今日は亡妻の実家の嫁の27回忌の年忌法要でした。略式で菩提寺で執り行われ実家の親族のみの総勢14人でした。最近お寺で身内のみの年回法要が行われるのが多くなってきています。
この寺へは実家や親戚の葬儀で何度も伺っているのに、最近行ってなかったのと国道が改修され、道中を間違えお寺付近を周回し、歩行中のお婆さんに教えていただき、正門前で願主一行の車と上手い具合に遭遇しました。
東京から来た孫一家の3人、同じく東京からの義妹夫婦と娘の3人、春日井から来た義妹と連れ添いの2人などに久闊を喜び合いました。
中でも東京から来た2歳の孫娘は可愛盛り、話しかけても大人の問いかけをよく理解し聞き取り、活発にお答えできお利口でした。母親は東京の中小一貫校の社会・書道・生花の教員をやっていて、2歳の娘は保育所預けだというのでまた驚きです。
全然人見知りしない東京っ子に成長していました。
実家の屋敷つづきに別棟で住む長男の子、孫も小4でサッカー少年の由、ハンサムボーイになっていて故人はさぞ喜んだでしょう。
法要は11時から始まりごえんさんは、正装で略式の袈裟掛けではありませんでした。読経は浄土真宗本願寺派(西本願寺派)なので観無量寿経を勤められました。そこで休憩。
坊守さんがお茶とお菓子を振舞われ何かの拍子で、お坊さんの呼び方を教えられました。
一般的に「ごえんさん」「ごえんじゅ」と呼ばれるが「御院主さん」「御院主」のこと。「御住持」なども正しい。「ごえんさん」「ごえんじゅ」などは訛った言い方でそれでよい。昔は10円がないので5円さんと言ったとか・・そう覚えてくださいと。
浄土真宗は庶民仏教なので「和尚さん」とは呼びません。和尚さんは禅宗の呼び名で出家されたお坊さんの呼び名です。浄土真宗のお坊さんは禅宗並みの修業はしていますが出家していません。妻帯し剃髪していない。
同行と一緒の立場・立位置で一段偉い存在ではないのです。
同行衆と同じ「御同朋:おんどうぼう」「御同行:おんどうぎょう」なのです。
なるほど!長い念仏生涯で初めて聞く確かなお話でした。
そこで本堂正面の扁額をどう読むのか、お茶が出される前話し合っていて、義弟が聞きました。
「蜂谷精舎」です。
地名が岐阜県・美濃加茂市・蜂屋引田なので、このお寺を建立されたのが戦国時代の武将蜂屋頼隆であることにちなみます。地名も蜂屋ですが、蜂谷とも名乗ったのです。精舎は平家物語の祇園精舎と同じです。
(釈迦がインド舎衛国にあって浄土の美しく尊い姿を示し、一心不乱に念仏すればその浄土に生まれると説かれた場所が祇園精舎。仏説無量寿経(大経)、仏説阿弥陀経(小経)になっている)
扁額は4代前の○○上人の筆書です。この上人の現地入りの時の籠が天井に吊るしてある籠です。現ごえんさんは24代目。
蜂屋頼孝は如何なる人物であったかお話され、インターネットで繰ってみて・・と、名調子で説かれました。
第2部は阿弥陀経を勤められしっかり1時間でした。実に丁寧なお勤めで寒中の本堂はストーブ5、6台では寒かったが2度も焼香しありがたい法要でした。
そこから予約してあった料理店へ移り皆で酒なしの会食をしました。
この観音さまは深山幽谷というほどの深淵の地ではありませんが、古代から歴史を重ね境内や参道の樹木は太くこんなに紅葉の木が多かったかという感じです。参道沿いのお店の前の歩道には両側に約1kmにわたって出店もびっしり並んでいました。
本堂前には大きな観音像が立っておられます。本尊は十一面観音さまとありました。犬山寂光院の縁日ににお参りすると、山主さまが護摩供養の後短い説教をされます。観音さまは世の音を聞いておられるので、ブツブツ願い事を呟いてお参りせよと教えられます。
四国の霊場巡りのよう正装した巡礼者を見ることはほとんどありませんが、ここ谷汲山は西国巡礼の満願道場なので、本堂脇の小さなお堂には昔から納められた白衣が何重にも積重ねられて納められています。参道には巡礼用の白衣、輪袈裟、菅笠に杖、頭陀袋などを売っているお店や、納経証を掛け軸に軸装するお店もありました。
