3月も今日で終わりです。明日から値上げの幕開けです。
昨日の夕方冷蔵庫も空になったので何か買い溜めでもするかな、とスーパーへ出かけました。家を出てすぐの大通りへ出ようとしたら向こう正面にレッカー車が来ていて、軽乗用車が歩道に乗り上げています。
また事故ったなと、交差点を左折し一回りして自宅へ戻り駐車して歩いて現場へ見に行きました。
新車のような軽が追突され、後ろはペチャンコ。鉄板がタイヤに当たるためレッカーのお兄ちゃんがバールでこじ開けていました。男3人が話し合っていました。当てた車は見当たりませんでした。信号機がなくよく事故がある交差点が自宅のそばなので困ってしまう。歩道に人がいなくて良かった。
スーパーでは結局買い溜めせず、サンマ1尾、生サバ、豚ロース生姜焼き用、洗い生姜、鰤あら(フライパンでバター焼きする)、ピーマン、レタス、野沢菜、チョコレート、メキシコ産メロン(中玉)198円これはお値打ち、の10点1,400円弱を買いました。
鰤やサケのアラはお得意です。198円くらいで量が多い、簡単料理で美味しい。
野菜のレタスは胡麻タレでよく食べるし美味しい。ブロッコリーとカリフラワーは買いません。
理由はもう7年目になるかな、違和感を直感して総合病院へ行ったら、いきなり膀胱がんが見つかり、膀胱鏡で目の前のモニターにデカデカと2,5CMもあるがんが見つかり、先生が「こりゃ見事なカリフラワーだ」と感嘆されたトラウマがあるからです。
カリフラかブロッコリーそのもので、3分の1はイソギンチャクでゆらゆらしていました。
1年後にも良性5mmができて計2回、運よく内視鏡で削り取ることで助かりました。
その後大腸がんになり、直腸を失くし頻便・頻尿に困っている。特に膀胱がんはタバコのタールが良くない。
・膀胱を失くすと「回腸導管」といって小腸の最後の部分(回腸)を15センチほど切って離し、そこに腎臓2本の尿管を縫いつけます。そして一方の端を閉じ、もう一方の端を脇腹に縫い付ける。その穴を覆うように、脇腹にポリ袋(パウチ)を張り付けて、尿でいっぱいになったら、下の栓を抜き排尿する。
・もう一つの方法は「回腸膀胱」。腸を使って代用膀胱をつくるというのがあるそうです。8時間から10時間かかる大手術で医師は交代で昼食をとりながらやるということです。
・私は有茎性のキノコ状のおできでした。カリフラワーやイソギンチャクはおとなしいがんで1年くらいほっといても別の臓器に転移することはまずない。
・茎のないがん、アワビのように膀胱の内壁にこびりついているがんは、表面はたいしたことはなくても、粘膜の下や膀胱の筋肉層まで根を張っている、増殖が速く、転移もしやすいので膀胱を全部取ることになる恐いがんです。
(「このがんこの病院」朝日新聞科学部編 膀胱がん 国立がんセンター 垣添忠生先生の解説 後、がんセンター総長を歴任された)
とにかくタバコは410円が430円に、この際止めるべきことは言うまでもありません。
28日、中国の習国家主席はドイツを訪問し、首都ベルリンで講演、日本批判を展開した。
・70年前南京大虐殺で30万人以上を虐殺した。日本の侵略戦争で中国人3500万人が犠牲になった。
・友人は選べるが隣人は選ぶことができない。等々日本批判のオンパレードだった。
・中国はホローコースト(ユダヤ人大量虐殺)記念碑視察を打診したがドイツ側は拒否した。ドイツ側は中国側の狙いに距離を置いたため。
・ドイツのある新聞は「中国は大事なパートナーであるが、友人ではない」と報じた。
・その前のオランダでの核保安サミットではオバマ大統領が仲介し、韓国朴大統領と安倍首相の会見の場を作られた。
・安倍首相が冒頭韓国語で「パク・クネ大統領!お会いできてうれしい」とリップサービスし視線を送ったのに、ニコリともされなかった。
靖国参拝、集団的自衛権、憲法改正などなど国家主義者とされる安倍さんがよほど気に障るらしい。
週刊誌だったか「日本のレベルで彼の国を見るから腹が立つのだ」という評論を思い出した。日本に比べると中国も韓国もまだまだ発展途上国なのだ。
YOU TUBEの貼り付け画像は数日前見た宣伝ビデオです。私が全面的に支持しているわけではありません。
