りゅういちの心象風景現像所

これでもきままな日記のつもり

「正一位稲荷」流行の素地

2023-09-09 09:37:54 |  日 記 
「吉田神道」が神道界で権勢を誇っていたことには、時代の不思議としか言いようのない不可解さがある。それが室町時代から江戸時代も中頃までの間の長きに渡って続いたことも、また謎というべきで(*‘ω‘ *)
「吉田神道」という名前は知っていても、果たして往時の実態がいかなるものであったのか?僕に語ることなんて、ちょっとできない。自分で語るべき材料を持たないのだ。
ただ歴史と言うか、年表的な流れとして、「吉田神道」がその時その時の権力者たちと、どういうわけかしっかりと結びついてきた、これだけは分かる。
それが本当に不思議でならないのだ(´ε`;)
日野富子と結びつき、織田信長と結びつき、豊臣秀吉とも結びつく。
細かいことはわからなくても、「乱世の神道」とか、そういうイメージが浮かんでくるのだけど、徳川家康とはうまく折り合いがつけられなかったのには、「白川神道」が花山源氏であったことに加えて、乱世とは違う「神道」のイメージが家康サイドにあったからではないか?それくらいまでは、なんとなく想像してしまう。
それでもどういうわけか、「吉田神道」は家康の死後、しっかりと幕府と結びついており、もはや揺るがぬ既得権益とばかりに神職の任命権者となっている。

僕にはよく分からない「吉田神道」から話し始めなければならないのには理由がある。
乱世に、えも言われぬ不思議な説得力でもって「白川神道」を押しのけ、神道界の中央に躍り出て以降、権勢を誇ってきた「吉田神道」。これが江戸時代半ばにじわじわと失速する。
「吉田神道」の失速とも、墜落とも言える事態が起こる一方で「白川神道」が室町時代以来の復活を遂げることになるのだが、これが江戸を中心に「稲荷神社」が急激に増殖していく一連の流れにほぼ重なる。

「稲荷神社」の勧請について、「白川神道」「吉田神道」「伏見稲荷」三つ巴の覇権争いがあったという話を聞くが、その詳しい事情はわからない。どなたか、専門家のご著書を拝読してみようかとも思うけれど、僕の目下の関心はそのムーブメントを誘うことになった背景にある。

神道の構造的な変化とも呼ぶべき潜流が、少なくとも江戸中期には、具体的に「国学」として顕在化し、それが幕末に向けて大きな思想的バックボーンとなっていく。「吉田神道」凋落のきっかけも、「国学」の側から提出された「考証」のひとつの結果として見られている。
「稲荷神社」の過激なまでの増殖は、江戸後期から幕末期の思想的転換が結実した、その象徴のようにも見えてくる。
もっとも、これは「後世から見れば」という後付の視点からの印象に過ぎないかもしれない。
「稲荷信仰」には、どこか江戸の町人文化、あるいは江戸周辺の武家が求めた「ポップ」な要素があるようにも受け取れるから。
正しく「流行」と呼ぶべき江戸の「稲荷信仰」は、どこか明るいというか、軽さがある。
江戸の「ポップ」とか、江戸の「コンテンポラリー」とか、そんな風に解したほうがストンと理解できるような気もする。
武家、庶民を問わない大流行の陰には、一方で真摯で地道な学術的、理論的バックボーンがちゃんと控えていた。単なる「現世利益追求」の「お手軽な信仰」としてだけ見ることは、これもまた難しい。
「稲荷神社勧請」にある種の「ポップさ」というか、「流行」というか、そういう動きを見ようとする時、その素地というか、土台に「お伊勢参り」があったのではないか?これは直感というよりは、「お伊勢参り」の大流行がもたらしたであろう、当然の結果のように思える。

江戸の中期には、すでに「お伊勢参り」は一般化していて、六十年周期で人々がお参りする流れが出来上がっている。士農工商に関わらず、「日本人」のほとんどすべての人たちが「お伊勢参り」の意義を理解していたとして、ほぼ間違いない。
そうした大きなサイクルの三度目が江戸後期の1830年(文久8年)にあたる。この時の「お伊勢参り」はとんでもない数の参拝者数(一説には五百万人超と言われる)を記録しているそうなΣ(゚∀゚ノ)ノ
それとは別に、「お伊勢参り」を巡る文化的な側面もかなり充実してくる。
十返舎一九の「東海道中膝栗毛」は1802年から20年ほど出版が続いていたり。
「お伊勢参り」は「流行」でありながら「流行」を超えてもいる。「ただ流行ってしまった」だけではなく「確信的」に日本人が参加してきた壮大な「祭」として、江戸後期に結実したとさえ言える。

「お伊勢参り」が全国の「日本人」の心に訴えたことはどんなことなのか?
一生に一度の「お伊勢参り」は楽しいことこの上ない大旅行であっただけでないはずで。
「伊勢神宮」をお参りすることで、「日本」という国の姿を思うきっかけは十分に得ていたはずで。当然、複雑な八百万の神々についての考察も深まるはずである。認識のレベルというか、ステージを変えるほどのインパクトはあったはずなのだ。

当時の人々の感覚を探るとなれば、僕にはさらに難しいことになるけれど、どこか「真面目さ」があって、ただその「真面目さ」には重苦しさは全然ないように感じる。
素直な想像をしてみると、なんだか普通に「日本人」の姿を見るような(^o^;)
まぁ、紛れもなく、僕らのご先祖様の話ではあるので、「日本人的」であることには間違いはないのだけど(^o^;)
「日本の姿」を真っ直ぐに見つめ直そうとしている人々の姿が見える気がするのだ。真面目で、真っ直ぐで、とても楽観的で、前向きな眼差し。
もっとも、これは僕の他愛ない想像に過ぎない。
文政といえば、「コロリ」の大流行のあった頃だ。
現実の悲惨さを背後に「お伊勢参り」をする人々を今一度想像してみれば、ある種の楽観的な様子も、前向きな眼差しも、切実の裏返しに違いない。

ここでの関心は「稲荷神社」。
少なくとも、「お伊勢参り」によって伊勢外宮の「豊受大神」、同一神とされる「宇迦之御魂大神」への崇敬もまた育ったはずである。
勧請先がどちらであっても、自分たちのもとへ「正一位稲荷」においで頂くことに、希望、光明を見出す心が「流行」の正体、少なくともその一角を占めていたはずである。





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