たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

大型連休初日

2012年04月30日 | 日記

新緑真っ盛りである。大型連休の初日息子とのゴルフは、自宅出発前新聞見出しにケチ付けたり、仏教講座に非礼を言って、凡そ二七日忌を過ぎたばかりの喪中にある常識人とは程遠い。

朝、待つほどに息子は知多半島から名古屋都市高速、名神高速合流、高速東海北陸道と乗り継いで来たが、一宮のほんの少しの名神が渋滞したといった。

前日、とその前の日の2日間、外注先の秋田へ出張でとやや疲れ気味とか、東海道新幹線、東北新幹線、盛岡で秋田新幹線と乗り継いで行くという、秋田市はやはり遠い地だ。
秋田銘菓「金萬」という焼き菓子のお土産と、3月の韓国出張のハングル文字一色の、「最中」の菓子を土産に持ってきてくれた。来週またも韓国出張かもしれんという。韓国の顧客でもあり・製品外注先は日本語や英語が通じるのか聞くと、できない人は全く通じないと至極当たり前の答えだった。多忙で休養したいという愚息に返って迷惑だった。
長男の娘二人が大学、中学入学だったのでお祝いも沢山もらった。

大型連休初日のゴルフ場は土曜日の好天に恵まれ、70組の満員とかシーズンを迎えて盛況だった。グリーンの状態も最高に仕上げてあって、フェアウェイの芝は未だ早くショットは難しかった。

帰路、家電店に寄り、修理費は1万円掛かるが直すか確認電話を貰っていた コンパクトデジカメ Canon IXY DIGITAL55 の修理完了の連絡を貰っていたので受け取ってきた。
はじめ修理を諦め購入した9,980円の新品 Canon Power Shot A2300 は、4月末~5月初めの1週間の目玉商品で、台数制限なし、お持ち帰り現金特価で7,980円と、早や2,000円も安く、別の家電店の折込が入っていた。

私の世代は貧しい時代に育ったので、モッタイナイ精神にコリコリで、高度な製品をちょっとした故障で簡単に捨てることはできないのだ。

 


大新聞の不適切な見出しと記事

2012年04月29日 | 日記

昨日は息子と好天に恵まれたゴルフを楽しんだ。彼は名古屋の会社に勤める中堅の働き盛り、3日前の夜10時頃、出張するので実家に前泊できない。当日朝迎えに寄るとメールが入っていた。
5時頃起床して準備や軽い朝食、ブログのコメントへ答礼などやっていて、取っている全国紙を読んで彼を待った。

社会面、2段組ベタ記事に近い扱いの、昨日の岡崎市の事件、またも集団登校の列に車が突っ込んだ事故の記事を読んだ。
アララ、この見出し少し変じゃない、本文を読むとこれはおかしな見出しだとすぐ理解できた。
そこでこの日本を代表する全国紙へ抗議のメールをした。
以下はその全文である。無断で回答を公表するのは公序良俗違反は百も承知でブログアップする。

”【件名】
不適切見出し

【お問い合わせ内容】 28日7:29発信
中部版28日朝刊
「岡崎の車突入 男児軽い怪我」とある。昨晩のNHKニュースなど重症と大きく報
道された。本文中に女児は左足骨折で2ヶ月の重症、男児は2週間の軽症を負ったと
警察署の発表を紹介しながら、何故軽症の男児を見出しにするのか○○新聞の見識を疑う。
おざなり見出しならなおのことケシカラン。被害者に二重の被害感情を与えた。
返答をいただきたい。

○○さま
                               2012年4月28日 16:32当方受信

○○新聞をご愛読いただきありがとうございます。
○○新聞デジタル(旧○○コム)にいただいたメールですが、
○○新聞社の窓口である東京本社・お客様オフィスから
返信いたします。

○○さまのご指摘を名古屋本社担当部署へ伝えたところ
下記の返事がありましたので連絡いたします。

いつもご愛顧いただき、ありがとうございます。
28日の朝刊社会面の見出しについてご指摘をいただき、ありがとうございます。

京都・亀岡の事故に続き、この日(27日)にも、千葉・館山で通学バスを待つ子
どもの列に車が突っ込み小学校1年生が亡くなる、痛ましい事故がありました。
東海地方でも、岡崎市で同じ27日に同様の事故があり、○○新聞を含め大きく報道されました。
○○さまも、昨晩のNHKなどテレビニュースでごらんの上、朝刊をごらんになったの
だろうと推察申し上げます。
 
このニュースに関して、重傷女児ではなく、軽傷男児について見出しを付けたの
は、夕刊作業中で判明した事実と、その後の取材でわかった事柄に変化が生じたためです。
それは当初重傷としていた男児が2週間のケガであった、ということです。
これに焦点を当てて付けた見出しが「岡崎の車突入 男児軽いけが」という見出しです。

