彼岸花が咲くと黄花コスモスも咲き始めます。これからひと月あまり短い期間ですが、おだやかな秋日和がつづきます。
写真左側にそれとなく揚羽を入れてありますが、見付けてください。(mezzo kyoko)
彼岸花が咲くと黄花コスモスも咲き始めます。これからひと月あまり短い期間ですが、おだやかな秋日和がつづきます。
写真左側にそれとなく揚羽を入れてありますが、見付けてください。(mezzo kyoko)
トンボのお返し
9月16日の午後、トンボが汲み置きのバケツの中に浮いていました。
死んでいるのかと思ったら、動いているので、植木鉢のハイビスカスに乗せたらそのまま、一晩中、葉っぱにぶら下がっていました。
朝起きても、まだ同じ所に、ぶら下がっています。
もう、このままダメになるのかなと思っていたら、9時過ぎに、ふと気が付くと葉っぱを離れて、テスリに止まっていました。
〝良かったね~、飛べるようになったんだ~!〟と話し掛けていると、一瞬の内に飛び去って行きました。
まるで、〝ほら、元気になったよ、見て!見て!〟と言っていたようで、嬉しくなりまた。(ソプラノyo)
終点の電停に電車がいないのはめずらしいことです。市電は14時から運行とか・・(12時頃撮影)
945hpa、最大瞬間風速70m/secかって経験したことのない超ド級の台風10号、これが我が家を襲うかもしれない、木造一戸建て住宅に抵抗のすべはなく恐怖感におののいた数日でした。それが何事もなく通過してほんとに、ほんとにほっとしてます。でも台風はこれでお終いではないので、次がまた心配になります。台風がこんなに発達するのは地球温暖化のせいですから、その防止策を進めてほしいですよね。とくにトランプさんにはパリ協定にもどってほしい・・・。(mezzo kyoko)
熊本駅方面へ向かう市電を河原町電停で下りて10㍍ほど同方向へ歩くと左側へ1本の路地が通じています。この路地の両側が嘗ての河原町繊維問屋街です。今回はその探訪記をアップしました。(カンリニン)
右側のブロック造り2階建ての建物が繊維問屋街です。熊本地震で落ちた外壁が修復されずに鉄骨がむき出しになったままでこの界隈の「今」を象徴しています。
この路地へトタン屋根バラックの店舗が建ち始めたのは終戦直後のこと。熊本駅前の朝鮮人露天商50人ばかりがここへ来て商売を始めたのが起こりで、いわゆる焼け跡闇市が出発でした。それが昭和25・6年頃になると、よほど条件が揃っていたのか、120軒の衣料問屋が軒を連ねるまでになり、県下の小売店を得意先に繊維の街として急発展、殷賑を極めます。しかし、それも長くは続かず昭和28年の6・26水害、同33年の問屋街火事等によって打撃を受け繊維業界の変化などと相俟って次第に衰退に向かいます。長六橋詰めに発着所があった川尻電車(市電川尻線)の廃線(昭和40年)なども影響したと思われます。
建物の内部には2本の通路が通り、その両側に店舗がひしめいて賑わっていたと想像できますが、今はほとんどのシャッターが閉じています。わずかに通りに面した一軒が喫茶店をやっているくらいです。その喫茶店(OUT OF STEP)に入ってアイスコーヒー(300円)を注文しました。赤ん坊を背負った女性が1人でやっています。母親がコーヒーを作っている間、背中の赤ん坊は私を見てにこにこ笑っています。表に女性が立っていますがパンを買いに来たお客です。こういう客が私が店内にいる間にも3人来ました。それで分かったことはこの店は喫茶店ふ風でありながら内実はパン、クッキーの店であること、結構繁盛している。
このような看板が取り外されずに遺っていました。「三強桜学生服・小川商店」、「東レWA-7、ウールの風合いテトロン ドスキン」懐かしい宣伝文句ですね。
「テトロン」の「テ」は帝国人絹の「テ」、「ト」は東洋レーヨンの「ト」でいずれも会社名の頭文字。「ロン」は「ナイロン」の「ロン」からきています。
左側の長屋風建物がかってのトタン屋根バラックだったところ。右側奥に繊維問屋建物がある。この路地は電車通りまで121㍍ある。
地権者が大勢いて利害が一致しないので取り壊すこともできずに発展が止まっているらしい。(地元の人の話)
颱風9号が恐れていたほどの風雨もなく去って行き、ほっとしましたが夕焼けが美しい空になったので写真を撮ろうと急いで江津湖まで行きましたが、秋の日は釣瓶落としですね、移動中に冷めてしまいすっかり色褪せた夕焼けを撮ることになってしまいました。(ザンネン)
台風は次の10号が怖そうですね、どうか少しでも逸れてくれと祈るのみです。(mezzo kyoko)