1歳を少し出たくらいの小さい女の子がお母さんの手を握って、石段を一歩づつ大股に登っていく可愛い姿もあって、思わずガンバレと声をかけたくなりました。今日は子どもさん連れの親子やジジババにもたくさん会いました。
(地図が動いたときは記事タイトルをクリックして初期化してください)
今日は3連休最終日の勤労感謝の日でした。少しどうでも良いかなと思いましたが、家から30km小1時間の岐阜県揖斐川町谷汲・天台宗谷汲山華厳寺へ紅葉を見に行ってきました。
西国巡礼33番満願霊場で何回もお参りしています。久しく行ってないので、少し回り道して岐阜市北部を山県市経由で行きました。40km弱1時間半のドライブでした。
立派な山門前から約2kmは両側が旅館、みやげ物、飲食店などが連なる参道です。
参道でドカンと大きな音がして驚きました。何とポンハゼを売っていて行列待ちしていました。
紅葉はそれほど寒い地域でないため紅色は鮮やかではありません。
山門入口横に駐車料400円の村営駐車場があり千台くらいがほぼ満車でした。
今日は日本中絶好の好天気、お彼岸の中日、日本は祝日となっています。昼と夜の時間が同じ日で明日から日が短くなります。今日の新聞運勢はややお疲れ気味、休養をとれ、となっていました。そのとおりで夜間頻尿で2,3度起きるので昼間しっかりしません。
昼頃嫁にお墓のお供えの花をしたか聞かれて、墓参をすっかり忘れていました。花を嫁に頼んで少し昼寝、ボケ頭で生協へ食材を買いに。仏壇の花を一番安い売れ残りを1束買いました。そしてお墓参り。まだ若い者はお参りしてないのか花はまだ飾ってなかった。線香と蝋燭も忘れ墓掃除だけしてお参りしました。
ほかの店へ寄り道して家へ帰り、生協で花を忘れて来たことに気づきました。その時ちょうど電話が鳴るので急いで部屋に入り受話器を取ると女性の声、「あゝ生協さん、お花忘れたね、これから貰いに行こうとしたとこ。ごめんなさい」。生協は出資者なので利用カードで誰が忘れたか分かるのです。
耄碌するようになりました。亡妻が怒ってるね。いつも安い300円のマレーシアマムしか飾ってくれないのに。手帳やカレンダーに行事や予定を書きますが、お寺の彼岸会だけ書き、墓参を忘れて書いていなかった。
先日姉の米寿祝で帰省した時、一夜実家でおよばれし泊めてもらった。その際兄が母の3回忌も終わったし、本山への須弥壇(しゅみだん)収骨・骨収めに京都の東本願寺へ12月に行こうと思っている。本来は兄弟も揃ってお参りが正式ながら家族の慰労を兼ねて、身内だけで行きたいが了承してくれるかと求めた。
それで十分、自分の家内の時は二男と二人で行って、若い者に声掛けまでしなかった。
高山市ナンバーワン長寿者の108歳まで生き、新聞にまで載せてもらい、最後の数年間は寝たきりになり下の世話から、食事から一切の介護を若嫁と、姉とが中心で世話してくれた。兄はJA役員を退職して1年間は中心で介護した。(兄の嫁は亡くなっている)
月に10日はショートステイで施設のお世話になり、20日間は週に3日ディケアで施設に昼間だけお世話になった。長寿は金も要るし大変です。県下の長寿者の2番目くらいだったようだ。
実家も一区切り、孫娘は今春帰郷し幼稚園保育士になり、入れ替わりに孫息子は岐大に進学し、2人の親は単身赴任から戻り、地区の教育委員会勤務に。やっと落ちついたところ。ゆっくり家族旅行してお参りしてきてほしい。本来は金一封を包むべきだった。
須弥山とは、”人間がたどる「六道輪廻」の世界
私たち人間が住む世界は有限的「須弥山」世界である
仏教的世界は非常にスケールの大きい、空想に満ちた宇宙だが、須弥山という山を中心にした一世界に人間が住んでいるというわけです。詳しく知りたければ「仏教 早わかりエッセンス辞典」(土屋書房)をご覧ください。
いいお彼岸日和で、ヒガンバナが満開です。
台風11号の前触れで朝から雨でした。長崎平和祈念式典をテレビで見ながら午前11時2分から1分間の黙とうをしました。市長挨拶では7万4千人が犠牲になり、7万5千人が負傷され、今なお苦しんでいるとのことです。
尾張・最古刹、もみじ寺、継鹿尾山(つがお)寂光院の観音さまの縁日へ、散々迷って思い切って行ってきました。