しかし、「岡崎車突入女児重傷事故 男児は軽傷の見立て」など、朝刊で初めて
このニュースに接する読者の方に配慮をした見出しの形になっていれば、
○○さまに疑念を抱かせることはなかったかと、ご指摘を受けて気づきました。

この点に関し、○○さまにご不快の念を抱かせてしまったことを申し訳なく思っています。
今後の紙面づくりに注意を払うチャンスをいただいたと思っております。
今後もご愛読いただければ幸いです。本当にありがとうございました。

これからも○○新聞をよろしくお願いいたします。”

皆さんはこの新聞記事をお読みの方ばかりではないので、分りづらいと思いますが、凡そは爺の義憤が分ってもらえると思います。回答文にもあるように日本中の誰もが、京都・亀岡の事故に義憤を感じない人は無いでしょう。無免許の18歳の無職少年が夜中遊び回って居眠りで集団登校の列に突っ込み、26歳の妊婦と小2の女児(7)二人が死亡、意識不明の重態2人、重軽傷6人となったと、24日報じたばかりではないか。

しかも、この死亡した女性は2週間前に小1に入学した女児(6)が学校に慣れず登校に付き添っていた。次女(4)を育てながら歯科医院で働き、3月に辞めて出産に備えていたとある。この2幼児は大事な母親を亡くしたのだ。

この○○新聞の記事中に大きく紙面を割いて、”「おとなしい子」容疑者の父話す”という見出しで、父の言い訳のようなコメントを、加害者の肩を持つような形で報道をしているが、こんな記事はなぜ必要なのか、これにも義憤を感じていた。

そこへ、25日の記事「亀岡署が加害者の父に被害者の10人の住所や電話番号まで書いたリストを渡したという、とんでもない個人情報保護法違反だ。

そこへ今日の○○新聞の見出しときた。私のブログで事の経緯をアップして読者の皆様の判断を仰ぎたい。勿論この記事内容はこのまま○○新聞へ今から、その旨公表すると返信します。
みなさまは、事故、警察署の対応、新聞報道のあり方、私の抗議や回答をどう思いますか。



仏教講座

2012年04月28日 | お寺参り

東建多度カントリークラブ・名古屋 クラブハウス正面の花

4月28日(土)大型連休初日である。絶好の日和になり、ここ美濃の国、濃尾平野は新緑の真っ盛り、車もクーラーが要る。日頃あくせく働いているニ男をホームコースのゴルフに誘ってある。直前は出張なので当日朝までに来るとメールがあった。長男の長女が大学、三女が中学へ入学したのでお祝いでもと言っていたので、その請求のためでもある。
稼ぎ時の休日に二人の組では勿体ないので、希望者があれば誰かを入れても良いとゴルフ場のフロント嬢に言ってある。

過日4月20日は仏教講座の日 母の葬儀でやや疲れがあったが初七日の日でもある。大きな本堂でお勤めした方が功徳になるかと、少し無理して出かけた。
別院に着いてショルダー・バッグを忘れたことに気がついた。財布も免許証も不携帯で運転した。幸い入場券はお経の本と一緒に別袋に入れていたので、入堂は可能なのでそのまま受講した。

今日の講師は遠く山陽地区というところからお出でになった僧侶の講師である。中国地方だろうが何県なのか分らない講師紹介のパンフをもらった。

議題は難しい演題であった。後でこれは親鸞聖人の正像末(しょうぞうまつ)和讃の一節で、人間がだんだん小さくなって行ったと云う意味だと説明された。

受付で2枚の講演要旨・レジュメが渡されたがこのタイトルも高尚だった。一枚は西洋の思想家の著述が箇条書きされていてこれまた難しい。今日の講座は理解に骨が折れるなと思ったらそのとおりだった。

始まって先ず「真宗大谷派以外の聴衆は手を上げてくれ」と求められたが、意外にも誰一人手は上がらなかった。「仏教講座と銘打っているのだから、他宗派の方でも連れを誘って参加されることが好ましい」といわれた。

講演はテーマと予告メッセージ、レジュメがそこそこに関連してないと聴衆は戸惑う。講師自らあちこち飛んでと二度言われたし、失礼ながら何を伝えようとなさっているのかよく分らない講話だった。坐った前のご婦人も正座を崩したり足を揉んだりされて、時が過ぎるのをひたすら待った。

がんセンター名誉総長垣添忠生氏は研修医のとき、師匠の先生にレポートを持っていくと内容を読まずに「黒すぎる」と突き返されたそうだ。難しい漢字を使い過ぎているという指摘で、女子中学生にも理解できるように書きなさいという指導だったとか。それから先生は難しい内容であればあるほど、誰にも分る文章を書くように心がけたそうだ。(「妻を看取る日」)