袴田事件はこれ以上の拘束は「耐え難いほど正義に反する」とまで断じた。各新聞の28日金曜日の記事はこの事件一色だった。
読売新聞は、事件前夜この被害家庭の長男の家庭教師をやった男性(匿名)のコメントを載せていた。概要は「事件前夜長男に教えた。次女には別の女性が家庭教師で教えた。翌朝長男も次女も惨殺され発見された。容疑者が逮捕され安堵したが、証拠の衣類が1年も経って発見されたことには捜査のずさんさを感じた」という主旨だった。
証拠の衣類の捜査の杜撰さが気になっていたら、昨日のネットニュースで江川紹子さんが再審開始の決定書を読んだと評論した記事にお目にかかった。事件の深層がよく分かった。
“事件発生は1966年6月30日。その頃のタンク内の味噌は深さ30センチほどにまで減少していた。7月4日に警察の捜査員がタンク内を覗いたが衣類は発見できなかった。同月20日に従業員が味噌の仕込みを行うのにタンク内に入ったが、この時も発見されなかった。ところが、翌年の8月31日になって「発見」されるのだ。”
こんなにお粗末な捜査だったのかと驚いた。
昨日のテレビは当時の警察・捜査員に顔をボカし匿名で取材していたのを放映した。「証拠のねつ造なんて必要ない」と言っていた。
また、袴田さんが自供した音声テープも公開していた。「大変なことをしました」と言っていた。当時の取り調べ状況では12時間越えの取り調べが連日続いたと日付毎に放映した。
この事件の真犯人はどこに潜んでいるのか、誰なのか?現職の頃清水市へは何度も行った。この近くが事件現場だと案内されたこともある。
袴田事件の当夜、自宅別棟に寝ていて唯ひとり助かった長女当時19歳が、袴田さんが解放された27日の翌日28日に一人暮らしだった自宅で亡くなっているのを家族が発見された。事件性はないと見られている。何という不幸であろうか。寂しい人生を送られたと近隣の住民のコメント画像を見た。合掌。
やりきれないね。袴田事件も、名張毒ぶどう酒事件の奥西死刑囚も私は冤罪だとずっと思ってきた。
佐野眞一「東電OL殺人事件」という分厚い本を読んだからです。当時まだゴビンダ容疑者は獄に繋がれていた。最高裁長官は「世間の雑音に惑わされるな」と組織に檄を飛ばしていた頃だ。その後容疑者は解放された。冤罪だった。
昨日の朝日には司法記者が、竹崎最高裁長官が3月末退任されることに関し「調書でなく証人で」と「手間がかかっても、大切な話はその人を証人として法廷に呼んで直接聞くべきだ。それが本来の姿ではないか」など、裁判員制度なども含め強い指導力で司法制度改革に尽力された名長官だったとコラムを載せていた。
岐阜県各務原市(かかみがはらし)の桜の名所、新境川堤の百十郎桜が咲きました。
私が住む山手の団地を降りると、すぐ境川という幅10メートルほどの排水路が流れ、両脇堤防は桜並木です。
土曜日29日の午後ふらりと桜見物、ブログ取材に出かけました。
桜は3分咲き、4月2日から6日までがさくら祭りです。その頃が満開です。
図書館の一角、市民公園はシートを引いた花見客や、家族ずれでにぎわっていました。
公園内の白木蓮は今が見ごろです。この市民公園や図書館、駐車場などは元岐阜大学農学部の跡地です。鉄道を挟んでもう一つの公園や福祉センターなども農学部の農園や実習林だったようです。市役所の近くに労せずして広大な1等地を譲渡され市民憩いの地になっています。白木蓮は今が見ごろです。
新境川を10キロほど下流、木曽川合流点には広大な河川敷を借用し、各務原市勤労青少年運動場があります。少年サッカーの試合をやっていました。
道路を挟んで反対側はソフトボール競技場が8面、野球場が2面、陸上競技場1面、アーチェリー競技場1面などがあります。誰も居ませんでした。
・今朝の新聞、袴田事件の再審開始が認められ、即日釈放された。この決定理由が正当なら袴田さんは元プロボクサーだったという理由だけで、死刑判決を受け48年も獄につながれたとは痛ましい。あってはならないことです。
証拠ねつ造が本当なら、当時の警察、検察は厳しく断罪されるべきです。当事者はほとんど現存していないでしょう。袴田さんは私と同い年でした。