12時少し前家を車で出て30分くらいで着きますが、社前の駐車場が少ないので山の中腹まで歩かねばならないから。いつもの木曽川沿いの公衆トイレ前駐車場に車を置き、5,6分傘を差し歩いて門前に着き、そこから3,4分また急坂を上りようやく到着です。
受付で短冊にハンコを押してもらい300円のお志納、入山料を払います。短冊3冊目が「満願ですね」と言われ、護符を貰いますか聞かれました。当然無料と思ったら逆に千円必要で護符5枚で何かまたくれると言いました。
千円を惜しんだというより護符が仏間に邪魔になるので辞退し、受付だけに、護摩木に「病気平癒」と名前を書いてもらいました。300段の階段を上って、本堂へ行く元気がなく護摩木を受付けへ預けました。
聖徳殿へ行き「ひろさちや講演会」受付、800円の入場料になっていて昨年より300円も値上げです。お寺は無税のはずだが値上げでした。
和室の大広間が講演会場でほどなく山主挨拶で開会となりました。京都知恩院を本山とする真言宗です。
南無聖徳太子 南無遍照金剛 南無釈迦牟尼仏 を導士に従い2回ずつ唱和し、最後に千手観音菩薩のご真言「おん ばざら たらまきりく」を2回称えます。(これは釈迦は翻訳を禁じた)
山主挨拶は「今日は開催を心配したが、今日で30回目の記念大会となった。昭和60年から雨で中止になったのは1回だけ」とかでした。
聴衆は2百人くらい、やはり少ないがひろさちやファンは多い。さすがです。
先生は少し老化されたが元気で1時間45分の講演をされました。いつものひろ節で漫談調です。テーマはあってなきようなお話。「何だっていい」仏教講座は「分からないことは、分からないとだと、分かることが、分かる」と、いつもの話でした。
インドの昔話、王様が三人の泥棒を死刑にすることになった。女に言った。誰でもいい一人だけ助けてやる。誰を助けるかと聞いた。泥棒3人のうち1人は主人、1人は息子、1人は弟で、女は妻だった。泥棒は一家だった。さて女は誰の助命を頼むかとの寓話から始まった。
正解は誰を指名してもいけない<仏様にまかせる>。サイコロの賽の目で決めること。
仏教は分別(ふんべつ)するなと教える。無分別が良いと。無分別が仏様の知恵。偶然はほとけのみ心。
そう思うこと。
曼荼羅とは何か、マンダは本質ということ、ラはもっている。という意味。本質を持っている、これが本当の人間の姿、仏様のこころを誰でも多い少ないはあっても誰でも持っている。
曼荼羅の世界だ。出鱈目は仏の知恵というようなお話だった。
聴衆はきみまろが相手にするような、アハハの善男善女でした。
終わりに30回記念に著書を希望者に上げると、挙手とジャンケンで30人ほど選ばれた。その途中で退出し、受付、休憩所前でアンパン1個をみやげにいただいた。
帰りは土砂降りでズボンの下の方は濡れました。すごい修行でした。
亡妻の17回忌法要を内輪だけで勤めさせていただきました。
命日は6月でしたが、夏休みに入ってからの方が若い者や孫の都合がいいだろうと、今日8月1日に日取りを貰っていました。上の孫は大学のテストで欠席、中孫は京都で病院実習とかで欠席でした。
ずぼらして、昨日供花を買ってきたくらいで、今朝から仏間や仏壇のお浄め・掃除など嫁とバタバタ準備しました。
親戚は呼ばず内輪だけの法要で略式です。飛騨のお在所はお寺へ行きお経をあげて頂くさらに略式です。昔のような煮炊きを自宅で行い、親戚の手伝いで2,3日かけ準備するなんて法事はもうできません。
暑い中をお若いご住持にご丁重な無量寿経を上げていただきました。
もう16年も過ぎて「生きていますか?それとも死なずにいるだけですか?」私たちはこの問いにどう応えることができるでしょうか。(生きるってどういうこと、仏教講座の通年テーマの問いかけです)
佐世保の26日に亡くなった高校生は今日がもう初七日です。どうかいいところへ生まれ変わってほしいと願っています。
仏教の教えは「生まれ変わり死に変わりして、やがて仏になる」という教えです。