真宗の新興宗派「親鸞会」の高森顕徹(けんてつ)先生の講話は実に分りやすかった。「死んでから極楽へ行って幸せになれる、などという無量寿経(大経)、阿弥陀経(小経)を、現代人に一生懸命説いたところで誰もついてこない。苦しく悩み多い今を救ってくれる宗教でなくて、何が宗教だ」と話されたことがある。そのとおりだと思う。

質問時間になって「幅広いテーマのお話だったが、自殺者が多い現状をどう思うか」聞かれた。答えは「個人の問題に矮小化せず、社会の問題と捉えるべきだろう」との主旨のお答えだった。


エンディングノート

2012年04月27日 | 日記

母の死去、葬儀を済ませてほっとするが、何か空しさを感じるのも事実である。

十億の人に十億の母あらんも わが母にまさる母ありなんや
暁烏 敏(あけがらす はや 1877~1954 宗教家)*

葬式も兄のお陰で盛大であったが自分が死んだらどんな葬式を望むか。昨年私の所属する元会社の「労働組合退職者の会」県支部が20ページの「エンディングノート」を送ってくれた。ボランティアで会の支部に勤める友人は静岡県支部作成を見本にしたといっていた。

無声の人になった際、遺族が困らないよう日常的引継ぎから、終末期医療の希望、どんな葬式を望むかなど意思表示しておくのも大事だろう。私は年齢的に十分その域に達しているし、母は例外だったのだ。
最近は家族葬が多いと聞く、一部の僧侶は家族葬を否定される文言も見るが、最近は葬儀社ビジネスに主導されている。母の葬儀会場も女性が和服を美容師に着せてもらう部屋が、家族葬の場にもなるしつらえと聞いた。
私の場合は盛大な葬式など望むべくもないし、むしろ質素に静かに世間に知られることなく、家族と一部親戚だけの身内のものだけに送ってもらってこの世を去っていきたい。新聞のおくやみ欄掲載も辞退がいいと思っている。いよいよとなると気が変わるだろうか。

盛大な送り方をしてもらった母は経済の活性化には貢献しただろうが、その分兄が今まで世間に金銭的にも負担してきたし、これからもお返ししていかねばならないと、親戚が初七日の精進落としで私に言った。

散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ 細川ガラシャ

暁烏 敏氏のこの歌は”松任駅前の銅像のプレートも刻まれ、観光バスに乗ればガイド嬢たちが歌って聞かせるという。いまや歌人暁烏敏を代表する歌といっていい。”
出典:「地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし-小説 暁烏 敏-」 石和 鷹 著」 1997年刊 新潮社 第8回伊藤整文学賞受賞 
 この本はなかなか読み応えがあった。自ら求めて蔵書になったし、その前に図書館にも希望図書で購入してもらった。ネットにあるお坊さんの適切な書評があった。


父方の系譜2 紋章

2012年04月26日 | 日記

紋章 菩提寺

久々野町史(全)昭和32年11月刊 806ページ 伝説編 伝説
 
『長円寺と與藤次』
小谷の長円寺はもと見座にあって日觀ヶ岳の武士が建てたので日觀山長円寺という、當時お庭にあったこぶしが今も残っていると云われ、後今の小谷に移されたのがこの寺の前の御堂は柳島の與藤次の養子權太郎が建てたと云われる、その頃長円寺は甚だ衰えていたのでこの人住職同様にして出入りしていた時建立したという。
與藤次は北條氏政の家来で主亡びて飛騨に入り一時柳島にかくれ、或時妻の病むところとなり浅間神社(富士神社のことか)に代参祈願した為全快してから柳島に永住したのである。與藤次の家は次第に衰え高山の天木屋某なる茶賣りと親しくなり、何時しか寶物を盗まれてしまったが、小谷のお寺に北條の定紋が残り唯一の證據とすべきものとして今に伝えている。

鱗(うろこ)紋の由来
家紋は、日本の伝統と風土の中で生まれた紋章であり、家族、同族の象徴(シンボル)である。

三つ鱗
魚の鱗という意味だけでなく、三角模様として用いられたものであるようだ。また北条時政が(鎌倉幕府の執権)が子孫繁盛を祈った満願の夜、大蛇が現れ、その後に鱗が3枚落ちていたということから三つ鱗を旗印に使ったという。(出典:日本家紋大全)