・オランダ・ハーグで開催された核保安サミットに出席された安倍首相は、「アンネ・フランクの家博物館」を訪問された。東京都内の図書館で「アンネの日記」などが相次いで破られたことに「多くの日本人は心を痛めている」と表明されたようだ。
防犯カメラの映像から本を破った変質者が逮捕されたのはよかった。警察はよくやった。犯人は”「アンネの日記」は本人が書いたものではない”と、過去にあった一部の俗説を理由に本を破ったと主張した。
一部にこの俗説が存在し、オランダでは原著の日記のインクを化学分析し、当時書かれたものに間違いなく、アンネ本人が書いたことに疑いの余地もないと結論づけている。(「アンネの日記」増補版 文芸春秋)バカな変質者がいて困ったものだ。
アンネ・フランク ファンの私はこのお粗末ブログで4編もの読書感想文をアップしていた。
・「少女アンネ--その足跡」 シュナーベル著(久米譲訳)偕成社 1978.7月刊
ユダヤ人であるがゆえにナチス・ドイツの迫害を受け15歳と9カ月の短い生涯を、強制収容所で閉じた。彼女を直接知っている人たちのなまなましい証言を訪ね歩いて記録したのがこの本。
アンネ・フランクの最期(さいご)はどんなふうだったを、この本に書いてある。
アウシュビッツ強制収容所から、衛生状態の極めて悪い、ベルゲン・ベンゼンに送られる。手洗いは、自分で穴を掘った。
2月の終わりか3月のはじめ、姉のマルゴットは長いあいだ重病でアンネより先に死んでしまう。1945年の3月上旬頃、アンネはチフスで死んだといわれている。最期の2月の証言はリース=P夫人。
約束通りある夜、鉄条網超しの柵にきたアンネに、リース=P夫人は毛のジャケットといく枚かのビスケットとお砂糖と、ニシンのかんづめの入った包みを投げる。
”すると、叫び声と泣き声が聞こえました。私は大声でたずねました。
「アンネ、どうしたの?」
するとアンネは、
「ほかの女の人があれをとっちゃってわたしにくれないの」
と泣きながら叫びかえしてきました。わたしはその女の人が足ばやににげていく音を聞きました。わたしはいいました。
「アンネ。またきてね。なにかほかにあげるものはないか、さがしてみるは・・・」
そのつぎのとき、くつ下と、ビスケットをあげましたが、そのときは、アンネはちゃんとそれをひろいました。
・・・2月のその夜から一度もアンネにあいませんでした。というのはわたしがベルゼンにいなくなったからです。・・・”
袴田さんも再審で無罪となれば、アンネのように多くの教訓を残すだろうと思いました。今日は暖かく完全に春です。
午前中ゴルフ練習へ、シニアディ割引、500円で2階打席1時間半打ちっぱなしで汗を流してきました。
今日は一日中冷たい雨でした。
今日26日は小中学校は修了式の日でした。春休みです。午前中で下校した中2の孫娘が、昼寝をしていたところへ顔を出し、イオンモールへ送って行って・・と頼まれました。友達と約束したとか。仕方なく車で送ることにしました。
いつもの友達ではなく、少し離れた団地の外側の住まいの子でした。このニュータウンの前は毎日のように通りますが中へ入った経験はありません。そのタウンの外れに友達の家がありました。
5分ほど待たせたようで新しい大きな文化住宅の前に出て待っていました。
家の前は小山です。彼女に「何の山か知ってるか」と聞きました。「これはねぇ、古墳なのよ。「柄山(からやま)古墳」と言って4世紀後半に作られた。古代の尊い方が葬られているお墓。覚えておいてね」と、教えました。(写真)
すぐ近くに行政区は岐阜市になるが大きく立派な「琴塚古墳」があります。二つの間に「南塚古墳」と「土山古墳」がありましたが、戦争中開墾され畑にされ消滅し今は住宅地になってしまった。
帰りは友達のお母さんが迎えに来て送ってくれるとかで、イオンに置いてきました。
4月は旅立ちの季節です。真ん中の孫娘が4月2日京都の専門学校へ旅立ちます。
過日約束の資金援助の預金を払い出しに行ってきました。駅前の銀行支店は壊され分譲マンションの基礎工事をやっていました。少し離れた市役所前の支店へ行きました。