仏教の世界では、人は死後49日間にわたって、あの世とこの世の中間の世界である「中有(ちゅうう」をさ迷い、49日目にようやくあの世に達すると考えられている。そして、その49日間の間に”7つの関門”を越えなければならない。そのために七日目毎に法要をします。七つの関門の無事通過と、よりよい死後の世界への到達を願うからです。77日忌49日目が満中陰、満願の日です。この49日間を中隠とか中有といいます。
遺族は最低この期間喪に服します。49日目が忌明けです。
(仏教早わかりエッセンス辞典:土屋書房参照)
数日前、菩提寺からお盆法会の案内が郵送されました。お寺の行事は毎年法会の日取りは決まっていて不変です。
8月初めに2日間にわたって厳修されます。いつもの案内書の「たより」の他に仏教講座の聴講券が6枚入っていました。若いご住職かご母堂の堂守さんのご配慮でしょう。
8月初めは亡妻17回忌法要を家族だけで勤める。お寺さんに来てもらってお経を1巻上げていただく略式だ。今週は仏壇の清掃や赤蝋燭など細々準備しなければならない。
今朝は月命日だったので墓参に行った。
駐車場では土曜日なので何台かの車と、どこかのお坊さんがきておられた。若いご夫婦の奥さんが「おはようございます」と挨拶され、答礼するとご主人も丁寧に挨拶された。
供花はせず蝋燭に灯を灯し、線香を焚いて念仏した。その前に花瓶の水を捨て、隣の墓とのクモの巣を払い、玉砂利の雑草も芽を抜くのが慣例だ。
墓碑の「南無阿弥陀仏」とは何か。
凡ては梵音である。「南無」は帰命の意、「阿弥陀」は無量寿の意、「仏」は覚の意である。善導の「観経玄義分」には、「南は是れ帰、無は是れ命、阿は是れ無、弥は是れ量、陀は是れ寿、仏は是れ覚なり。故に帰命無量寿覚といふ」と述べている。
(無量の命の阿弥陀仏に南無します。帰命します。随順しますの意:無量:量りない、永遠の意)
浄土宗では、身命を阿弥陀仏に捧げる意。
真宗では、阿弥陀仏の勅命に順う意。
時宗では、阿弥陀仏の命根に還る意。
何故六字の「南無阿弥陀仏」が最も親しくまた広く人々に称えられるに至ったのか。それは特に本願による名号だからといっていよい。衆生済度のために特に選ばれた称号だからである。本願とは沙門法蔵、法蔵が菩薩という因位(いんに)のとき、正覚を成じた(さとりを得られた:永遠の真理に目覚めること)その時、人呼んで阿弥陀仏といわれ、阿弥陀如来とあがめられた。同一人物である。
法蔵菩薩が建てた六八の願、その第1から第48に至るまで、悉くが衆生済度の願である。
そのいづれにも「かくあらば(またはかくあらねば)正覚を取らじ」と誓ってある。
もろもろの衆生の悩みを済い、この世から浄土へ彼らを(凡夫)を渡さぬ限りは、仏にはならぬとの義である。
「南無阿弥陀仏」(岩波文庫:柳宗悦)の拾い読み解説です。
墓地は静かで百日紅が満開でした。
昨日は終日雨だったので墓参の日だったが今日に延期した。妻の月命日のお参りである。
4日前の土曜日にも外出の帰途立ち寄り蜘蛛の巣とか、砂利敷の小さな雑草の芽を抜いて墓掃除しておいた。今日は、少し蒸し暑いくらいの天気になり、午後は曇った。
「それ一切衆生、三悪道(さんまくどう)をのがれて、人間と生まるゝこと大いなるよろこびなり。身はいやしくとも、畜生におとらんや。家まずしくとも餓鬼にはまさるべし。
心におもふことかなはずとも、地獄の苦しみにはくらぶべからず。世のすみうき(住み憂き)はいとふたよりなり。・・・」
浄土往生の教えを日本ではじめて仮名で書いた。これを「横川(よかわ)法語」という。
書いた人は「聖衆来迎図(しょうじゅうらいごうず)」や「山越阿弥陀図(やまごえのあみだず)」を描き遺した、比叡山横川の恵心僧都(えしんそうず)という人だ。
尾張最古の古刹寂光院にお参りすると、山主が「どうぞおいとい下さい」と挨拶される。
公園墓地は大きな墓地なので誰かがかならずお参りに見えている、火葬場は友引らしくひっそりと休業していた。
「・・・妄念より申しいだしたる念仏は、濁り(にごり)に染(し)まぬ蓮(はちす)のごとくにして、決定(けつじょう)往生うたがひあるべからず。妄念をいとはずして、信心のあさきをなげき、こころざしを深くして、常に名号(みょうごう)を唱なふべし。」
わが墓石は買い物下手にしては、これは良かった。墓地は妻が生前中にひやかし気味に市の募集に応じ当選、亡くなる前に手に入れていた永代借地。まさか数年後に自分が真っ先に入るとは思わなかっただろう。