三つ鱗紋を用いて有名になったのは北条氏。鎌倉草創の初め北条四郎時政が江ノ島の弁財天に参籠して子孫の繁栄を祈った。
37-二十一の満願の夜、赤い袴をはいて柳裏の衣を着た端麗な女性が忽然と現れ、時政に伏したかと思ったら、30丈ばかりの大蛇となって再び伏し、やがて海中に姿を消した。その跡におおきな鱗が3枚残されていた。
時政は所願成就と喜んでその鱗を旗印とした。(出典:日本家紋総覧)

以上が菩提寺と我が一族との関係です。このお寺でお礼参り、母の「還骨回向」が焼き場の帰りすぐ行われました。

   
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付録)
北条時政とは 伊豆の北条から起こって鎌倉幕府の執権となった人が北条時政、源頼朝の妻、北条政子の父。政子は頼朝亡き後、北の政所(まんどころ)といわれ政治に関与した。

北条早雲とは 駿河の名門今川家の今川義忠の妻が早雲の妹であった縁で(叔母との説もある)、今川家に仕えていた。出自ははっきりしない。伊勢の関氏の氏族との説が一般的、早雲ははじめ「伊勢新九郎長氏」(いせいしんくろう ながうじ)といった。この時代の武将は氏素性を重んじた。秀吉は世に存在しない豊臣なる氏を創始し、家康さえも名門の氏を欲しがり松平から徳川へと改姓した。
伊豆韮山城に北条という人がいた、主人が病没したので長氏は未亡人を側室にし、政略結婚し北条を名乗った。鎌倉執権、時政にならい「北条早雲庵宗瑞 (ほうじょうそううん あん そうずい)を名乗り、関東一円を制覇し小田原城主となり関東随一の覇者となる。時政と区別して「後北条」という。(出典:人物日本の歴史 巻9 戦国の群雄 北条早雲 早乙女貢 著 1975年刊 小学館)


父方の系譜1 五輪の墓

2012年04月25日 | 日記

父の系譜 開祖の墓 五輪搭

昔、平民は名字帯刀をゆるされませんでした。ファースト・ネームの名だけで、名字の付く人は身分の高い人、武士などです。
私の名字、姓の由来が、郷土の町史に載っています。

久々野町史(全)昭和32年11月刊 928ページ 宗教編 寺院
『柳島の伝説』
柳島の開祖 ○○與藤次は現今の○○○○の先祖と云われるもので今より凡そ470年前北条早雲の末族某、飛騨の国今の上宝村に入り程えて当地柳島に三人兄弟移り住んでいたが、兄はこの地に一宇を建立し弟は朝日村小谷に長円寺を建立した。
なお末弟は高山に出たと云うが詳でない。当時飛騨は姉小路の勢力下で與藤次は、尹綱(まさつなに仕へ盡忠の心厚くその功によって○○の姓を賜った、後出生地である駿河に趣き祖先の守護神富士浅間大明神の御分霊を奉戴して柳島に社を作り氏神とした、幾年か経て山崩れの為寺は埋もれたので柳島の中程に改めて設けたと云うが、中央の森林中の墓地には今も古びた五重の墓がある。
明治の末期に川を隔てた道路ばたに出て店をひこうとしたその時、宅地のあとを掘りかえしはずみに石臼などと共に五輪の墓も出て寺のあったことを物語っている、更に之を裏付する古文書もあったと云うが百年前古物商が買取ったと云う。 
(原文は「彌藤次」宗教編は「與藤次」)

これが私の系譜・開祖の歴史です。見出し写真はその五輪の墓です。わが在所の家の裏、田んぼ1枚の指呼の距離にこの墓があります。

この開祖の家は現存し、代々の当主のお名前も当代、先代、先々代とも、系譜を正しく継ぐという意味の1字を当てたお名前です。氏素性に誇りをもち名前に表わされているのですね。 現在もこの開祖の家は現存し道端でご商売をやっておられます。

60数戸の集落中14~5軒が○○姓を名乗ります。在所の家の裏地に○○一族が始祖の五輪搭を中心に、一箇所にかたまって墓地となっています。他の名字の墓も2~3基あります。

十数年前道路拡張により墓地が改装、区画整理し門扉が新設され、門扉には鋳鉄製で「○○家重代すいぎのした墓地」と「紋章」が左右に掲げられました。
また五輪搭は開祖家の墓の横にあったのを、墓地の中央一番奥に配置換えし、両脇に燈篭が建てられま、本家の個人墓から一族の共有墓、共同管理に移管されました。この五輪搭を中心に分家墓は二列に並べて区画整理されました。

「すいぎのした」とは杉の下の訛りで、子供の頃は杉や一位(あららぎ)の古木の森で、蝉取り場所でした。改装して森は無くなりました。

紋章は「丸に三鱗」(丸に みつうろこ)です。これは北条紋といいます。菩提寺の紋章にも関係があります(別稿)。私が入る墓も当然北条紋の丸に三つ鱗です。

私の倶会一処(くえいっしょ) (阿弥陀経)