中年女性のロビーマネージャーに用件を言い、伝票に記入し呼び出しを待ちました。
受付機から出てくるシートの番号が表示、呼び出しされ窓口へ。
「何かお買いになりますか」と、可愛いAKB48のタレントに似た受付嬢が聞きました。
「振り込め詐欺だと困るけど、孫の進学援助なの・・」と答え、顔や年恰好から詐欺の予防応対をされました。
ロビマネのお姉さんに受付機の番号と、後に渡されるビニ札番号を一緒にできないのか聞くと、「今は昔のようにお名前を呼ぶことができなくなったためです。番号をシステム上一緒にできないので、ご理解ください」と言いました。
帰宅して押入れや倉庫、キッチン戸棚にある、捨てるに忍びない鍋や生活用品や寝具類など、自炊する孫に使える物は使えと、玄関廊下に小山ほど並べて置きました。母と見分けしてレンタカーを借りて親子が運ぶ予定です。私もそろそろ仕舞支度の時期がきています。
一人暮らしに最低必要な電器製品のパンフを量販店が送ってきていたので、それもやりました。最低金額が10万円くらいでした。この子も行ってしまうと寂しくなるね。
中山道太田宿は江戸から木曽へ、長野県から岐阜県に入り、最初の宿場町が「馬籠宿」です。岐阜県は全部で17宿、太田宿は馬籠からも9番目、京都側の「今須」からも9番目の真ん中の宿場が「太田宿」です。
”岐阜県を通る中山道---木曽路「馬籠」から美濃路の17宿
江戸日本橋から京都三条大橋まで69宿「百三十五里二十四町八間(約532キロ)。
この中山道の4分の1相当(約128キロ)が美濃国、つまり岐阜県です。
17の宿場を持つ美濃中山道は山間を通る道程で、木々や渓谷が四季折々の自然の美しさがある街道です。中でも、当時の景観を比較的残しているのが、中津川宿~太田宿間。
また平成17年2月に岐阜県中津川市に編入となった木曽路馬籠宿は、景観を保存した観光地として賑わいをみせています。”(パンフ「岐阜県十七宿散策ガイド」)
太田宿中山道会館から堤防に上がろうと下流を見るとナニコレ?三脚付高級望遠レンズの放列です。いるいる20人以上。
休憩中のカメラマンに「何を撮っているのですか」、「レンジャクです」、「ははぁ!小鳥ね」「そうです」それにしても立派なカメラだねぇ。
堤防へ登ってブログ写真を撮り、ベンチに休憩中の高齢カメラマンに話しかけました。
「レンジャクは頭の後ろがピンと跳ねている鳥ですか?」「そうです。にぶい鳥ですよ。いつも100羽くらいいますが今日は少ないね」「なるほど!ところであなたはどちらから?」「名古屋です」。ケヤキかブナなのか灌木の寄生木の実を食べにヒレンジャクか、キレンジャクが来るのです。飛騨の方では寄生木(やどりぎ)を「ホヤ」といいます。会館構内の木もホヤだらけです。
ほとほと感心して会館へ降りると、目の前の藪に鳥がきました。ウソかな?
愛鳥カメラマン達はどの方も穏やかな平和主義者に見えました。
亡妻の実家へ墓参りした帰路、木曽川沿いの中山道太田宿へ寄ってみました。岐阜県美濃加茂市です。結婚した頃は住む家もなく実家に居候して新婚生活を送り、長男と二男が生まれたところです。何年から何時まで住んだのか忘れてしまったいい加減さです。
デートしたり、自転車で幼い子供を連れて散策した思い出の太田宿です。今は整備され宿場町の面影を残しています。観光の中心施設は太田宿中山道会館で、道の駅に似た休憩所です。
30年ほど前極地豪雨で木曽川の冠水により市街に被害が出て、堤防の嵩上げがされ、太田宿から木曽川を直接目にすることは出来なくなりました。堤防の上は散策道に整備されサイクリングやウォーキングに利用されています。右岸から上流方面、太田の渡しがあった太田橋が見えます。
下流はその後できた中濃大橋が見えます。木曽川は川足が長く年中水量が豊富で増減が無い川です。
会館前が本陣屋敷跡で門のみが残されています。本陣は宿駅の中でも諸大名、公家、旗本、幕府の役人、勅使、宮家などが休泊する最も重要な施設で、福田家が代々勤めました。下流側の宿場、私が住む各務原市の鵜沼宿は本陣は現在市の施設として再建されました。上流は可児市御嵩町、伏見宿です。
本陣の表門は藥医門(本柱が中心線上から前方に置かれている門のこと)で、両袖に半間の塀がつく格式のある端正な作りです。クリックし拡大してご覧ください。
