りゅういちの心象風景現像所

これでもきままな日記のつもり

なぜ、ダブって見える?

2020-11-27 03:42:57 |  映 画 
偶然に「風と共に去りぬ」の映画が視界に入ったのだが、これは偶然などではないかもなぁと思いながら、
ほとんど無意識に再生してしまって、前編を半分ほど観てしまった。。。
時間が余ってるわけでもないのに、これを再生してしまったのは、少々うかつ(^ω^ゞ
途中で「こんなことしてる暇はない!」と気づいて、停止。
消したところまではよかったが、見たことあるはずの物語の先が気になって仕方ない。
そう思いながら、「風と共に去りぬ」とは直接には関係ないはずの「ジュディ・ガーランド」のことを思い出した。
「オズの魔法使」の。
それがきっかけで、連想に連想が連なり、なんだか頭の中が収拾つかないことになって。。。
こんなことなら、一本、映画を見切ってしまった方が気楽だったかも知れない。

原作、映画ともに誰もが知る名作で、それがあまりにも有名過ぎるがゆえに、
わかったようなつもりになっている。
そういう作品って結構ある。
だけどこの2本を、このタイミングで、なぜにこんなに意識してしまうのか?
個人的に?
いいや。「個人的」な「映画」など、普通は存在しない。

「風と共に去りぬ」と「オズの魔法使」に、なにか共通することがあるか?
と言えば、共通点はある。
監督が同じ。
しかも、同じ年、1939年にリリース。
この年にドイツやソ連がポーランドに侵攻したこととか、ノモンハン事件が起こっただとか、
映画を観たところで思い出すことはない、はずなのだけど。

「風と共に去りぬ」っていう作品は、僕にとってはずっと「やっかい」な存在であり続けている。
素直に申し上げれば、「偉大なる敵」と言うべき作品。
心の底から嫌いな作品なのだが、同時にこれを無視することができない。
映画にしても、公開から80年は経とうか?というほどに古い作品であるにも関わらず、
この作品はある種の魔法の力で生き延びている気さえする。

小説、映画両方にかなりのファンがいて、その方々とのやり取りが大変に面倒だった時期があって、
その面倒を「なつかしく」思い出したりもするのだが、あの時期に考えたり思ったりして
釈然としなかったなにかについては
いまだに継続中という感じで、思い出すたびに面倒な気持ちになる。

しかし、あのメラニーが今年2020年の夏に亡くなったという話を聞いて、驚きながらもまたいろいろ考えてしまった。
104才だったということも驚いた。
あの美しいメラニーが?
104才になったメラニーを、僕はまったく想像できない。
と、同時に、現在に至るまでずっと続いてきた得体の知れなかった何かが、
例えば「風と共に去りぬ」を通して見透かす事も可能になってきたような、そんな実感を得た。
これを簡単に語ることはほとんど不可能に思えるのだが、これほど確信めいた。。。というよりも、
核心と言い切れる場がこの現代にあらわになったことを、たくさんの人たちがそれと知らずに目撃していること自体が
驚きを通り越して必然に思える。
得体の知れない「やっかい」さや、僕が心の底から嫌いだと思っていた
ある種の「構造」がようやく透けて見えるようになってきた、そんな気がするのだ。

そこになぜか、「ジュディ・ガーランド」が被る。。。
「ジュディ」「ガーランド」。
そういえば、彼女の伝記映画が日本でも公開されたらしいのだが、まだ見ていない。

いや、この連想は本当は単純なことをただ複雑にするだけのような気がする。
あまりに凄絶な彼女の生き様を知るにつけ、あわれと思うことさえ虚しくさせるような、
そういう「構造」を社会の「当然」にしてはならないと、怒りさえ覚えるのだが、
整理はせずにここは一旦放り出しておこう。
ただ、どちらもなおも継続中であり、現在の問題であり続けていて、
それが2つの作品を「名作」ということにしている。

それにしても、ヴィクター・フレミングという男の正体はいったい???




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