付録)興味のある方に
・尹綱とは⇒ 姉小路尹綱 あねがこうじ まさつな  生年不詳~応永18.8(1411) 飛騨国司 「応永飛騨の乱」で討死して600年、2010年にこれを記念する特別展示が、飛騨市古川町で行われた。
・一般には尹綱(ただつな)とも読むが、まさつな。古川にいた。京都の国司家である姉小路家から国司として派遣されていた。南北朝の頃で守護は北朝から京極氏、国司は南朝から姉小路氏が派遣され二重支配
・尹綱の首塚は高山市国府町にある。


母を送る6 帰宅

2012年04月24日 | 日記

小中学校跡地の二宮金次郎像は淋しそう

母の葬儀は多くの皆様方のお力添えのお陰で立派な葬式を出していただきました。
死去の日(土曜日)の午後、隣りの下呂市長選の応援の途中立ち寄ったと、自民党現職国会議員先生の弔問まで受けた。

「ある勝負師の生涯-将棋一代 木村義雄 文芸春秋、埼玉福祉会(大活字本)」
を、大分昔読んだことがある。木村名人は幼い頃祖父が亡くなって、家が貧乏なため葬式を出せないから、朝まだき、町の人々が起きてこないうちに、リヤカーを借りてきて人目につかないように、父と火葬場へ祖父を運んだ。何としても普通の葬式を出せる身分になるために、縁台将棋から名人になる・・自伝を思い出した。

穏やかな飛騨路の春がつづいて、昔なら葬式洗濯の日、今日はお客が泊まった布団干しに絶好の日和となった。農耕の時期の早い飛騨では絶好の葬式時期でもあった。
小中学校の級友の女性が、人工透析を長く受けていて入院していると聞いていた。
見舞ってやりたいと姉に近隣の方に電話してもらったら、未だ入院中で飛騨市古川町の病院だと分かった。30kmくらい、午前中に見舞うことにした。

途中、祖先のルーツを再確認するため高山市図書館へ立ち寄った。合併前の旧町史を見るためだ。受付で案内してもらい閲覧し手続きしてコピーを取った。この図書館は昔は小学校の跡地、校舎はその後長く古びた市役所の庁舎として使っていた。

またも道草して、新築移転し5月1日に開院する、母の最後を看取ってくれたJA系新病院を見に立ち寄り写真を撮った。全駐車無料、全個室トイレ付きという豪華病院だそうだ。

古川町の病院はすぐ見つかった。見舞い時間外なのを謝って、2階のナースセンターを教えてもらい行くと、彼女は透析中で12時過ぎまでかかる由。待てるか聞かれ事情を話しお見舞を預かってもらえないか聞いたが、予想通り駄目だといわれた。
諦めて受付へ戻りそう話すと、案内嬢が気を利かせてくれて奥の事務員数人と相談し透析室へ電話してくれた。

自分の名を聞かれて、透析中なのに会わせてもらえるとのこと、案内されて透析室まで闖入する横着になり、担当ナースさんがベッドまで案内してくれた。
彼女は昨年9月の同窓会も欠席したし、ベッドに寝たままで少し元気が無かったが喜んでくれた。
透析中の患者は20数人、大いに迷惑をおかけし、慢性のお気の毒な患者が多いことにも驚いた。

予定通り12時前に姉宅へ帰宅し、遠く広島から姉の孫娘の若夫婦が会葬してくれて、彼女らと昼食を共にできた。彼女らは昨日夜は高山市のホテルに予約が取ってあったらしい。
泊まったホテルの裏が昨日の午後火事があって、民家3軒が焼けたと云う。その地に夜間高校の級友のレンタル・サイクル店があり、裏二階が焼けていたという。

帰宅経路を変更し見舞って帰ることにした。火事現場は通行止めで、商店街青年部が後片付けをしていた。半焼した家へ入り声をかけると、ヘルを冠った軍手の級友が「おや、お前は○○ではないか」とすぐ分った。隣りのパン工房からの類焼で、全焼と変わらないと気を落としていて、外側を何とか再利用して再建したいと嘆いていた。些少の見舞いを渡して早々と辞去した。

郡上八幡経由の道中は疲れで眠気が襲い危険で、車中休眠を何度も取ってゆっくり高速に入り、ようやく長い母の葬式は終わった。

      

 