ようやく春らしく穏やかな日になった日曜日、音楽会というのか演奏会というのか、コンサートへ行ってきました。
’14岐響(公益社団法人 岐阜県交響楽団)ファミリーコンサート 定期演奏会 オペカル(オペラ+ミュージカル) 岐阜市長良川国際会議場 メインホール さらさーら 14時開演
第1部
・エグモント序曲 ベートーベン (これだけ岐響ジュニアオーケストラの演奏)
・歌劇 カルメン 第2組曲より ベートーベン
・指揮者コーナー 歌劇 カルメン より第1幕への前奏曲 ビゼー (飛び入り指揮者3人、手を挙げた6歳の男の子が可愛かった。
・カルメン幻想曲 サラサーテ バイオリン独奏 辻 彩香 東京音大付属高校1年生 特別特待生在学中 使用楽器は、NPO法人イエローエンジェルより貸与されている1840年製G.F.Pressenda。赤に黒の横ストライプ3本が入ったロングドレスですごく可愛い。技巧的な演奏を、情熱的に聞かせた。今日一番聞き応えがあった。数多い受賞をしている新人らしい。地元大垣市出身と紹介された。バイオリンの低音がこんなにきれいな音色なのとビックリ。
第2部(曲目の詳細省略)
・ミュージカル オペラ座の怪人より ソプラノ独唱 八田 亜哉香
・ミュージカル ウェストサイドストーリーより テノール独唱 清水徹太郎 (2曲目は二人の共演)
・歌劇 トゥランドットより 誰も寝てはならぬ テノール独唱 清水徹太郎
・ミュージカル ウェストサイド ストーリー セレクション
テノール独唱 清水徹太郎さんは日本のパバロッティという感じでいい声だった。
子供連れの家族も多く、楽しんできました。
(小言幸兵衛爺さんの一言)
・演奏会場 前列から4番目 木製+ビニ製の椅子が、列の誰かが動いたり大きな動作で共振する。音を立てる。足下が木製のせいか後ろの席の動作でも揺れる。興ざめ、岐阜の代表建築なのに情けない。
・開演時間 10分ほど遅れた。
・司会者が演奏者にトークしている時、音合わせするのはちょっとね。失礼でないかな。コンマスはおなじみ女性の方。
・20分のトイレ休憩は女性は並んでる人全部が終わらないだろう。建築設計士は男子トイレの3倍以上の面積を確保する設計をすべき。
・この会場は鬼才、安藤忠雄氏の設計、個人的感想は好きになれない建物、無機質で玄関から階段が多く、エントランスホールは高い天井の倉庫に放り込まれた感じ、メインホールも急階段が多く危険だ。
・建築もクラシック音楽もど素人爺さんの感想で失礼。入場料前売り千円、少し遠い球技場の公営駐車場を1時前に行き、5時頃出庫で400円だった。
会議場前は 県営陸上競技場
美濃加茂市 中山道の名刹 祐泉寺
20日は終日氷雨でどこへも行かず、21日のお中日は墓参だけ、お寺さんには御布施3千円を持参しただけでお参りはご無礼しました。
22日土曜日、風はありましたが暖かくなり、美濃加茂市の亡妻の実家へ久しぶりに墓参に行きました。
義母は今年の誕生日で94歳になると、玄関の前と前隣りさんの間、2,30メートルくらいある舗装私道を、手押し車で往復し運動中でした。
3年前に片方の膝を人工関節にして、家の中もお婆ちゃんベンツを押してよれよれ動いていました。
義弟は少し距離のある市営前平公園へ車で行き、1時間ほどウオーキングするのが日課だとか不在で、縁先で話しているところへ帰宅しました。
家へ入る前に蝋燭と線香を用意して貰い、すぐ近くのお墓へお参りしました。裏手が孫の家族が住んでいますが留守でした。仏壇へお菓子のお供えをしてお参りしました。
ばあちゃんの居間でお茶を頂き近況を聞きました。週2回のデイケア。週1回は義弟の嫁も若くして亡くなっているので、居間とトイレ掃除にヘルパーさんのご厄介になっていました。膝の水抜きに週1日医者通いです。満州からの引き上げ者で「いいことしか思い出ださない毎日うたた寝、もうお爺さん迎えに来て・・」と少し弱音を吐いていました。お勝手は弟がやっています。
1時間ほど居て暇乞いし、帰路木曽川河畔へ出てみました。白木蓮が満開でした。
レンギョウでしょうか。満開です。