数を入力すればいいのだ。
それで私はずるい人に操作され、利用されていたのだ。
つまり私は道具である。
人格を持たない人に愛情や友情を持つ人はいない。
ゆえに私には利用者はいても、心理的に近しい人たちは家族のみだったのだ。(それでも優しい家族がいるだけ私は幸せであるが。)
そんな風に私は感じていたのだ。
人格の根底にあるのは、情緒の発達と、情緒の対象恒常性である。
私の場合、スキキライ以前に反応のみなので、あてにできる人間関係は作れない。
それでは人は去っていく。
さて、私は人に道具扱いされる怒りや悲しみを分かってくれる優しい隣人が欲しかった。
そのために白羽の矢を立てて人格的な交わりを持ちたかった相手が、いつも症状として私が苦しめられるさせられ思考のターゲットになる人物なのだろう。
もっとも、相手は人格を持った人であるから、人格の形成されていない私とは人格的交わりを持ちたくてもできないが。
まあ、私の場合、昔でいうところの知恵遅れがあり、その知恵遅れのゆえに、環境に対してうまい適応ができなったのであろう。
こんな私を憐れんでくれる人は誰なのであろう?
いまさらながら、求憐唱でも唱えて寝ることにする。
おやすみなさい。