母を送る5 野辺送り・お礼参り

2012年04月23日 | 日記

心配した天気にも恵まれ葬儀の日は春爛漫となった

葬儀の式次第 (仏教早わかりエッセンス事典 土屋書店 1990刊 引用)
1、遺族・参列者入場 着席 (今回は遺族は開式5分前まで玄関で出迎え、最後に入場した)
2、導師入堂
3、開式の辞(司会者)
4、読経
5、弔辞・弔電披露 (今回は導師退場の後に弔電披露・奉奠された)
6、導師焼香(今回は堂内に前横に埋め込み仏壇があり、最初の読経、次いで祭壇前へ着座前に焼香)
7、遺族焼香
8、導師退場
9、喪主または代理人挨拶
10、閉式の辞 
この後棺が祭壇からおろされ、内輪の人の「最後の対面」、「別れ花」を入れ「釘打ちの儀」となりますが、釘打ちは最近は少なく、身内が棺の蓋を吊っておろし蓋をした。
「出棺」は身内が棺を捧げて、玄関に待つ霊柩車に運ぶ、喪主は遺影を、次に骨壷を持って棺がつづき、霊柩車に安置したら、喪主・遺族は参列者に向かい、見送りお礼の挨拶となるが、今回は一礼のみだった。
火葬場は合併前の旧町の火葬場が使われ、焼却炉の前の祭壇で「おさめの式」の僧侶の読経が行われた。係りの説明があり炉の前まで棺を皆で進め、閉扉、施錠、炉の火入れスイッチは喪主がやり炉の鍵を預かった。

葬儀開始が10:00~出棺11:00ちょい過ぎ~15kmの道中~点火12;00前~「骨上げ」は13:30過ぎくらいだったか・・皆さんのご協力で順調に滞りなく進捗した。

炉の点火から骨上げまで、親族は休憩室で、お斎の振る舞い、酒、ビール、オードブル、寿司盛りのお定まり。お手伝いのおばさんが1人、お酒の燗を付けていただき感謝です。

無事骨上げも終わり、バスは一度家の前で停まり、そのまま10kmの菩提寺へ、本堂で「遺骨」を宮殿に飾り「お礼参り」の勤行、(これを「還骨回向」と云うのか?)宮殿に向って左席を男性、右席を女性と、住職が指定されたが、少し形式が過ぎるかなと思った。

終わって帰宅、5時頃だったか僧侶がお出でになり「初七日」法要が行われた。ここではお経「阿弥陀経」が読経された。遺族、参列者の焼香はお盆に香炉を順送りに回され、賽銭を100円程度お盆に載せる。
全て終わって、座敷で「精進落とし」の振る舞い。ここから遺族は下座に坐し、喪主がお礼の挨拶をして、僧侶の「いただきます」の音頭で慰労宴は始まった。
最近、初七日にもパック料理を取るので、2,000円のご仏前を持つと葬式相談で決められた。
宴は約2時間くらい、閉会の辞を葬儀委員長の母の実家の惣領が、母の歴史から説き起こし、感動的な締めをしてくれた。
皆様に大変お世話になって、立派な葬式になり婆ちゃんも喜んだでしょう。
大変ありがとうございました。

  

付録)
・通夜・葬儀の喪家の留守番役が大事な役目、お願いする人も限られるし、大事な裏方でお世話になった。
・今回の葬儀会場は遺族席を祭壇に向かって左側に設定された。会場がお堂の廊下が左側にしかないせいだろう。通常は祭壇に向かって右側が遺族席、近親者の席となっている。祭壇に向かって右席が上位席となる。
・高山の葬儀屋、花屋さんは喪家に供花を届けたという「目録」を渡さない。10数年前もこの葬儀社にお願いしたが改善されていなかった。親族が仏花として貰って行く花は希望数を束にして用意してくれた。


母を送る4 葬儀

2012年04月22日 | 日記

遺影

母は満108歳と46日、市最高齢者として天寿を全うしました。
先ず、ご厚誼賜りました皆様や老人施設、病院の皆様に、心から感謝とお礼を申し上げます。 2月7日の診察、そのまま入院が生まれて初めての病院体験とのことです。

母は、ことばあちゃんと皆様から愛され、親しまれて、人柄は人付き合いを大切にされ、争いを好まず、自己主張せず、映画ゴッドファーザーのドン、ピトー・コルレオーネのようにファミリーの中心・存在感がありました。

母方の略系図です。
曾祖母    曽祖父 文政6年(1806)~明治40年(1907)江戸後期102歳
 ↓       ↓
祖母----------祖父 文久2年(1862)~大正13年(1924)戸末期63歳
         ↓
------------------------------------------------------父
明治37年(1904)~平成24年(2012) 108歳   ↓    明治20年(1887)~昭和36 年(1961)76歳
                         姉--長男--ニ男(私)--弟 
・他に娘3人を3歳で下痢嘔吐症(白痢)で亡くす、男の子1人を死産。
・直系 子4人、孫9人、ひ孫19人、玄孫4人