亡くなって周囲の墓石を見て回り、白過ぎず、黒過ぎず、大き過ぎず、突飛過ぎず、気に入った墓石を見て、墓石屋を決めた。碑文はこれも気に入った筆の墓から、墓石屋に頼んで岡崎の石工団地の墓石専門家の書家の手になる。堂々とした名号で気に入っている。
浄土真宗は名号を墓石の碑文にする習わしだ。
今日と明日はお寺さんのお彼岸法会がある。納骨塔法要と永代経(えいたいきょう)が厳修される。
志を包んでお参りしなければならないが、氷雨が降って気が重い。長いこと亡妻の実家の墓参りをしていないので、今日明日どちらかで義母の顔を見がてら行かねばと思っている。
今夜はまた仏教講座の日でもある。これも冬の間欠席しがちだった。行かねばならぬ。
昨日の国会中継で、北朝鮮拉致被害者に尽力された中山恭子氏が安倍首相に質問に立ったのを見た。中山氏は今は日本維新の会所属だった。相変わらずか細く、上品で丁寧な言葉を発せられる。
安倍首相は今回のめぐみさんの娘キム・ウンギョン(ヘギョン)さんと面会したことについて「ずっと私たちの宿題だった。一つ肩の荷が下りた思いもする・・」との答弁は本音でしょう。
安倍首相はよくやられたと評価すべきでしょう。昨年3月モンゴルを訪問し大統領と会談、拉致問題解決の協力を要請、9月の大統領訪日の際は私邸に招くなど異例の厚遇、戦略的にモンゴルとの関係を深めて行って、双方の顔が立つモンゴルでの対面場所を提供された。
昨年訪朝された飯島勲内閣官房参与が「外交的には失敗かも知れない。幕引きに利用される懸念」と、ネット記事を見たが飯島氏はその根回しに行ったとばかり思っていた。どういうことだろう。
いずれにしても厄介な隣国で、ミサイルと核開発は阻止しなければ日本は危ない。原発が54基も稼働していて北朝鮮からミサイルで破壊されたら、日本はひとたまりもない、原発再稼働は論外だと学者が警告していた。
福一の汚染水を処理する除去装置ALPS(アルプス)が故障停止した。トラブル続きで運転と停止を繰り返していて試運転すら終わっていないと今朝の新聞だ。正常稼働してもトリチウムだけは残ってしまう。
安倍首相よ、再稼働にGOで行きますか?停めて北朝鮮のように停電ばかりで貧しい国に戻りますか?ああ悩ましい。
(昨日の報恩講の記事にコメントをいただいたので、ご返事です)
死は突然やってきます。私のような在所から離れた地に住む新家持ちは、亡妻の終末医療の最中に、葬儀社とお寺さんをどこにするか、どんな葬儀にするかなど準備しなければなりません。現実は悲しみに浸ってなんかおれないのです。
結果的に頼んだ葬儀屋は失敗でしたが、手次寺としてお願いしたお寺さんは大正解でした。(近くに在所と同じ宗派の寺は3つありました・・)
堅苦しく形式主義を強要されるお寺は末代まで困るのです。それと費用の強制です。
葬儀のお礼もご住職に率直にお聞きました。
今、思うと恥ずかしいような額のお礼しかしませんでした。
お寺さんは当時3億円以上の本堂と客殿を新築中でしたが、あなたは若い家内を亡くしたのだから、余計な心配は無用と良心的でした。
後で聞いた近くの商店の檀家の奥さんは70万円のお願いが建設委員会からあったとか、名古屋の義妹のお寺は葬儀のお礼を80万円求められたとか、飛騨の従姉妹は庫裏の新築に70万円とか、東京の義妹のお婆ちゃんが連れ添いを亡くされ、日蓮宗のお寺で院号をお願いしたら、院号を贈ると後々の付き合いが大変なので止めた方がよいと諭された、とか聞いたところです。
頼んだお寺さんは檀家も多く裕福な寺です。先代のご住職は亡妻と同じ57歳という若さで10年ほど前、遷化されましたが、誠実で、柔軟的思考で、真面目な尊敬できるお坊さんでした。
お寺との付き合いは大事なことなのです。
当時言って聞かされたことは「親が三度のご飯を欠かさず、子にひもじい思いをさせなかったように、親の追善法要は欠かしてはいけません」ということでした。
亡妻の医療費、葬儀、仏壇新調、墓碑建立など総額700万円ほどかかりましたが、多くの方にお見舞いや香典など助けて頂き感謝しています。