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3月1日卒業式が全国で行われました。NHKは夜7時のニュースで震災に遭った陸前高田高校の卒業生答辞を放映し涙を誘いましたね。
わが母校飛騨高山、斐太(ひだ)高校の卒業式も行われ、名物となった「白線流し」も放映されました。これはローカルニュースだったかな。
在所の本家の甥っ子の愛娘もここ斐太高校を昨日卒業だった。卒業おめでとう。
私達は何度も説明しましたが、この高校に昭和29年春定時制夜間部に入学し、33年春まで3年間在籍しました。母校が焼失する不運に遭遇し、折から学校再編の憂き目に会い、最後の1年の4年生を、高山高校(山校と略称した)現在の飛騨高山高校へ転校し、卒業生同窓会名簿はここに掲載となっています。
過日ブログに、夜間高校の歌をアップしたら、級友の山登り君がコメントをくれた。彼も爺と同じように山校の歌は全く思い出せないとか。校歌の節も思い出せないので同窓会でも歌うことができない。皆大同小異で同窓会のときは資料に両校の校歌は印刷してくるが、宴会の締めに歌うのはどうしても斐太高校の校歌になってしまう。高山高校の皆さん許してください。
斐太高校は創立1886年県下でも有数の126年という歴史を誇る学校なので、歌も数多くあって愛唱されています。中でも「白線流し」に歌う「巴城ヶ丘(はじょうヶおか)別離の歌」は、特に最近知られる存在になりました。
今では廃れたが当時は学生帽に、白線2本を縫い付けて登下校するのが高校生の正装だった。その白線と女子はセーラー服のスカーフを結んで、学校の前の合崎橋のたもとの上流側から、在校生が送別歌「白線流し」を歌って卒業生を送ります。卒業生は「巴城ヶ丘別離の歌」を歌って応え、学び舎と在校生に別れを告げるのです。
”『友よ 試みに合崎橋畔に立ちて母校斐校を顧みよ・・・』 という惜別の辞に続き 『巴城ヶ丘に登り得て 春秋ここに三星霜・・・』と切々と吟ずる名曲です。”この歌も一時期は戦いに赴く友を送る歌”でもあったのです。”いざ共に歌わんかな、Eine. Zwei. Drei (アイン・ツヴァイ・ドライ)”はドイツ語です。いち、にい、さん、と号令かなぁ。昔は気取ってるなぁ。
卒業生は勿論書いておられますし、関係のない方さえ興味を持っていただき、この方(季節のうつろい)なども、巴城ヶ丘別離の歌を記述してくださいました。級友に教えられ嬉しくなって氏の掲示板に投稿しました。何とキチンと答礼されネットに今に残っています。この方は静岡市出身で今は本州西端にお住まいの由です。
母が入院した際、病室へ甥の愛娘が学校帰り道、見舞いに寄ってくれたので、「おめでとう白線流しだね」というと「おじちゃんも斐太高校なの・・」と聞くので「そうよ、俺たちゃ夜間部でな・・」と話しました。
この子も4月から親元を離れ進学が決まっているとか、巣立ちですね。前途に幸あれと祈ります。
とにかく歌をお聞きください。「送別歌」 と 「巴城ヶ丘別離の歌」を。音声データはMP3(エムピースリー)なのでいい音ですよ。
校章のトンボもユニークでこれを蜻蛉章(せいれいしょう)といいます。由緒も深いですね。
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