母は尋常高等小学校を、今の小学校卒と同年齢の12歳で卒業し、愛知県一宮市木曽川町の織物会社へ働きに出たのが最初の就職です。仕事の内容は子守だったとか。
その後木曽へ糸引き女工に出ます。歩いたり、馬車で下呂市から加子村舞台峠を越え、中津川市坂下町へ出て、そこから汽車で木曽へ行ったそうです。

夫は連れ添い運が悪く初婚の妻に結核で先立たれ、後添いとして初婚の母が大正14年(1925年)21歳で17歳も歳が離れた父と結婚しました。

母の兄と夫となる人が仲が良く、自然にそういう話になり、勝手に決められてしまったとか。
当然母には嫌な縁談で、相手の弟から「今夜お前を貰いに行かれるぞ」と、初めて聞いて驚いて、曾祖母が嫁いでいた隣村へ逃げた。
そこがお祭りだったので見ているところへ、兄が来て説得されお宮の鳥居にしがみついて抵抗したとか。昔語りによく聞きました。
話を決めず木曽へ糸引きに出ますが、正月が来て帰ると縁談が再発するので、帰省しないと舎監に告げて許され、正月を過ごしていたら「父危篤すぐ帰れ」と電報が来て、ウソ話だと思って帰ったら本当に父が危篤状態だったとか。

諦めて歳の離れた再婚の夫と嫌々一緒になったのですね。

曾祖母は高山市へ嫁ぎますが、連れ添いの死別で幼い娘を連れて実家へ戻り、娘は子供養子に貰われ成人し、母にとっては父に当る祖父と連れ添った人です。

曾祖母はその後隣村のお寺へ再婚し嫁ぎました。そこへ逃げたのですね。

今日は母の葬儀式。今日の葬式には壇那寺の老導師、若の伴僧と、昔のご縁で血がつながる母の曾祖母の寺から老若二人が伴僧で、儀式は4人のご法中(ほっちゅう)様です。僧侶の呼び方も難しいですね。
焼香に呼ばれたら、前に進み先ず導師の架ける釈迦の教えの象徴、七条袈裟に合掌表敬します、導師に表敬するのではないと、終わってからは合掌せず導師に軽く一礼と、この僧侶の教えです。伴僧は五条袈裟です。

60数戸の集落内に父・母の両本家とも現存し、今回の葬儀は両本家の惣領が仕切りました。系図は過去に母の実家の香典帳で調べたものです。祖母の香典帳は見当りませんでした。
結婚年齢などは役場へ兄嫁の死亡届に行ったついでに、父の除籍謄本を交付してもらい家族史を調べました。
兄が60年もの間、某経済団体のお世話になり昨年6月退任したので、盛大な葬儀になりました。

母の存在は心のうちのどこかにあって、実在は幾つの歳になってもいいものでした。
貧乏百姓で長い苦労の多い人生お疲れ様でした。ばあちゃんありがとう。合掌

付録)
・高山市人口統計 2012年4月現在 男性44,133  女性48,728 計92,861人 
 


母を送る3 通夜

2012年04月21日 | 日記

前が開けた見晴らしのいい家屋敷で台風の夜は大変でした

通夜の日、16日は昨日に増していい天気になりました。予報では明日葬儀の日の天気が心配です。テレビのデータ連動ボタンを押し予報を皆で確認しました。

午後3時半「湯灌」(ゆかん)、4時半親族バスが高山市の葬儀会場へ自宅前出発、6時半一般会葬者バスが公民館前出発、親族には会場で通夜前にお斎の振る舞いの予定です。
寸分狂わず斎場の霊柩車が到着しました。霊柩車は宮型でなく、バン型のクラウンを頼んだとのことでした。いよいよお別れかと、少しセンチメンタルになりました。
そして軽のバン型車が同道してきました。納棺師の車で中年の御婦人でした。

先ず遺族に正座してご挨拶され、遺族の間には衝立屏風を立て視線を遮蔽されます。
湯灌
と納棺師は2008年公開の映画「おくりびと」で、意義と存在が広く認識され、モントリオール世界映画祭でグランプリを受賞するなど、私も見たがいい映画だった。「もっくん」こと本木雅弘の演技が光った。映画のような華麗な指裁きは見えなかった。

飛騨の我が家のあたりでは、湯灌をユカミと訛って言われる。
”湯灌とは、清らかな姿で死出の旅路に旅立たせるもので、昔は遺体を湯で拭き清めていた。だが最近はアルコールを浸した脱脂綿かガーゼで拭く。その際男性は髭剃り、女性なら薄化粧をほどこすなどして(つまり死化粧)、旅立にふさわしい姿にしてあげるのである。
湯灌、死化粧が終わったら、次は「死装束」を着せる。経帷子(きょうかたびら)に手甲(てこう)、脚絆(きゃはん)というのが本来の死装束だが、必ずしもその必要はない。
むしろ最近では、本人が生前に一番気に入っていた衣服を、左前に着せて納棺し、経かたびらは、遺体の上にかける方式が一般的である。なお浄土真宗は冥土に旅立つという考え方はないため死装束はしない。”(以上仏教早わかりエッセンス事典 土屋書店引用)

母の死装束は浴衣を着せ、その上にビニ製模造の着物の前側だけを、いかにも和服のしつらえで重ねていった。最後に模造の草履を足の先に出した。手甲は無かった。
三途の川の渡し賃、六文銭をズタ袋に肩掛けして入れる場合もある。千円札でも入れようかと聞いたら、その必要はないと言われた。

全て終わって遺族の近いものから順に、アルコールをガーゼに侵したパッドを貰い、手足顔を少し拭く儀式があった。化粧が落ちるので顔は余り強く拭くなと案内された。この儀式は初めての経験だった。

棺に入れる遺愛品は午前中に喪主、長男、嫁、姉が見繕って用意していた。杖を必ずと電話してくれた人もいて1本入れ、残った杖1本ずつを私と弟が唯一の遺品で貰ったが、少し早いので84歳の姉にあげました。ディサービスで作ったカレンダーは、折り紙細工を貼ったしゃれた作りの色鉛筆の塗り絵、平成16年からの連絡帳なども入った。

ニ男がアメリカへの高校生交換留学で貰ってきた新約聖書にあります、
マタイによる福音書 27-59 ヨセフは死体を受け取って、きれいな亜麻布に包み、
ヨハネによる福音書 20-40 彼らはイエスの死体を取りおろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香油を入れて亜麻布で巻いた。

どこも同じですね。
予定時間どおり4時半過ぎ、納棺した遺体を霊柩車に載せ、二人が同乗する段になり、喪主と長男は羽織袴に会場で正装・着替えるため普段着なので私と弟が霊柩車に乗った。家を出るとき「ぽわーん」と弔鳴を頼んだ。
東京の桐ヶ谷斎場で義妹の舅を送った時は、近隣迷惑でポワーンは鳴らせないといった。
親族バスが続いた。道中に二度運転手は会場へケイタイした。係員が整列して出迎えてお棺を運び込む為だった。

霊柩車に親族バスがつづいて、到着してお斎となり式前にビール、酒の振る舞いだった。これはこの地方独特の、どうかなぁという習慣かも知れない。

7時半開式前、遺族は玄関で整列して出迎え、参詣者の多さを式場が心配し、屋外にテント受付と式場の廊下を一部抜いて広げ、椅子を300人程度となった。

続々と参詣者が来てくださって、予定時間きっかりに通夜式は始まった。導師は壇那寺の老若の二人。老僧は若い頃は本願寺の堂僧なので、声のよさと読経の音調に定評のあるお方。

式は30分で終わった。古いしきたりを守る寺院で通夜に焼香がない。式の前に焼香がないので僧侶退場後ご自由に銘々ご焼香下さいと案内されたが、最後にもそう案内してもらうとよかった。都会では喪主のみ呼び上げて焼香し、参列者が銘々後に続く。こういうふうに現代風に改めてもらいたい。遠路より通夜だけの参詣者も多いからだ。

お勤めは通夜式も葬儀式も「正信偈」(しょうしんげ)である。終わって参詣者に向かって説教される。
「なごりおしく思へども、娑婆の縁尽きて、ちからなくして終わるきに、かの土(ど)へ参るべきなり・・歎異抄第9条の私の好きな一説が枕詞ではじまり・・なぜこの世に生まれてきたのか、一度自分自身に問うていただきたい・・」との終句だった。

玄関口でお客さまを整列してお見送りして、やれやれ終わった。お棺は遺族休憩室へ運び込まれていた。
ここで、遺族休憩室へ親族や2升持ち親戚は移動し、残った料理も移してあって、お斎の二次会だった。

お斎の巻き寿司盆、サンドイッチとオードブルが沢山余った。お手伝いさんのおばさんに聞くと陽気も悪く無いし、田舎のことなので持ち帰り黙認しますとのこと。
在所の長男が嘆くのを無理してモッタイナイから、家でも残ったら畑に捨てよと、大風呂敷にいくつも包んで持って帰らせた。
私と今夜は4人で不寝番、姪の旦那は残った飲み残しビールを腹へ整理し、冷蔵庫から数本とよく飲んでくれ、お袋は喜んだだろう。
風呂もあったし寝具が3組、寝たければ寝ればよいと気楽な不寝番だった。